喜代子の折々が新しくなりましたので、このぶろぐは「旧 喜代子の折々」として保存しました。
お知らせ
2010年10月20日限界にきました
2010年8月31日このページはブログ形式を取っていますので、いつかはこういうこともあるかと思ったのですが、ついに限界にきてしまいました。表からはブログを書き込める入口も表示されなくなってしまいました。やはり10年の蓄積ですから、仕方がありません。よく頑張ってくれました。10周年とともに、少しホームページの変化も出るかもしれません。
ただ、このバックアップをワードなどに取り込みたいと思っていますが、いちいちコピーをするしかないのかどうか。 とりあえず、小休止です。
季刊誌「かいぶつ句集」
2010年8月28日かいぶつ句集」第54号 特集「潜る」より
2010年8月28日評者 ・ 黒川俊郎丸亀丸
子子のびつしり水面にぶらさがり 岩淵喜代子
俳句で「潜る」という言葉が出てきそうなのが、水鳥とか海女とかである。潜水艦や潜水夫もある。要は水面から下方に入る込むこと、行為をするものに関する俳句である。そう見当を付けるのは「潜る」に関わる俳句について、何か書けといわれた場合の常套的な判断であろう。私もその線で何か書きたくなるような句はないかと探した。
水鳥はけっこう潜っていて『よく潜ぐ水鳥のゐて沼ぬるむ 能村登四郎』『水鳥は水にもぐつて日暮れけり 鈴木郁』『水鳥の潜りだきとき皆もぐる 根岸善行』といったように並ぶのだが、あんがい海女が潜らないのである。ようやく『大き息ひとつ抱へて海女潜る 岡西剛』を見つけた。『葉桜の透き間原子力潜水艦 石井直子』『青蚊帳に父の潜水艦がいる 菊地京子』という潜水艦の俳句もあった。
だがどうも、どの句も意表を突いた「潜る」という感じではない。つまり最初の探すところから間違えているのである。こんな時は気分を変えたほうがいい。面倒でも気が向いた句集を開いていくうち何かに出会うだろうと、開いた句集が『嘘のやう影のやう』(岩淵喜代子)であった。私は岩淵喜代子さんというと『逢いたくて蛍袋に灯をともす』の句を思い出す。
彼女の句はどの句も言葉が平易でしかも自由である。『嘘のやう影のやうなる黒拗羽』がこの句集の題名のもととなった句。日常にある不確実性を深刻ぶることなくお洒落に描いた一句だが、視点の確かさや発想の豊かさに瞠目する。
そんな岩淵喜代子さんの一句。『子子のびつしり水面にぶらさがり』はまさに探していた句である。水面という境で水のなかは潜つていることになるが、それは人間の視点に過ぎない。
ぼうふらにすれば、ぶら下がっているのである。今どきぼうふらのびっしいる光景など、都会では見かけることがなくなったが、きっとどこかでぼうふらはびっしりとぶら下かって、今も水面越しに覗き込む人間を見ていることだろう。
NHK 7月4日・6日放送
2010年8月27日月刊誌『NHK学園』 筆者・西村和子
日焼子に往復切符与へけり 岩淵喜代子
夏休みの了供に一人旅をさせるのでしょう。親が切符を買って与えるというのですから、まだやっと一人で特急に乗るくらいの子。日焼けしてたくましくなったとはいえ、少年期に入ったばかりの学童でしょう。
あるいは少女かもしれません。おじいちゃん、おばあちゃんの家に一人で行って来る、そんなことが想像されます。
旅行と言えば必ず親が連れて行ったものなのに、今年は一人で行けるようになった。そんな時、日焼けした我が子が一段としっかりして来たように見えるものです。
『だれも読まない 』 --大正・昭和日本文学瞥見
2010年8月26日どこか斜に構えているような、あるいは今は誰も詠まないような本を抽出しているというのか、あるいはその両法かもしれないような題名。編者島本達夫・1936年生まれ。東京大学中退。東京医家歯科大学・同大学院卒業。1992年より2009年まで山歩きをテーマにした機関誌「山の本」の編集にあたった。編著書に「関東周辺の山」白山書房がある。
副題としてー大正・昭和日本文学瞥見ーとあるように懐かしい小説ばかりが登場する。このあたりに「誰も読まない・・」という言い方が生まれたかもしれない。それともう一点は、小説の切り込み方にも、副題は生きている。坂口安吾の「桜の森の満開の下」ー元大日本帝国小国民的読み方ーとする副題から、この小説の生まれた1947年頃は桜は軍国主義の象徴だったとする切り口に繋がる。山賊は地方出身の知識人、美女は現人神たる天皇、足の悪い女は庶民の象徴とした見解をとる。
納められているのは、
中島敦 「山月記」
坂口安吾 「桜の森の満開の下」
折口信夫 「死者の書」
葉山嘉樹 「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」
黒島傳冶 「クラーク氏の機械」
結城信一 「空の細道」
高橋たか子 「ロンリー・ウーマン」
葛西善蔵 「哀しき父」
石川淳 「山桜」
河野多惠子 「幼児狩り」
これらは正津勉の主催する小説を読む会で取り上げられたもの。それもほんの一部である。テーマになる作品は正津さん自身が決める時と、ゼミの誰彼が提案したりして毎月二回行ってからもう10年になる。淡々と続くのも、本の好きな人ばかりが集まっているからであろう。なかでも。この編者である島本氏の事前に集めてくる資料が豊富だ。
「死者の書」などは、好き嫌いが極端に拮抗していたが、この本によって一書を読みとおすことになるだろう。その率直に言える雰囲気も会が続く要因である。
櫻木美保子第一句集『だんだん』 2010年5月 山福印刷
2010年8月6日 みずいろの九月の空に指紋あり
秋うらら猫に人生相談する
電話ボックス寒夕焼が先にいる
猫のあしあとが空までつづく春
山笑う象もうぶ毛を持っている
あわゆきにふれるセロリは海の色
もーにんぐ珈琲秋風を待っている
橙や国のまわりの波がしら
振り返り振り返りして散る木の葉
どの首も頭があって春の山
万緑や家が建つまで釘の音
雨雲の生れはじめは蝌蚪の紐
体ごといつか出てゆく木下闇
人はあることないことを俳句作品にしていくのかもしれない。その無い事をあることに替えるのは作者の心であり、作者の表現力の冴えである。
電話ボックスに夕焼けが差しているのではない。電話ボックスに先に夕日がいた、というのはレトリックとも違う。空に指紋があると言われて宜い得ない人は、この句集の面白さがわからない。猫に人生相談をして、猫の足跡を空まで続くのが見えるのも才能というもの。「雷魚同人」
飯田晴第二句集『たんぽぽ生活』 2010年8月 木の山文庫刊
2010年8月5日 つまみたる山を春野に下ろしけり
たんぽぽは誰の子といふでもなく
春の暮町はつながりあうてをり
知つてゐるやうな桜になつてをり
蝙蝠の夕べ電信柱立つ
陶枕の夢に遅れてくる日暮
椅子の背に木の固さありクリスマス
炬燵寝の顔が大きくなりにけり
クレソンの根元を通りすぎる水
一日に終りがありて胡桃割る
水彩の童画のような風景がつぎつぎに展開されていく。自在な言葉使いの出来る作者だ。なんでもないない日常の風景を組み立て直して、虚実皮膜の世界を語りはじめる。「雲」同人。
出口善子第六句集『羽化』 2010年8月 角川書店刊
2010年8月5日 コーヒーを冷む裏切者が一人いて
切干のかなしき軽さ母の軽さ
六林男亡し鴨浮く水は今も平ら
急がねば春の柩車に乗り遅れる
茅花原つぎは私が消える番
サングラスに映りて他人ばかりかな
手花火の尽きて消された顔いくつ
遂に得し自由の虚し桐一葉
もみずるや明日の私を捨てる山
人生の晩年を意識した句と思われたり、明日を見詰めた句にも思われる重層性があが、
空港に女の羽化のはじまれり
によって、自身の人生への強い希求があるようだ。
岩田由美第三句集『花束』 2010年7月 ふらんす堂刊
2010年8月5日 少しづつ脱ぎて薄暑の少年は
街角で我が子に会ひぬ風光る
をばさんが走つてゆけば夏蜜柑
三人に見つめられゐて西瓜切る
前足をしまひ直して猫の秋
ひと抱へほどなる蝌蚪の紐を見し
日あたればきれいな街よ秋日和
青嵐見てゐしがもう夕方に
団栗のたびたび箒逃れては
遠くから見ればハンサム百日紅
栞で深見氏が「日常の非凡さ」と評している。それが句集の随所で諾われる。大仰な比喩も大仰な観念語を使用することなく、きわめて日常的な言語で、
団栗のたびたび箒逃れては
のように、写実から導かれていくの世界が巻末にゆくほど自在である。