2009/7/3 金曜日
『河』七月号 主宰・角川春樹 (2)
岩淵喜代子句集「嘘のやう影のやう」 選考過程
堀本 では、第二回日本一行詩大賞選考会を始めさせていただきます。今年は句集が41篇、歌集が20篇、総数61篇集まりました。その中から日本一行持大賞の句集が36篇、歌集が16篇、合計52篇、新入賞が句集5編、歌集四篇、合計9篇ということでした。
今回もオブザーバーとして角川春樹代表に参加していただきます。選考には参加しないということで、あくまでもオブザーバーという形でよろしくお願いします。まず、大賞からお願いします。 句集、歌集関係なしに上位三位を挙げていただいて、一位二点、二位三位を一点として、合計で、二点以上を論じるということでお願いいたします。
* *
堀本 もう一つの二点は、「嘘のやう影のやう」岩淵喜代子さんです。加藤先生が二位、福島先生が三位で推していらっしやいます。
加藤 この人はしっかりしていますね。一番素養のある人ですね。助詞の使い方が群を抜いていました。いろいろ申しあげますけれども、「箒また柱に戻り山笑ふ」というのがあるんですよ。不思議な句だと思ってね。「山笑ふ」といえばだいたい決まっていますからね。箒が柱にまた戻るんですよ。
角川 柱にかけただけだけれども、そうは言わずに柱に戻ったというのは面白いですね。
加藤 日常俳句の典型みたいなものですね。これは驚きました。
それから、「春窮の象に足音ながりけり」。象の句はほかの俳人も何人かつくっていますが、ご存じのように、「春窮」というのは食べ物がない時期のことを言います。この句は、気味の悪いようでいて、象というのは滅多にいるものじやないから、自分のところで飼うわけにいかないから、動物園だろうと思うんですけど、春窮の句でこんな句は見たことありますか。
堀本 ないです。不思議な句ですよね。
加藤 不思議な句なの。それで驚いたんです。 それから、不思議といえば、「龍天に登る指輪の置きどころ」というんですよ。
辻井 不思議ですね。
加藤 面白い句ですね。この方は、もちろん既婚者でしょうけれども、指輪の置きどころに困っているのか。亭王に返すのか、恋人に返すのか知らないけれども、年配の方ですよね。源義先生に習った方ですか。
角川 違います。
加藤 それから、清和の句をつくっているんですよ。「船べりに街の流れてゆく清和」。船で大川を上ったりしますと、街が流れていくように見えるんですね。それをご存じの「清和」という、いわゆる季語にもたれるけれども、私驚いたの、清和でこう言う女の人がいるというのは。うれしくなりました。
それと、羅漢の句は多いんですけれども、「ひとつづつ羅漢に頂けしけんぼ梨」というのがあるんです。ケンポナシというのは仏手柑みたいなもので指の格好をしているんですけど、これがなぜ使われずにきたかというと、ハンセン氏病の人の指が欠けたりするでしょう。それがケンポナシに似ているといって忌み嫌ったんですよ。江戸時代そういうものがあったんですね。ところが、あえてこの人が使った勇気というか、俳句的素地としたらすごい句で、ご承知のように、羅漢といったら、五百羅漢寺があるように、あれだけ形相の変わった人のところにそれをあえて入れたというのは、場合によっては原爆忌の句より怖いですよ。すごい女性ですよ。私は、源義先生のお弟子さんだとばかり思っていました。
堀本 「けんぽ梨」が効いているということですね。
加藤 効いている。まず玄圃梨を詠ったのは見たことない。
角川 私もない。
加藤 あなたは歳時記をおつくりだからおわかりでしょうけど、ないと思うな。これはえらい人だと思った。
それから、何でもないけど、子規よりすごいと思った句があるので驚いた。子規なんかすっ飛んじゃう句があるんですよ。「鶏頭は雨に濡れない花らしき」というんですよ。あれ、雨を弾くんですよ。子規もうっかりしましたね(笑)。これはもう一行詩ですよ。「鶏頭花」ともいいますけど、鶏頭を詠む場合、普通、「花」は入れないんですよね。あえて入れている。いや、驚きました。
ついでに言ってしまえば、瓢の句だってそうですよ。「それぞれの誤差が瓢の形なす」(笑)。誤差があるから瓢箪になる。これもすごい。会ってみたい人ですよ、この人は(笑)。
堀本 「誤差」というのは、成っていく時問差です。
加藤 そうですね、大きくなるとか、小さくなるとか。いや、教えられました。
堀本 ありがとうございます。
それでは福島先生、三位に推していらっしやいます。
福島 「多喜二忌の樹影つぎつぎぶつかり来」これはそんなでもなかったんですが、一番驚いたのは、「釦みな嵌めて東京空襲忌」。
辻井 これはすごいね。
福島 なんていうのかな、端正な詠いっぷりの中に、学童だとか死者たちの顔が浮かんできますね、特に幼い子どもたちの。また生者たちが謹んで東京大空襲の日を迎えているというイメージ。これはすごいなと思いました。 それから、これも佳いと思った。やはりこれも戦争を反映している句だなと思いました。「黒板に映りはしない春の雲」。この二句が、僕は三位に推した理由です。
出だしの句「草餅をたべるひそけさ生まれけり」を見たら、優雅な、まあまあと思って読み始めたんですけど、こういう句に出会って、非常に驚きました。やはりこの人の生きてきた歴史、昭和を生きてきた人間の凄まじさというか、体験したことの真実性というか、そういうものを深く感じました。
辻井 実は、いいなと思った句が一番多いのはこの人の句だったんです。今の「釦みな嵌めて東京空襲忌」というのは、僕がひねくれているのか、空襲忌ということで、生徒なんかを勢ぞろいさせて儀式としてやっているんだけど、ほんとに空襲の悲惨さをどれだけの人が実感しているだろうか、儀式になった途端に、これはやっぱり形式にすぎなくなるんじゃないかという、そういう批評まで入っているかなという気がして、私はいいなと思ったんです。
堀本 深いですね。
辻井 それから、「暗がりは十二単のむらさきか」なんていうのは、変な句なんだけれども、やっぱりそういうことかなと思ってしまったとか、「三月のなぜか人佇つ歌舞伎町」というのも、これは加藤さんが立っているのか誰が立っているのか知らないけれど(笑) それと、「花果てのうらがへりたる赤ん坊」。「うらがへりたる」というのは、仰向けになって手足をバタバタさせて泣いているのかもしれません。同じページの「花吹雪壷に入らぬ骨砕く」。これはちょっとすごいなあと思ってね。誰でも経験があると思うけれども、焼き場へ行って、大腿骨とか頭骸骨は入らないですよね、それを砕くわけ。花吹雪の中でそのことを思い出すというのは、桜の花の持っている美しさの中に潜んでいる死の影というものを、こんなふうに感じ取っているんだなということを感じました。
そういう点では、「水引の咲きすぎてゐる暗さかな」。確かに水引が群生していますと、何でもないような花が群生していると、咲きすぎている感じが出てきて、影が見えてくるんですよね。
加藤 水引草はそうですよね。一つずつ見ると、ひそっとした花なんだけど、怖いんだね。
堀本 明を暗に転換させているんですね。
加藤 なるほどね。私、これを落としました。うっかりしました。
辻井 それから、「冬日濃し先に埴輪の暖まり」。埴輪というのは、古い時につくられて、そのまま壊れずにきて、掘り出されて、冬日が濃くなって先に埴輪のほうから暖かくなってきたと、作者は歴史を感じているんだなという感じがしまして、相当すごい句集だなと思いました。僕は入れてないんだけど(笑)。
堀本 それでは、決戦投票ということで、二点以上の中から三位までお遊びいただければと思います。
2009/7/2 木曜日
『河』七月号 主宰・角川春樹 (1)
第二回 日本一行詩大賞 決定
★ 日本一行詩大賞 句集『憑神』 福島 勲
★ 新人賞 歌集『星の夜』 森水晶 句集『Kへの手紙』 松下由美
選考委員 辻井喬 (詩人・小説家)
同 加葬郁乎(俳人・詩人)
同 福島泰樹(歌人)
●日本一行詩大賞候補作品
岩淵喜代子 句集『嘘のやう影のやう』
大野ミツエ 歌集『虹 霓』
梶等太郎 句集『されど洪水』
小島 健 句集『蛍光』
林 裕子 句集『虎落笛売ります』
福島 勲 句集『憑 神』
宮澤 燁 歌集『一塊の風』
森 妙子 歌集『まあだだよ』
八木忠栄 句集『身体論』
●日本一行詩新入賞候補作品
喜多昭夫 歌集『責霊い
佐藤文香 句集『海藻標本』
三宅勇介 歌集『える』
森 水晶 歌集『星の夜』
松下由美 句集『Kへの手紙』
一次予選
辻井喬選・一位『虎落笛売ります』・二位『身体論』・三位『一塊の風』
加葬郁乎・一位『憑神』・二位『嘘のやう影のやう』・三位『虹霓』
福島泰樹・一位『されど洪水』二位・句集『憑 神』三位・『嘘のやう影のやう』
座談後の最終選
辻井喬選・一位句集『虎落笛売ります』・ 二位『されど洪水』・ 三位『嘘のやう影のやう』
加葬郁乎・一位句集『憑神』・ 二位句集『嘘のやう影のやう』・ 三位歌集『虹 霓』
福島泰樹・一位句集『憑神』・ 二位句集『されど洪水』・ 三位『嘘のやう影のやう』
2009/6/29 月曜日
髙柳克弘句集『未踏』 2009年6月ふらんす堂刊
つまみたる夏蝶トランプの厚さ
帯に抽出されている十句の中でもこの蝶の句は突出した完成度に思える。蝶を手にするときには蝶の羽をつまむ以外に触れる方法はないのである。実体からの蝶の感覚。
ゆびさきに蝶ゐしことのうすれけり
皮膚感覚で捉えた蝶でも、この蝶には、存在のあやうさが現れている。気がついたら句集には、「蝶」を詠んだ句が多い。そうして蝶の句はどれもいい。無意識のうちにも、何かの拘りを蝶に託しているようだ。それは不思議な存在としての蝶、残像の映像としての蝶・・・。捉え方は多彩だが、あやふさの象徴として、目の前に蝶を引寄せている。
蝶々とあそぶ只中蝶生る
蝶ふれしところよりわれくづるるか
蝶の昼読み了へし本死にゐたり
路標なき林中蝶の生まれけり
わがつけし欅の傷や蝶生る
蟻運ぶ蝶の模様のかけらかな
てふてふや沼の深さのはかれざる
くろあげは時計は時の意のままに
秋蝶やアリスはふつとゐなくなり
ランボオの肋あらはや蝶生る
キッチンにもんしろてふが落ちてゐる
只の石からすあげはが荘厳す
同じ時期に髙柳氏の編集長を務めている「鷹」45周年記念号には、
夏蝶やたちまち荒るる日の中庭(パティオ)
が主宰選に入っていた。
2009/6/28 日曜日
齋藤愼爾著「ひばり伝ー蒼穹流謫」
昨日(27日)は前橋の煥乎堂俳句教室だった。書店の入口を入ってすぐに平積み、それも一段高くなっている「ひばり伝ー蒼穹流謫」が目に入った。
そうして今日は、仙台まで日帰りで行かなければならない用事が出来たので、その往復での読書にはかなり厚い本でもいいかなーとおもったので、手にしたばかりの齋藤愼爾著の「ひばり伝ー蒼穹流謫」を選んだ。新幹線を読書室にするのも悪くないものだとつくづく思ったのは、この季節の車内の適度な空き具合と梅雨時の湿気の取り除かれた爽やかさが、読書を集中させるのだった。ときどき外へ視線をやれば、真っ青な青田が続く。
音痴のわたしもひばりの曲なら、幾つも口ずさめるものがある。それは、著者齋藤氏もそうだが、わたしも世代が同じで、子供の頃から耳にしているからである。この一書を開いて、はっとしたのは、ひばりの母が大正二年生まれという何所。父親は明治四十五年生まれ。
はっとしたのは、その大正二年という時代感覚である。水平に時代は積み重ねられていくものという概念で認識していたつもりだが、時代は縦縞模様のように思えた。美空ひばりから遠望できる大正二年という時代の匂いと、原石鼎の吉野時代の大正二年という時代の匂いはまったく関りなく、交わりもなく流れてきているように思えてしまうほど、同時代というには違和感があった。一書の中ほどにふたたび大正二年という時代が登場する。雑誌「平凡」を創刊した清水達夫の生れた年だ。
以前の齋藤愼爾著の「寂聴伝」では、寂聴をとりまく文学史が瞠目する面白さだったが、今回のひばり伝は、見知っているひばりの歩みに、膨大な資料をもって一つ一つ肉付けしてくれることで、確かなひばり像を構築してくれた。その構築は戦前戦後の時代背景によってより認識度が高まる。それは等身大の私自身の生きた時代でもあったから。
さらに、大方の人達はひばりを成功者とする印象で捉えていると思うのだが、この本はひばりを終始暗部の側から焙り出している。それはいかにも齋藤氏らしい書き方だ。暗部からとするのは、もともと芸人が「瞽女」「河原乞食」を底流に置いていることから始まる暗さなのである。ここに触れることではじめて「蒼穹流謫」というタイトルになる言葉が出てくる。
私はこれまで一度もひばり伝なるものを読んだことは無いので比較は出来ないが、従来のの本では言及されてない、西条八十、藤原洸、石本美由紀ら作詞家、万城目正、上原げんと、米山正夫、古賀政男ら作曲家などの作家、吉本隆明、澁澤龍彦、江藤淳、山折哲雄ら文学者たちの言説が挿入されていると、どこかの宣伝で目にしている。
多分それが評伝に格調を生んでいることにもなるのだろう。 よくも探してきたものだと思うほどの、膨大な作家たちのことばが集められている。
2009/6/26 金曜日
『ににん』35号 発送
昨日の昼間、今日の一日をかけて「ににん」の発送準備。夕方,クロネコに集配に来て貰って終了。二、三日後には届くのではないだろうか。
今回の特集は、座談会『石鼎を語る』がある。清水哲男・正津勉・齋藤愼爾・酒井佐忠・土岐光一の各氏。一年後は十周年。だからと言って5周年のような会はやらない。ごく内輪で食事会でも開こうとは思うが。そのかわりに、この十周年を力んで越えていこうと思う。この間に、「物語を詠む」を充実させて、最終的には、そのアンソロジーが記念号になるだろう。
2009/6/24 水曜日
美空ひばり20回忌
24日は美空ひばりの20回忌。23日の昨日のNHK歌番組は各分野の歌手がすべて美空ひばりの歌を唄った。美空ひばりほど伝説を持った歌手はいないだろう。その上に52歳で亡くなった、というのも伝説を生みやすい。円熟の真っ最中にこの世を去ったことになる。
聞くところによると、「ひばり伝」と名のついた本の出版は400冊くらいあるらしい。そして今日はたぶん最後の「ひばり伝」となるだろう『「蒼穹流謫 」 講談社刊』の著者齋藤愼爾さんを中心に「美空ひばりを偲ぶ会」が西葛西の料理屋で行われた。
齋藤さんと美空ひばりとはおよそ結びつかないのだが、その唐突な取り合わせが期待感を持たせる。集った50人ほどの大方は編集者・作家・装丁家。俳人は10人くらいだったろうか。久し振りに柿本多映さんにお目に掛った。「ににん」の仲間との旅で三井寺をご案内して頂いて以来である。このために近江から出てきたのである。
美空ひばりの子供となった加藤和也氏もきていた。後ろでひとつに束ねた独特のヘヤースタイルで、店に入ってきたときにすぐにそれと分かった。誰にとっても、ひばりは好き嫌いを越えて、懐かしい存在ではないだろうか。昭和という時代の傍らに、いつもひばりが存在して、あまり意識しなくても、ひばりの歌の一つや二つは歌えるだろう。
本はこれから読むのだが、齋藤さんが中学まで育った山形県の飛島から始まるのも、いままでの「ひばり伝」とは違ってきそうである。
2009/6/23 火曜日
ゴーヤの花
アンの店先に置いた植木鉢
花をつけたゴーヤがひょろひょろと伸びていた
八月になるのに花だけというのも遅れている
麻里伊さんは発育の悪さを気にしていた
突然澄子さんがゴーヤーの一花を摘んだ
何をするのかと思ったら
その花で咲いている花を叩きはじめた
ぽんぽんとまるで
パフで顔を叩くような軽さで
人口受粉をするつもりなのだ
みんなはその手際を後ろから眺めていた
鉢植えとは言いながら
ひとつひとつの花の受粉は時間がかかりそう
みんなは眺めては店に入り
また出てみたりしていた
私はその始終へ一回も席を立たなかった
それというのも私の位置は
ひょろひょろと伸びたゴーヤの苗のガラス越し
その手際もそれを打ち眺めるみんなの顔も
真正面からよく見えるのだ
見ている方も疲れてきた
そんなことやらなくてもと呟いた
うちの庭のゴーヤはきりもなく実をつける
男性たちもそう思っていたのだろうか
誰も受粉の手際を眺めに
店を出ていくことはしなかった
ひとしきりの受粉作業が終ってから
澄子さんはゴーヤの苗から距離を置いて
苗全体を見渡した
それから思い出したように
ぽんぽんと花を花で叩いた
取り残しがあってはならないとばかりに
みんながぞろぞろテーブルに戻った
受粉作業がやっとおわったのだ
そんなことしなくっても生るわよ
私はたまりかねて呟いた
だってねそれは蜂さんや蚊さんが
代わりにやってくれているからよ
と雅子さんが言った
天然自然の摂理とは誰も知らないところで
何かが働いているということなのだろう
あーというかたちに口をぽかんと開けて
わたしは大きく頷いた
月をさんの眸が雅子さんへ動いて
それからちらりと私へ動いた
去年の夏のことだった
2009/6/22 月曜日
鈴木榮子第4句集『繭玉』 2009年5月刊 角川書店
榮子さんとドイツを巡ったときだったか、イタリアを巡ったときだったか、古い建築物に見とれていると、「こんなの珍しくないわ。東京にたくさんあるもの」と言った。そう現在でも、日本橋の三越や、その向かい側にある勧銀などはゴシック建築の片鱗が残っている。
この句集を読みながら、東京っ子という言葉を思い出した。それは、歌舞伎を愛し、母を愛した生活が中心になっているからである。私が見損なった「高野聖」もしっかり観ていた。一集は、そうした日常を掬い上げて、自分史にしている。
春吉原助六に降る煙管の雨
東京はわがふる里よ都鳥
繭玉のひとつひとつが大事なり
三月十日その後の雛は買はぬなり
高野聖すすきの道を急ぎけり
母と子の母逝きひとり目刺焼く
秋袷母の一生わがために
柴田佐知子『垂直』第四句集 2009年6月 本阿弥書店
1949年生まれ・「空」創刊・「白桃」同人
人生の深淵をちらりちらりと見せることが、奥行きとなっている。その深淵も写生を基本にしていることで、説得力を持つ。
秘すことのはじめ手毬を背に廻し
恐ろしきことも数へて手毬唄
風船を持ち青空に招かれし
母よりも箒が高し冬桜
蟻地獄すべりし跡は蟻が消す
黙りこむ男のやうな蝸牛
箱眼鏡覗くこの世に誰もゐぬ
中で一番と言われれば下記の句になる。何でもない風景である。ほんとうは、いつも橋は架かっているのだが、レトリックが利いている。
どの橋も夜凉の水に架かりけり
坪内稔典句集『水のかたまり』 2009年5月刊 ふらんす堂
七月の水のかたまりだろうカバ
句集名は上記の句から採られている。この時期、カバを訪ねる旅をしていたのだという。「カバ」と「俳句」がある種の調和というかバランスのようなものを感じてきたから,とあとがきにある。以前から、捻典氏の俳句は「何だか面白い」という印象で捉えていたが、その表現になる軸が今回の一集から感じられる。
十二月ベンチはすでに鰐である
例えば句集の最初のページにある句。ベンチから鰐へはすぐに連想が繋がる。「梅咲いて庭じゅうに鮫がきている」の兜太の作品よりもはるかに明確に。
春暁のころがっているねんてん氏
父と子ところがっている桜雨
磯巾着になろうか昼をころがって
天然の男がごろり文旦も
ころがして仏頭を彫る冬の虹
ころがって朱欒と猫とあの野郎
ここに稔典氏の俳句思想があるのではないか。まさに「ころがり思想」がある。「父と子ところがっている桜雨」の図など、いい風景である。「取り合わせ」を主張していたような気がするが、それは、
象がふと横歩きして牡丹雪
寒晴れの日だった象の尻見てた
今回の句集からは、唐突にも見える取り合わせは見つけられなかった。言うなれば、日常の視点が動物たちへずらしているのだ。動物に視点をずらすことで、非日常に行き易い。
多分だが磯巾着は義理堅い
蟻たちにないはずはない耳二つ
カント氏の窓半開き揚羽来る
冬晴れて首から歩くキリンたち
ふきげんというかたまりの冬の犀
とにかく楽しい句集だ、「俳句は楽しくなくては」と坪内稔典氏は言っているだろう。
2009/6/21 日曜日
『門』 主宰・鈴木鷹夫
現代俳句月評 中村鈴子
「俳句四季」四月号、「白亜紀」より
尾があれば尾も揺れをらむ半仙戯 岩淵喜代子
甘茶仏人の目線に据えらるる
一読して成る程と思う。周知のように人間には尾の名残の尾骨がある。進化論で言えば遥かなる先史時代もしブランコがあったら尾も揺れていただろう。着想の斬新さに脱帽すると共に心を楽しませる句である。
二句目は認識の句。言われてみればその通りで甘茶仏は誕生仏でもあり又人々が甘茶をかけるのに都合が良いようにか、それほど大きくしない。しかし「人の目線に」というフレーズはそう簡単に出ない。見慣れた景でも、その視点と自分の言葉による表明でかくも新鮮な句が出来る事を教えられた。
『雲取』 主宰・鈴木太郎
現代俳句管見 下条杜志子
「俳句四季」四月号、「白亜紀」より
恋猫のために踏切り上がりたる 岩淵喜代子
微笑ましくもあたたかくなる句だ。別に猫のために踏切が開いたわけでもないはずだが、恋猫がローカルな景色の中の線路を越えてゆく。いや、けっこうな混雑の中かも知れずそこに注がれる俳人の愛情のようなものが滲んでいる。で、かくありたいとは思うものの、野良猫の数匹の騒動によくない気分を持て余しもするのだ。
2009/6/19 金曜日
蛇笏賞・迢空賞受賞式
今年の蛇笏賞は廣瀬直人・迢空賞は石川不二子・河野裕子。
廣瀬直人句集『風の空』から
降り足らぬあとの烈風一の午 金子兜太選
中空の風波うつて鬼やらひ
男らの声にゆとりや十夜粥
雪吊の中にも雪の降りにけり 大嶺あきら選
一卓に人隔てたる夜の秋
涅槃図を掛けたる寺の庭通る
秋澄むといふことはりに日の沈む
行く鴨の遥かに声を失へり
剪定の千本剪つて日が落ちる
瀬がしらを上る鮠見しお元日 有馬朗人
枯蟷螂抜き差しならぬ眼がふたつ
夏神楽狐しばらく跳ぶばかり
空が一枚桃の花桃の花
存分の雷鳴北に甲武信獄
剪定の千本剪つて日が落ちる 宇多喜代子選
風吹き下ろす三日目の餅筵
正確な鳶の輪に入る袋掛
どの樹にも明ける空あり半夏生
空が一枚桃の花桃の花
存分の雷鳴北に甲武信獄
4人の選者で重なっている句は「空が一枚桃の花桃の花」「存分の雷鳴北に甲武信獄」の2句だけ。粒揃いでどれを選んでもいいような感じにも見える。だが何だか物足りない。ここに挙げた作品に、一句だに震えるような感動を覚えないのは私の鈍感さかもしれない。たとえば、
大寒の一戸もかくれなき故郷 飯田龍太
龍太のこの一句に並ぶもの、いや近いものでもあるのだろうか。無いとすれば、句集全体の総合点としての受賞と理解するしかない。 それでは、作品が後世に残らないのではないだろうか。
