2010年5月 のアーカイブ

「ににん」10周年

2010年5月31日 月曜日

そんなに経ったのかなーと思うほどあっという間の10年である。総合誌「俳句四季」が9月号でその10周年としての「ににん」を「今月のハイラ」に登場させてくれるという。「ににん」としては、5周年のような特別な祝賀会はやらないが、これまでの物語を読む企画を41号で特集することにしている。

0号から始めたので、現在編集最中の39号は10年目ということになる。しかし、39号では半端だし、今年度の終わりの本で記念号とするのもきっぱりしないので来年一月五日発行の41号を記念号とすることにした。新年というおめでたさと表紙の変わり目をバネにしようと思っている。

10年という年月が必然的に変化せざるを得ない状況を作っていく。まずは、ひとりで何もかもこなしてきた雑誌の運営そのものを、少しずつ省略していかないと、体力が追いつかない。そんなことで、ホームページの管理もひとまずこの「喜代子の折々」と「原石鼎鑑賞」を残して、投句欄は閉じることにした。

この欄を通じていろいろな方の作品を見せていただいて、励まされてきたことを心からお礼申しあげたい。

青葉冷え

2010年5月30日 日曜日

「青葉冷え」というのがぴったりの昨日今日である。そういうわけではないのだが、ぶろぐも一週間ぶりである。松江の旅から帰ってきたらメールもホームページも開けられない。こんなときにはあわてるんですよね。ほかのどんなときより慌てますね。

なにせ会話が成り立たない相手だから。いや、プロはそのパソコンからいろいろな答えを引き出すようであるが、私にはそれができない。せめてもの救いはまだ古いパソコンを使っていたからである。なかなか古いパソコンが捨てられないのは、新しい機能にはない便利さや、そこで使い慣れたソフトがあるからだ。

 実際のところ、古いのをメインにしようかなと思うことがある。最大の不便さはハガキソフトである。今までのハガキスタジオより便利なソフトがないからである。ちょっと便利かな、という感じではなく断然便利と感じるからである。ところが、その会社IBMがこのハガキソフトの製造を止めてしまって、ウインドーズゼブンには適応しないのである。

新しい方が便利だ、という箇所がウインドセブンに全く感じられないのだ。もう半年になるが。今日は朝から届かない原稿にやきもきしてしまった。二度も来ているメールの様子ではすでにこちらに送信しているはずのものが届いていないのである。

電話を片手に届いた届かないのやりとりうの中で、私の携帯にも送ってみて貰ったが届かない。多すぎるのかなーって清水さんが言うから試しに分割して送って貰ったら最初の1,2回目だけ届いた。四分割の3、4は携帯にも届かない。その文章の中にセキユリテイの掛かるものがあるとしか考えられなくなった。

だって携帯にも3,4の部分は届かないんだから。やっと清水さんも自身のパソコン側に原因があるのではないかと思ったらしい。現在調査中である。あの大変な技術が必要なホームページを管理している人でもまだわからないことがあるんですね。

黄泉比良坂

2010年5月29日 土曜日

名にし負う黄泉比良坂を見てこようと思っていたら、古事記にゆかりの地を全部歩いたという吟行友達が一緒に行ってくれるという。それにしても高天原を天上の神々の居るところとして、列島の端っこに黄泉の国の入口とするのも、中央集権的というか、現在にも通じる感覚だ。村のはずれに墓地を造るようなもの。

 黄泉を塞いだ岩は思ったよりも小さかった。岩の前には楊梅(やまもも)が植えられていた。醜女に最後に投げたのは楊梅だったとしたらちょっと小さいが色としてはふさわしい。お願いしたタクシーの運転手さんは詳しくて、揖屋神社→黄泉比良坂→阿太加夜神社→風土記の丘資料館 →神魂神社→熊野神社→須賀神社→八雲山裾巡り(・・夫婦石)→八重垣神社(鏡> 池)と効率よく巡ってくれた。

茶臼山は目に焼きつくほど何度も目の前に現れた。それにしても、巡ったあたりの人気のなさは、昔は浅篠原だっただろう。山裾を巡りながらときどき二つ三つの棚田が現れる。二か月ほど前に観た韓国映画「牛の鈴音」を思い出させるような山村の風景である。

夕方五時には松江の駅に到着した。2日掛かると思った旅が一日で済んでしまった。明日はどうしようか、ということになったが、松江の町を歩く気も起こらなかった。日向(高千穂)なら行きたいけどね、と話し合ったが、黄泉比良坂を見た興奮をそのまま持ち帰ることに意見が一致した。それから寝台特急の出る7時30分までゆっくり食事をすることにした。

落合水尾句集『日々』2010年5月    角川書店刊

2010年5月23日 日曜日

   さざなみは暮れて光りぬ新松子
   足音の静かに混むは風の盆
   しのびあふごとくにふたり蕨とり
   昨日より今日の我好き赤とんぼ
  雑煮椀山々も無事海も無事

長谷川かな女、秋子に師事「浮野」を創刊主宰。非常に誠実な人柄がそのまま作品に反映されている。「さざなみ」などはその典型で、いずれも季語の本意を生かした句柄である。

加藤耕子句集『尾張圖繪』2010年5月    東京四季出版刊

2010年5月23日 日曜日

1987年に出版した句集を文庫版として復刊。その師系「馬酔木」の抒情を引き継いだ句柄を、力まないで踏襲しているのが、好ましい。

   朴散つて天の高さのもどりけり
   火の帯を水にほもとき鵜松明
   青き踏む背骨一本立てとほし
   裸木となりたる空の深さかな
   麦秋や一つゆるびし貝釦

『小西昭夫句集』2010年4月   創風社出版

2010年5月23日 日曜日

   改札を抜け木枯のまともなり
   枇杷の実の中の大きな枇杷の種
   枇杷を食うときのいつもの前屈み
   立春の妻を見ておりうしろから
   土曜日の浴衣が町にあふれけり

1954年生れ。それなりの年齢の落ち着きも感じられながら、現代の空気をしっかり読みとっている作家である。最近「子規百句」「虚子百句」の鑑賞著作がある船団会員。

訃報

2010年5月17日 月曜日

若葉のころは若い方が逝くのだろうか、と思えてくる。先日突然の小澤克己さんの死にびっくりしていたが、今週の月曜日には脇祥一さんの亡くなったお知らせを受けた。古い俳壇の中でも、この名前を知っている人もいるかもしれない。鹿火屋の書き手として、当時の原裕主宰も期待をかけていた人物だった。

当時は若手のホープとして俳人協会訪中団などにも押し出して、就職も本阿弥に入れたりしたのだが、なぜか自堕落な部分があったのだろうか。私の印象の中では無口で細かい気遣いのできる人だった。ふと、石鼎とダブルような人柄がイメージされる。もう20年以上お目にかかっていないから、途中で出会ってもわかるかどうか。

年鑑をみたら昭和24年生まれと書いてあったから、還暦くらいの年齢にはなっているのだ。入会したてのころは、お嬢さんのお婿さんにと原主宰が考えていたのではないかという想像まで、周りでは口にしていた。そんな脇さんが、当時の鹿火屋編集長として活躍していた北澤瑞史氏と鹿火屋を除名された理由は未だに会員にはわからない。その北澤瑞史氏の全作品鑑賞集が藤沢紗智子著として出たばかりである。

先日も鈴木栄子さんと夜なかの電話になってしまった中で、俳人協会幹事としての北澤さんの人柄のさわやかさは評判だったという話題になり、協会の誰さんも誰さんもとても信頼していた、という話をなさったばかりだった。除名になった北澤さんを中心に立ち上げた雑誌「季(とき)」の命名は、たぶん原裕の評論「季の思想」へのオマージュだったと思う。

ふたたび脇祥一さんの話題に戻るのだが、彼は当時の鹿火屋に書いた評論からは書ける人だったはず。「季」でそれを発揮してこなかったのは残念である。(合掌)

柿の葉寿司

2010年5月14日 金曜日

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この頃の柿の葉は一日ごとに大きくなる。てらてらと5月の光に薄緑の葉を茂らせて、今、いちばん生命力を感じさせる樹木である。その柿の葉を使って、毎年一回は柿の葉寿司なるものを作る。柿の葉は腐敗を防ぐ成分があるのだ。昔の人はそれを知って柿の葉寿司を作り始めたのだろう。

吉野で作られている柿の葉はもっと大きな葉になってから使われるのだが、私のは若葉のころの小さい葉である。ただ寿司飯と鯖やサーモンの酢に均したものを柿の葉に乗せて二つ折りにするだけである。そうして箱に詰めて、重しをしておくだけだから、いとも簡単である。写真の柿の葉寿司は出来たてで、葉が寿司飯になじんでいない。開いてみれば一口に入る大きさである。

この柿の葉寿司を教えてもらったのは、20年位前の連句を捲いていた頃。関口芭蕉庵で東明雅先生を中心に座が持たれていたが、皆さん風雅な食べ物を持っていらっしゃった。その中に、この柿の葉寿司があった。

『里』五月号

2010年5月14日 金曜日

到着したばかりの「里」を読んでいたら、「吾亦庵記録」にーー俳人協会の姿勢が理解できないといふことについてーーと題して島田牙城氏の意見の書いてあるページに出会った。極めて簡単に言ってしまえば俳人協会の入会資格が結社の主宰推薦しかないと言うこと。だから「里」にも来ないということ。

このことを俳人は案外知らないのではないかと思う。だから、「ににん」には推薦枠が来ないのだと言うと、一様に意外だという表情をしていとも簡単に「言ってあげるよ」と一度ならず協会に口添えをして下さった方がいる。

そのたびに、棚山氏から「同人誌」って年鑑に書いてあるので推薦枠はあげられない」という丁寧なお電話を頂く。実は今年もまた頂いたのである。なんだか、私が働きかけていたみたいだが、私はもうとっくに諦めているのである。しかし、昨年陳情して下さった方がどうなっているのか結果を問い合わせたのだろう。それで、今年は協会推薦を促してくださった方に「どうぞご放念ください」という文書まで送った。

俳人協会入会資格の人選っていうものがほんとうに正しくできるのか言えば、主宰の質を掌握出来ないかぎり不可能である。だから、きわめて曖昧な基準なのである。入会資格を、これ以上曖昧にしないために、ということで現在の入会要項があるのだろうか。本来、俳人協会の設立目的は俳人の保険加入を確保するためだったと聞いている。

ネパールの写真

2010年5月12日 水曜日

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写真はネパールの街中らしい。実は毎日新聞の「俳句あるふあ」から三十代の俳人を紹介してということだった。「ににん」に三十代は三人いるのだが、より若い人ということでシノミヤさんを紹介しておいた。その原稿締め切りが今日なのである。

実はこの原稿の締め切りが迫っている10日ほど前に「連休にネパールに行ってきます」と言われて、すぐにはエベレストまでに想像出来なかったが、それを見越したように「エベレストに登ってきます」、と言われた。そんな話を一度も聞いたことがなかったが、それでもエベレストならそれ相応の準備もあるだろうに。

「原稿は帰って来てから出します」ということで、ちょっと心配していたが、無事に予定通り帰宅したらしく、メールに何枚かのネパールの写真が添付されていた。あちらはストライキに遭遇して、麓から駅まで一日かけて歩いたという。なんと凄いこと、と思うのだがさわやかなメールだった。やれやれ。

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