2007年11月 のアーカイブ

『帆』他誌拝見

2007年11月27日 火曜日

 200号記念号から

「ににん」春号
個性の卓抜した俳人として切磋琢磨し、より個性ある作品を残すべく努力している。

ににん集 洋
太平洋大西洋や日向ぼこ  岩淵喜代子
白梅や遺品を収む洋箪笥  上田禎子
茫洋ともの食うえゐる花筵 尾崎じゅん木
風光る一球にして五大洋  草深昌子
洋蘭の鉢押しのけて初談義 佐々木靖子
惜春や洋書売場に下駄の音 清水哲男
青き目の海洋学者目刺食ふ 須賀薊
菜の花を辿つてゆけば太平洋 武井伸子

「洋」は、大きな海につける用語であり、世界を二つに分けて西洋、東洋と表し、ことに洋は外国のことを指す。洋のつくさまざまな言葉を見ていると、明治の文明開化の様子がわかり和と洋とうまく組み合わされ、その多くは現在に至る。移り変わりのはげしい現代、カタカナ語があふれ一般の人々はついてゆくのに苦労する。(筆者 井原愛子) ににん

 

 

60歳のラブレターの集い

2007年11月24日 土曜日

NHK青山荘に集まったのは北海道から沖縄まで各県から103人。私は、第一巻が7刷りまででたのを確認していたが、なんと14刷りまで出たようである。NHK出版の人が挨拶の中で、5万部売れる本を出せと言われ続けてきたが、この本でようやく果たせたのだという。しかも、いくつもの国へ翻訳本にもなっている。

第1巻がでたときには、各紙が取り上げて紹介されてテレビでもラジオでも放映、放送が行なわれたようだ。その直後から本は売れはじめたという。今読み返してみても、ただの手紙である。ただただそれぞれの夫婦の素朴な感謝のことばが綴られている。しかし、その内容がそれぞれの夫婦の物語になっていて、うっかりすると、目じりに涙が溜まってしまう。10巻までは出版するようだから、あと三回の応募があるようだ。

集まったひとたちの人生もいろいろだったが、感謝が言えるという事は、とりあえず幸せな人達なのである。みんな大方は老後と呼ばれる年齢の人達。中にはとんでもなく、思い切った生活に飛び込んだ人もいる。年に1~2回しか実家に来ない、核家族化した子や孫をひたすら待つのもつまらない。逆の発想で、こっちから年に1~2回行けばいい、という方針で、もう八年も車で旅の生活をしている人がいた。

一人は孫を自分で育てた、という人がいた。「娘から取り上げたのよ」というのだった。仕事を持つ一人娘は「私のように育ててね」とあっさり預けてくれたらしい。いまは大学生になってしまったけれど、孫に負けてはいられないと、勉強してきたそうである。なんかパワーが漲っているような、なんだか自信に溢れているような人だった。

龍土町2

2007年11月23日 金曜日

原コウ子著「石鼎とともに」を読み返していたら、面白い箇所に行き着いた。面白いと言ってもきわめて個人的な興味である。以下の文章は龍土町に住んでいた場所をコウ子が辿っているのだが、「洗濯屋の前の高い崖の上にぽつんと建っていた。」の箇所がある。
             
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  ---龍土町の家は、六本木から電車線路に沿って乃木神社の方へ向かって歩くと、右側一連隊に向きあった三連隊の正門通りの一つ手前の通りの三つ目を左に折れた、洗濯屋の前の高い崖の上にぽつんと建っていた。勿論安普請であるが、南側の家主の石庭には楓の大木や珍しい植木が枝を張り拡げ、北側玄関わきの小庭を隔てた垣根越  しには、隣屋敷の栗だの柿だのの生物の樹が枝をのぞかせていてちょっと都会ばなれしていた。その上二階から見下ろすと洗濯屋の裏あたりから三連隊の土堤が見透かされ、小さい借家にしては珍しい環境で、麹町の家のようにどこを開いても人のくらしを覗くような気づまりはなく、伸びのびと青空を見上げられることに、わたしの肺活量が俄に増大する思いがした。ーーー
                   *

この洗濯屋とは、以前に書いた荒潤三さんから頂いた龍土町の地図に、「私の父親と同業のクリーニング店が52番地にあります。子供の頃行ったことがあります。」と書いてあったのを思い出した。まさにコウ子が書いている洗濯屋である。それがなんだというほどのものであるが、同じ空気を吸っていた人が健在というのも感動する話である。大正十二、三年のころだ。

この荒潤三さんは昭和四年にドイツの飛行船ツエッペリン伯号を見ている。八月十一日だったというから、石鼎も東京に出てきていたが、ホトトギスの周辺でこの飛行船のことは話題にならなかったようだ。荒潤三さんにコウ子の文章をコピーして送った。元気だといいのだが。 ににん

主婦の座

2007年11月18日 日曜日

朝起きるのがおそかったせいか、お茶だけで済ませていたので、お昼はしっかり食べたくなった。茨城から届いた蓮根がまだある。いろいろ試みたが、から揚げ風にするのが一番美味しい。もう一度それをやることとにした。スライスした蓮根に鰹節を混ぜた天婦羅粉をごく薄くまぶす。蓮根はすぐ火が通るのだが、鰹節を混ぜておくと、狐色になって、それだけでおいしそうになる。

それと、肉を挟んだ種類とを皿にいっぱい揚げたら、連れ合いも匂いにつられてテーブルで待っていた。最初に作ったときには、その甘さに感動したが、2度目は少し感動が薄い。何でも最初がいい。今日は農業祭の日。農家が自慢の野菜を展示して、それに金賞やら銀賞やらの折り紙がついているのを、運がよければ買えるのである。

散歩がてらにそれを見にいこうかなと思い立った。パン焼き機にパンを仕込んだので、それまでに帰ってこなくてはならないが、時間が丁度いい。こんなことを言うと、「ににん」の仲間はなぜか、笑うのである。「いかにも家事をやっているみたいだ」と言うのである。だって、やっていっるのだから、と言おうと思っても受けつけない。

到来のリンゴがたくさんあったので、皮を剥いて食べられるようにしてもっていったら、それだけで驚く。そうして一口食べると、塩味もちょうどよくなっているじゃないの」とそれが奇跡のような言いようでなのである。私だって何十年も主婦の座に坐っているのだから、苦手と言っても、知らずに積み重ねられた年期があるのである。

ケヤキ並木の落葉時で、黄葉した落葉が歩道いっぱいに広がっていた。何時になく往来の多い道は、落葉がみんな粉々になって、平らに踏み均されていた。会場になっている市役所の先の運動公園にテントが張られていて、そこに野菜は展示されて居るらしいのだが、行列が出来ていて、順番を待つのはちょっとしんどい。それで、JAがサービスしている骨密度の検査を受けた。

予想していたのだが、それ以上に低い、80パーセント。それは青年の65パーセントくらいだという。この7,8年の間に、二度も集中的にステロイドを使ったことも影響しているかもしれない。突発性難聴というのは、原因がわからない。ストレスとも言われているが・・・。8年ほど前の場合は正常に戻ったが、一昨年の難聴は、思うようには戻らないで、いまだに片耳の聞えは悪いので、病院通いをしているのである。馴れてしまって、それほど苦にしているわけでもないけれど。

ににんへ

 

江戸小紋

2007年11月17日 土曜日

子供の頃妙正寺川で反物を晒している風景を覚えている。近所に染物屋さんがあったからである。何時頃からか、そんな風景は見られなくなって、染物を生業とする家も少なくなった。着物の需要も無くなったせいもあるし、気の遠くなるような手作業の繰り返しは、見て居るだけでも、溜め息が出てしまう。

今日は、その妙正寺川の上流の神田川沿いにある工房で染物体験の吟行をしてきた。社長さん自らが、反物の出来上がる工程を説明してくれたのだが、やはり気の遠くなるような技術と時間を費やす分野なのである。東京小紋という商標があるようだ。先ずはそのたかだか5,60センチ四方の染型紙を作るだけでも、一ヶ月かかり2,30万から80万円くらいするのである。それも、現在は伊勢にしか職人がいない。

しかし、この染物の方法も機械化されて、そんな手間隙を掛けなくても出来るらしい。見た目も品質も変わらない。ただ、手間隙かけた手造りの誇りの問題になるだろうか。機械化は均一の仕事が出来るが、手作業は人間の呼吸が糊の乗せ具合に微妙に影響して、ムラを作る。それが味わいになるのだと、工房の人はいうのだが、うーむ、考えさせられる問題である。

今日は鮫小紋の袱紗を作らせてもらった。と言ってもその型紙で糊を乗せていく作業をさせて貰っただけ。糊をおくとはっきり鮫小紋の模様が浮き出る。その見えている模様以外のところに染料が沁みていくのだ。誰の出来栄えも同じに見えた。あとから、染料をかけて、袱紗に仕立てて送ってくれるようだ。赤や紫の袱紗はいつも使っているので、緑色を註文しておいた。

以前小田原の藍染め屋さんで、やはり藍染め体験をさせてもらったが、蝋で模様を書いたり、俳句を書いたりして、それを藍甕の中に入れると、蝋の部分が白く残るのである。これも案外巧くいって、いまだにハンカチは使っている。体験するのは、藍染めのほうが面白い。                     

ににんへ

60歳のラブレター

2007年11月17日 土曜日

どうしてだか、パソコンの瞬きが止んでしまった。もう10日くらいになるだろうか。少なくなったというのではない。全く、そんなことがあったかしらというよにぴたりと止んだのである。あのとき、慌てて買替えなくてよかった。瞬きの原因がわからないのだから、しなくなった原因もわからない。なんでもいい。よかったのだから。

今日は一日パソコンの前に居た。食事時になると、のそのそとキッチンに行って、食べたいものを食べて、またパソコンの前に坐る。連れ合いはどうするのかと言えばやはり勝手に食べたいものを食べている。たまには息があって、同時にテーブルに向き合うときもある。結局、毎日同じ屋根の下にいても、正式な食事は夜の一回だけ。その夕食だけは私が作る。というより、連れ合いの作ったものでは気に入らないからだ。

8年くらいまえだったろうか。里帰りをしていた娘と連れ合いがこそこそ話しあっていた。連れ合いはそろそろ仕事を辞めようと思うんだ、と言っているようだった。娘が「だめだめ、そうしたら食事も洗濯もお父さんがやらなくてはならなくなるわよ」といっていた。その当時、どこかの信託銀行で「60歳のラブレター」というのを募集していた。一人だけ100万円の賞金が出る。

それで私は、その賞金につられてラブレターを書いた。字数の制限などはなく、ハガキに書くのだから、随分気楽に応募があったみたいである。その後、なんとそのラブレターをNHK出版が買い取ったのである。著作権は信託銀行にあったのだ。出版社が本にしたものが送られてきた。計算すると、本に収録される作品の競争率は100倍であった。それで、悪妻の見本のような私のラブレターも掲載されていた。

大方は一ページに収まっていたが、私のは、見開きになっていた。パソコンで印字したから、文字数が多かったのだろう。HNKだから、夕方の番組で何回も紹介された。病気の夫が妻に隠れて書いたラブレターを娘に託して応募したものもあった。作者はすでにその時亡くなっていた。娘さんがあー、コピーをしておいて母親に見せればよかったと、思っているときに活字になって感動した、というようなものが紹介された。

一回目のこの本は、そうした宣伝が効いたのか、6、7版くらい重ねた。その後も毎年その企画は続いているようだが、第一回目のようには売れないようで、店頭でも見かけない。その中の何篇かがオペラにもなったらしい。今年が7年目だということである。まだ企画は続いているんだー、とはじめて認識した。そのラブレターを書いた人達で集まろうよ、と立ち上がった人がいたのである。

来週その集まりがある。立ち上げた女性は横浜の住人。「何人くらい集まったと思う」と私に言った。「100人くらいかしら」と言ったら当りだったようだ。北海道からはせ参じる人も居るらしい。「だから私は前日から都内に宿泊するのよ」と、彼女は言った。集まってなにをするのか、どうなるかもわからない。近いから幹事になって言われて早めに行かなければならない。

ににんへ

米寿の岩井さん

2007年11月14日 水曜日

今年の夏の暑さで調子を崩していた岩井さんが回復したというので、平林寺をご案内した。鹿火屋入会当時からいろいろな旅を一緒にしてきた鹿火屋の同人。私たちのまわりでは、密かに彼女の健康に、そして長生きにあやかりたいと思っている人がたくさんいる。彼女のような生き方に憧れているのである。だから、他の長寿の誰でもない。岩井さんのように生きたいというのが合言葉のように広がっている。

大正八年生まれ。数えてみると今年は88歳である。永い年月いろいろな旅の中で、彼女を高齢者として労わるような気持ちを持たなかった。というよりも意識させなかった、というのが正しい。鹿火屋入会は私より数年早かったが、すでに五十代の後半であった。それから、ずーっと原裕の俳句教室に通い、原裕亡きあとを引き継いだ主宰のもとで俳句を作っている。

同じ年代でも結社誌の誌上での浮沈に拘る人はたくさんいたが、彼女は鹿火屋賞も辞退していた。ただただ淡々と作れればいいという姿勢を貫いていた。一時外国もよく行かれたが、一人で参加することもしばしばだった。それが出来るのも、彼女の自然体を保つ対人関係があったからだろう。

何時だったか、五人くらいで旅をして、一人はみ出した岩井さんが、隣の見知らぬ女性と会話をしていたが、その方が、音楽家だったようで、それから「演奏のたびに案内を貰って音楽界に行っているのよ」というお話を聞いた。社交的というのではないのだが、なんの構えもなく人と接するのである。それまでの蘊蓄のなかで、いろいろな曳き出しも持っているからである。

六十代から通い始めた水泳から、シュノーケルをつけて潜ることも覚えて、二年ほど前までは沖縄に通っていた。だからと言って、若々しくとか、華やかとかに見えるということはなく、ごくごく普通の家庭婦人に見えた。言わなければ、沖縄に毎年潜りに行くなんて想像も出来ない。私が鹿火屋を離れても、毎年一度くらいは安否を尋ねる傍ら、出会っていた。昨年は小金井の匂い桜を案内してもらったが、今年は体調不調のために、出会えなかった。だから、一年半振りの再会だった。だが少しも変わっていなかった。彼女が元気なことが、私の元気に繋がるような気がするのである。

全六巻「鑑賞 女性俳句の世界」

2007年11月11日 日曜日

角川学芸出版の企画していた「鑑賞・女性俳句の世界」全6巻のパンフレットが送られてきた。来年1月から順次発刊するらしい。蕉門前後から現代まで。最年少は昭和30年代の俳人もいる。1巻に27人づつで総数162人の女流の10句前後の鑑賞文と代表句100句から成る。はじめは100句収録の企画は無かったので、10句ほどの鑑賞で、ひとりの作家を浮き彫りにするのは無理だなー、と鑑賞する句を決めるのに難渋した。私は第2巻の「個性派の登場」で原石鼎の夫人原コウ子を担当したのである。

ところが終ってほっとしている場に、百句を選べというお達しがきた。やはり、10句の鑑賞だけでは、内容が希薄になるという指摘が起きたようだ。なんと第6巻に私も収録されている。「華やかな群像」という巻で、昭和10年以降の俳人27人の1人となる。原コウ子の鑑賞文を書いている最中に、藍生の若手が「岩淵喜代子の俳句を読む会」を作っているわよ、と教えてくれた人がいた。

その後、「件の会」に出向いたときに、その「読む会」を開いていた高浦銘子さんという方が私を探してくれて、はじめてお目にかかった。家庭の匂いを感じさせない理知的な女性で、鑑賞文もその印象にたがわないもので、嬉しかった。でも、一番最後の巻きだから、来年末くらいにならないと手に出来ないのかもしれない。来年はねずみ年、年女である。偶然だが、そのねずみ年に「鑑賞・女性俳句の世界」と句集「嘘のやう 影のやう」が出版されることになる。 ににんへ

 

冬の雨

2007年11月10日 土曜日

俳人協会の図書館はいつも空いている。今日は雨だったせいか、先客は一人しか居なかった。そのあと三人ほどになったが、私は三時にはそこを出た。と言っても、図書館も四時でおわりだから、今日の利用者は四人ほど、ということになるのだろう。

図書館といえば、私は国会図書館が好きである。重厚な建物で、音の吸収率がいい。その上に広々しているので、気を使わない。草臥れたら、机の上はそのまま広げておいて、館内のレストランでお茶してくる、という一日掛りでいくのである。難はコピーやら、書庫から探して来てくれる本を待つのに手間取ることである。もう一つは広すぎて中で迷ってしまうことである。

何故か国会図書館には古い雑誌が少ない。「鹿火屋」などは昭和十四年以降しか置いていない。さすがは「ホトトギス」は創刊から保存されている。最近知ったのだが、日本近代文学館の図書館にはその「雑誌」がたくさんある。鹿火屋は大正11年から保存されている。石鼎が鹿火屋創刊を果たしたのは大正十年だから、ほんの初期だけ欠けているだけなのが嬉しい。こんど出かけてみようと思う。

今日はだらだらと一日雨だった。秋なら秋霖というのだが、時雨というような降り方ではない。こういうだらだら降るのをなんていうんだったか。歳時記では「冬の雨」とひとくくりである。でも、そうだとすると、なんだか使いにくい季語だ。まだ、この時期に「冬の雨」とは言いたくない。

秋山巳乃流さん

2007年11月9日 金曜日

秋山巳乃流さんが亡くなった。七日の朝だったようで、新聞によると、すでに密葬を済ませていた。はじめてお目に掛ったのは昭和六十三年秋の中国訪中団に参加したときである。勿論、その夫人の素子さんとは、鹿火屋で馴染んでいて、ときどきは、ご主人のお話も出たので、全くの初対面には感じられなかったが、それ以上に気取らぬ暖かい方だった。機内食を食べながら「まるで、ブロイラーになったみたいだね」とおしゃった。秋山さんは総合誌「俳句」の編集長として取材をかねて俳人協会の人達と同行して、飛行機の席がお隣だった。

北京、上海、西安を廻る旅だったが、碑林を歩いているときに突然後ろの方から大声で「元気を出して岩淵さん」という声が届いた。秋山編集長だった。バスで移動しながら見学をしている何処かで、私は俳句手帖を失くしてしまったのである。呑気な私は、それほど拘っていなかったが、うしろ姿がしょんぼりしているように見えたらしい。

中国の旅は三回しているが、何故かいつも秋山さんがご一緒だった。ウルムチ・トルフアン、天山の中腹にある天山湖まで足を伸ばしたときには、癌の手術をした後だったと思うのだが、大柄な秋山さんからは、病的な雰囲気は見えなかった。だが、特製の小座布団を携帯しているのが印象的だった。その翌年もまた、秋山さんが同行していた。西安に行く予定でいたが、濃霧のために飛行機が2日待っても飛ばなかった。添乗員が方向転換して最近解放地区になった西塘を案内してくれた。上海からバスで行ける場所だったが、一世紀も時代が戻ったような住居だった。

三回目の旅の上海で頣和園を巡っているときに、案内人の懇切丁寧な説明を切り上げさせたくて、足元に生えていた、植物を指さして「これ何んというの」と、秋山さんが聞いた。龍の髭のような植物だった。案内人は、暫くしげしげとそれを眺め下ろして、それからおもむろに「草」といった。皆で爆笑してしまった。頣和園はみんな何回も訪れていたのだ。最後の旅のときには少し辛そうだった。「早く帰りたいよ」とも呟かれた。それでも、あれから五年くらいは過ぎていただろうか。 ににんへ

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