‘喜代子の折々’ カテゴリーのアーカイブ

お知らせ

2010年10月20日 水曜日

喜代子の折々が新しくなりましたので、このぶろぐは「旧 喜代子の折々」として保存しました。

限界にきました

2010年8月31日 火曜日

このページはブログ形式を取っていますので、いつかはこういうこともあるかと思ったのですが、ついに限界にきてしまいました。表からはブログを書き込める入口も表示されなくなってしまいました。やはり10年の蓄積ですから、仕方がありません。よく頑張ってくれました。10周年とともに、少しホームページの変化も出るかもしれません。

ただ、このバックアップをワードなどに取り込みたいと思っていますが、いちいちコピーをするしかないのかどうか。 とりあえず、小休止です。

逢ひたくて螢袋に灯をともす

2010年6月27日 日曜日

NHK深夜便の今日の花の一句は拙句「逢ひたくて螢袋に灯をともす」が放送された筈である。筈というのは、その時間は私にとっての一番の熟睡時間である。だから、この一句が放送される時間帯を一回も聞いたことがない。

だから冒頭の句が六月二十七日に放送されるという知らせを戴いても、最初から諦めていた。ところが、けっこう早朝型人間はいるものである。俳句に全く関係のない友人から、「聞きました」という電話がいくたびも入った。メカに強い人は、こうした放送を録音してあとで聞いているのだろう。       
          NHK深夜便http://radio.nhk-sc.or.jp/

ところで、この一句の解説は昨年の「俳句あるふぁ」4、5月号に以下のように書いた。

      ~~~~~★~~~~~

逢ひたくて螢袋に灯をともす
 
 ふと思い出したのが、湖を隔てて愛し合う男女の物語である。男が火を焚き、女がその火を頼りに、毎夜泳いで逢いに行く話。最後は男が飽きて火を焚かなくなったのである。なぜ、体力の無い女が泳いでいくのだろうと、女の私には不条理な話に思えて仕方がないのである。
 螢袋はその名のとおりに袋状の花。垂れ下がった咲きようはランプシェードのようである。その連想から「ともる」ということばが生れた。そうは言っても虚構の火であることには違いないが、念じて眺めていれば点っているかのようにも見える花である。否、想いを凝らせば灯がともりそうな花である。 
 「螢袋に灯をともす」が出来ていから、初語「逢ひたくて」を見つけるのに数カ月を要した。この言葉を見つけたことで、ようやく「螢袋に灯をともす」のフレーズが生きたと思えたからである。

            句集『螢袋に灯をともす』所収   平成2年

     ~~~~~★~~~~~

 

夏の朧月

2010年6月19日 土曜日

娘の同級生の父兄から六年生の担任だったS先生が定年になるので、みんなで集まらないか、という電話があった。と言ってもその六年生のときというのは三十年前なのである。それから一度も会ったこともなく、S先生の噂話をしたこともなかった。だいたい、私に至ってはその先生の顔も名前も思いだせない。

「でもー、仙台にいる娘は来られないって言っているけれど」と伝えたが「いーじゃない一人でも」ということで、近くのイタリアンレストランにはせ参じた。会場についても、なかなか当時の記憶が戻ってこないし、集まった生徒の名前も父兄の名前も思い出せない人が多い。

そのうち「水泳が得意だったですよね」と娘の同級生が言う。「なかなか父兄の役員が決まらなくて、やっと岩淵さんが引き受けて助かりました」と先生がいう。新任で初めて受け持った学級だったようだ。それから、突然「岩淵さん町会長さんをやっていましたよね」と先生がいう。一度くらいは学校にお見えになるかな、と思っていたのですが」とまたまたとんでもない発展をしていった。たしかに数年前二期ほど、町内会長をしていたのだ。

「そのとき僕、十小に勤めていましてね、いつも学校便りを町内会長さんには送っておりました。」という。「ひえー」と私としては飛び上がらんばかりの驚きなのだ。たしかにそういう案内が来ていた。そうして運動会の時の案内もきていた。あちらは、あの時の生徒の父兄という認識をしながら送っていたのだ。

そのお知らせには、先生の名前もきっと入っていたのだ。その名前で思い出す筈だとS先生は信じていたのだろう。実はその「十小だより」は町内会長を引退したあとも何回も送られてきた。それで、わざわざ、新しい会長の住所を一度ならず、学校へ知らせたのだ。何度めかのときには、まったくこの学校はなんという事務処理の手鈍いところなんだ、と思ったくらい苛ついたものだ。

会が終わって、外に出たら朧な三日月がでていた。 あちらこちらで、今夜は螢が出ているに違いない。

44回蛇笏賞・超空賞贈呈式

2010年6月18日 金曜日

今回の受賞は真鍋呉夫氏の『月魄』。大正九年生れである。現在NHK朝ドラの「ゲゲゲの女房」に登場する水木しげるが大正十一年・八十八歳。私には考えられない長寿である。ところで、超空賞は昭和三十三年生れの坂井修一氏である。この年齢の開きは、俳句という文芸を特徴付けている。

俳句を老齢化させないためにという配慮がありすぎる昨今、若書きの作品をいくら持て囃しても、『月魄』の前には雲散霧消してしまうだろう。俳句が認識の文学だからである。 到達した精神が筆を動かすのである。今季受賞した真鍋氏は、以前の句集『雪女」』も話題になった。そうして、この『月魄』も魅力にあふれている。それは言語の収斂された世界が加わるのだ。

  象のごとこの世の露を振りかへり
  秋風に蹠を見せて歩む象
  青き夜の猫がころがす蝸牛
  姿見にはいつてゆきし螢かな
  蛤の舌だす闇の深さかな

俳句の写生論だけでは、これらの句は生れない。魂でつかみ取る風景と言いたい。おかしみもまたそういう視線があってこそ生きるのである。「軽い句」と「軽味」はまったく別物なのである。

紫陽花

2010年6月11日 金曜日

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一昨日の夕方のほんのひとときの雨だったが、まさに驟雨という降り方だった。その雨で枝折れした紫陽花。まだ色が出ないでクリーム色っぽい。でも青よりもさわやかでいい感じ。ずーっと紫陽花は白から青、そうして赤紫に変化するものと思い込んでいた。思い込んでいた、と言うには訳がある。今でも解決しない不思議な体験である。

紫陽花の花は白が青になることはないのだろうか。ずいぶん昔、もう俳句を始めていたころで、一人で熱心に鎌倉を歩いたことがあった。というよりは、方向音痴の私の唯一ひとりで安心して歩ける土地だったのだ。

ある日明月院に出かけたら、紫陽花が咲き誇っていた。それも真っ白に。そのときはあまりその白であることに意識を寄せていなかったが、それから10日ほど経ってからまた同じ明月院を訪れたのだ。そのとき明月院の紫陽花はみんな青だったのだ。

「あー色が変わったんだ」と思っていた。ところが翌年は咲き始めから青くて、白い紫陽花は一つもなかったのである。それからも紫陽花の明月院を訪れるたびに、その色に意識を寄せてしまうのだが、寺全体が白なんていう出会いはなかった。

ところが、もっと驚いたのは、白紫陽花は白のままで、種類が違うのだと言う。たしかに、我が家の紫陽花が青から赤紫に変化はするが白色に咲いたことはない。そうだとすると、明月院の紫陽花が真っ白だったのは夢の出来ごと???。

「ににん」10周年

2010年5月31日 月曜日

そんなに経ったのかなーと思うほどあっという間の10年である。総合誌「俳句四季」が9月号でその10周年としての「ににん」を「今月のハイラ」に登場させてくれるという。「ににん」としては、5周年のような特別な祝賀会はやらないが、これまでの物語を読む企画を41号で特集することにしている。

0号から始めたので、現在編集最中の39号は10年目ということになる。しかし、39号では半端だし、今年度の終わりの本で記念号とするのもきっぱりしないので来年一月五日発行の41号を記念号とすることにした。新年というおめでたさと表紙の変わり目をバネにしようと思っている。

10年という年月が必然的に変化せざるを得ない状況を作っていく。まずは、ひとりで何もかもこなしてきた雑誌の運営そのものを、少しずつ省略していかないと、体力が追いつかない。そんなことで、ホームページの管理もひとまずこの「喜代子の折々」と「原石鼎鑑賞」を残して、投句欄は閉じることにした。

この欄を通じていろいろな方の作品を見せていただいて、励まされてきたことを心からお礼申しあげたい。

青葉冷え

2010年5月30日 日曜日

「青葉冷え」というのがぴったりの昨日今日である。そういうわけではないのだが、ぶろぐも一週間ぶりである。松江の旅から帰ってきたらメールもホームページも開けられない。こんなときにはあわてるんですよね。ほかのどんなときより慌てますね。

なにせ会話が成り立たない相手だから。いや、プロはそのパソコンからいろいろな答えを引き出すようであるが、私にはそれができない。せめてもの救いはまだ古いパソコンを使っていたからである。なかなか古いパソコンが捨てられないのは、新しい機能にはない便利さや、そこで使い慣れたソフトがあるからだ。

 実際のところ、古いのをメインにしようかなと思うことがある。最大の不便さはハガキソフトである。今までのハガキスタジオより便利なソフトがないからである。ちょっと便利かな、という感じではなく断然便利と感じるからである。ところが、その会社IBMがこのハガキソフトの製造を止めてしまって、ウインドーズゼブンには適応しないのである。

新しい方が便利だ、という箇所がウインドセブンに全く感じられないのだ。もう半年になるが。今日は朝から届かない原稿にやきもきしてしまった。二度も来ているメールの様子ではすでにこちらに送信しているはずのものが届いていないのである。

電話を片手に届いた届かないのやりとりうの中で、私の携帯にも送ってみて貰ったが届かない。多すぎるのかなーって清水さんが言うから試しに分割して送って貰ったら最初の1,2回目だけ届いた。四分割の3、4は携帯にも届かない。その文章の中にセキユリテイの掛かるものがあるとしか考えられなくなった。

だって携帯にも3,4の部分は届かないんだから。やっと清水さんも自身のパソコン側に原因があるのではないかと思ったらしい。現在調査中である。あの大変な技術が必要なホームページを管理している人でもまだわからないことがあるんですね。

黄泉比良坂

2010年5月29日 土曜日

名にし負う黄泉比良坂を見てこようと思っていたら、古事記にゆかりの地を全部歩いたという吟行友達が一緒に行ってくれるという。それにしても高天原を天上の神々の居るところとして、列島の端っこに黄泉の国の入口とするのも、中央集権的というか、現在にも通じる感覚だ。村のはずれに墓地を造るようなもの。

 黄泉を塞いだ岩は思ったよりも小さかった。岩の前には楊梅(やまもも)が植えられていた。醜女に最後に投げたのは楊梅だったとしたらちょっと小さいが色としてはふさわしい。お願いしたタクシーの運転手さんは詳しくて、揖屋神社→黄泉比良坂→阿太加夜神社→風土記の丘資料館 →神魂神社→熊野神社→須賀神社→八雲山裾巡り(・・夫婦石)→八重垣神社(鏡> 池)と効率よく巡ってくれた。

茶臼山は目に焼きつくほど何度も目の前に現れた。それにしても、巡ったあたりの人気のなさは、昔は浅篠原だっただろう。山裾を巡りながらときどき二つ三つの棚田が現れる。二か月ほど前に観た韓国映画「牛の鈴音」を思い出させるような山村の風景である。

夕方五時には松江の駅に到着した。2日掛かると思った旅が一日で済んでしまった。明日はどうしようか、ということになったが、松江の町を歩く気も起こらなかった。日向(高千穂)なら行きたいけどね、と話し合ったが、黄泉比良坂を見た興奮をそのまま持ち帰ることに意見が一致した。それから寝台特急の出る7時30分までゆっくり食事をすることにした。

訃報

2010年5月17日 月曜日

若葉のころは若い方が逝くのだろうか、と思えてくる。先日突然の小澤克己さんの死にびっくりしていたが、今週の月曜日には脇祥一さんの亡くなったお知らせを受けた。古い俳壇の中でも、この名前を知っている人もいるかもしれない。鹿火屋の書き手として、当時の原裕主宰も期待をかけていた人物だった。

当時は若手のホープとして俳人協会訪中団などにも押し出して、就職も本阿弥に入れたりしたのだが、なぜか自堕落な部分があったのだろうか。私の印象の中では無口で細かい気遣いのできる人だった。ふと、石鼎とダブルような人柄がイメージされる。もう20年以上お目にかかっていないから、途中で出会ってもわかるかどうか。

年鑑をみたら昭和24年生まれと書いてあったから、還暦くらいの年齢にはなっているのだ。入会したてのころは、お嬢さんのお婿さんにと原主宰が考えていたのではないかという想像まで、周りでは口にしていた。そんな脇さんが、当時の鹿火屋編集長として活躍していた北澤瑞史氏と鹿火屋を除名された理由は未だに会員にはわからない。その北澤瑞史氏の全作品鑑賞集が藤沢紗智子著として出たばかりである。

先日も鈴木栄子さんと夜なかの電話になってしまった中で、俳人協会幹事としての北澤さんの人柄のさわやかさは評判だったという話題になり、協会の誰さんも誰さんもとても信頼していた、という話をなさったばかりだった。除名になった北澤さんを中心に立ち上げた雑誌「季(とき)」の命名は、たぶん原裕の評論「季の思想」へのオマージュだったと思う。

ふたたび脇祥一さんの話題に戻るのだが、彼は当時の鹿火屋に書いた評論からは書ける人だったはず。「季」でそれを発揮してこなかったのは残念である。(合掌)

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