米寿の岩井さん

今年の夏の暑さで調子を崩していた岩井さんが回復したというので、平林寺をご案内した。鹿火屋入会当時からいろいろな旅を一緒にしてきた鹿火屋の同人。私たちのまわりでは、密かに彼女の健康に、そして長生きにあやかりたいと思っている人がたくさんいる。彼女のような生き方に憧れているのである。だから、他の長寿の誰でもない。岩井さんのように生きたいというのが合言葉のように広がっている。

大正八年生まれ。数えてみると今年は88歳である。永い年月いろいろな旅の中で、彼女を高齢者として労わるような気持ちを持たなかった。というよりも意識させなかった、というのが正しい。鹿火屋入会は私より数年早かったが、すでに五十代の後半であった。それから、ずーっと原裕の俳句教室に通い、原裕亡きあとを引き継いだ主宰のもとで俳句を作っている。

同じ年代でも結社誌の誌上での浮沈に拘る人はたくさんいたが、彼女は鹿火屋賞も辞退していた。ただただ淡々と作れればいいという姿勢を貫いていた。一時外国もよく行かれたが、一人で参加することもしばしばだった。それが出来るのも、彼女の自然体を保つ対人関係があったからだろう。

何時だったか、五人くらいで旅をして、一人はみ出した岩井さんが、隣の見知らぬ女性と会話をしていたが、その方が、音楽家だったようで、それから「演奏のたびに案内を貰って音楽界に行っているのよ」というお話を聞いた。社交的というのではないのだが、なんの構えもなく人と接するのである。それまでの蘊蓄のなかで、いろいろな曳き出しも持っているからである。

六十代から通い始めた水泳から、シュノーケルをつけて潜ることも覚えて、二年ほど前までは沖縄に通っていた。だからと言って、若々しくとか、華やかとかに見えるということはなく、ごくごく普通の家庭婦人に見えた。言わなければ、沖縄に毎年潜りに行くなんて想像も出来ない。私が鹿火屋を離れても、毎年一度くらいは安否を尋ねる傍ら、出会っていた。昨年は小金井の匂い桜を案内してもらったが、今年は体調不調のために、出会えなかった。だから、一年半振りの再会だった。だが少しも変わっていなかった。彼女が元気なことが、私の元気に繋がるような気がするのである。

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