ぱそこんを使うには、遠近両用でも駄目なのである。近眼用の眼鏡では近すぎるし、手許を見る老眼鏡では遠いのだ。それで至近距離、要するにぱそこんの画面にぴんとを合わせた眼鏡がいいと、店の人はいう。どんなふうになるのだろうか。出来上がるのが楽しみである。
眼鏡は近眼用も老眼用も、何度も作っている。作ってはみるのだが結局使わないのは、どちらも使わなくても見えてしまうのである。それなら作らなくてもいいではないかと思うのだが、目が疲れるので、眼鏡があれば疲れないのかもしれないと思いながら眼鏡屋に足を運んでしまうのだ。
読書に没頭するときには老眼を掛けるのだが、新聞やら手紙やらの短時間で済んでしまうものは使わすに読む。要するに、近くも遠くも、取り敢えずは支障なく見えるのである。わたしの目は左右がかなり視力に差があって、片方で遠くを、そうして片方で近くを見るように慣らされているのだ。片方で見るので疲れるのだと、眼鏡屋さんはいう。
いっそうのこと、遠近のどちらかが見えなければ必ず眼鏡を掛けるのだが、掛けずに済んでしまうので、何時までたっても眼鏡に慣れない。かえって厄介な状況となっている。役にも立たない老眼鏡や近眼用が幾つもごろごろ引き出しを占領しているのが、遣り残しのように気になって仕方が無い。
降るものの雪の中なる薄紅梅 石鼎 昭和17年