2007年6月 のアーカイブ

ラジオ深夜便

2007年6月27日 水曜日

  近江にいた27日のNHK深夜便放送で、

        逢ひたくて螢袋に灯をともす

この句を放送した。といっても、実際には聞いていない。放送するのが、午前4時50分からなのである。2時とか3時とかに就寝するわたしは、最初から聞くことを放棄していた。まして、その日は宿泊先にいた。

ところが、世の中にはたくさん早起きの人がいるのである。俳句もしていない友人数人が、電話や手紙で、放送を聴いたと言ってきた。どうも、女性の声で読み上げられたらしくて、私が読んでいたのかと思った人もいた。

見知らぬブログにも、この放送を聴いたことを書いている人がいた。去年の同じ時期には、東京新聞のコラム「洗筆」でも、紹介された。
このときもまたブログにいろいろな人が書き込んでいた。 この、ラジオ深夜便はあんがい人気なのだそうである。

正津勉さんの娘さんが監督した映画「ハリオの夏」が、ある日、劇場が急に混んできたのだという。正津さんが不審がって、どうして知ったのか訊ねてみると、ラジオ深夜便で紹介していたからだと答えたという。

句集 

2007年6月17日 日曜日

夏石番矢著『連句 虚空を貫き』   七月堂刊

 夏石氏の作品で覚えているのは、(千年の留守に瀑布を掛けておく)の句である。
夏石氏のいう連句は連詩と同義に考えてもいいのだと思っている。
一頁に一句、それに番号が付されて100韻で完結。

 奇数の俳句はカジミーロ・ド・ブリドー氏。のポルトガル語。そして偶数が夏石氏の作品。お互いの作品はそれぞれの母国語に訳されている。さらに二人交互の連句は英訳と仏訳も付されて世界に発信されている。

13     逃げよ、蝶!           
       人間らが来る
        軍隊が           カジミーロ・ド・ブリドー

14    ヒロシマという語
        蝶より
       重からんや          夏石番矢

15    瀕死の獣
       地球まだ
     燃えまだ飛んでいる       カジミーロ・ド・ブリドー

16     磁気嵐
       地球は
     わが家に帰れるか        夏石番矢

やはり、三行詩として感受すればいいのかもしない。

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ブソン青眼句集『渡り鳥日記』  

マブソン氏とは二年ほど前に角川の「俳句」誌の座談会でご一緒したご縁で、句集を頂いている。今回は彼の第三句集。第一句集から自筆の句集で、今回もそれを踏襲している。印象としては、気ままになったというのが適切のようだ。遊びの一つが本家取りを意識して創作していることである。

     
     姫塚や月は東に陽は西に
     あら尊と青田のナイルに日の光
     小春燃えカイロいっぱいの子供かな

 
 もう一つの特徴は、語音に触初されながら、言葉を引き出している。この分部でも、やはり遊びの特徴が出ている。  
     

句集と評論 

2007年6月7日 木曜日

      
山口都茂女著・句集『大山蓮華』    角川書店

1932年生 西本一都に師事し、後に「藍生」創刊に参加する

春愁の砂買ひにゆく九十九里
牛乳はうらの泉にいつも二本
蝮草うしろすがたを伸ばしけり
斑猫とぶ起きて青年と歩く
曲るのがらくな糸瓜でありにけり
草の実や東をしらず西しらず
一匹の目高に出会ふ寒の甕
よく晴れて海は鳴るなり冬の鳥

うっかりしていると通り過ぎてしまいそうに何気ない。しかし、ひとたび立ち止まると、つぎつぎと立ち止まる。ひとことで言えば透明な滋味である。

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小澤克己著 『芭蕉が船でやって来た』
        「奥の細道」深川〜草加水路説   東京図書出版会

小澤克己著 『奥の細道』新解説
            〈旅の真実〉と〈旅の心理〉    東洋出版

たとえば、「深川〜草加水路説では‥‥舟に乗て送る。千じゅと云所にて船を上がれば‥‥
という件の「舟」と「船」に注目したりしながら、論を進めている。
そして、〈旅の真実〉と〈旅の心理〉 の書では、 旅の日程から、美意識的な日程へ書き込みながら、芭蕉にせまっている。
「奥の細道」は汲んでも汲み切れない魅力を内包した一書なのかもしれないと誰もが認識していると思う。そのことを、改めて感じさせてくれる著書である。 

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 高 千夏子著句集『底紅』

先生はメガホンが好き麦の秋
校長に切株ゆづり遠足子
小鳥来る何するとなく針持ちて
槙の実を食めば読めさう鐘の銘

面白い発想で楽しめる。

「ににん」27号へ転載しました

2007年6月4日 月曜日

異土の夏雀の言葉もわからない      恵
春霖に孔雀の頸の柔らかさ            三千夫
すずめのゑんどうコップを逃走す        戯れ子 
春雷の過ぎて雀の空騒ぎ               たんぽぽ
冴え返りお地蔵さんに来る雀           半右衛門
華の夢に飛び込んだその雀かな     青葵
おそろしき孔雀おそろしき春月    坂石佳音
雲雀野に赤白黄の園帽子       祥 子  
葉桜や靖国雀静かなり        半右衛
親雀とべば子雀まへのめり      隠岐潅木
瞑りて温みありけり雀の子      shin
追ふ雀追はるる雀さくら時       たんぽぽ
雀路燕路あり町の空         坂石佳音
竹秋の雀色時長岡京         曇遊
愛でられてこの国に住む雀の子    祥子
蒲公英の色を汚さずむら雀      ミサゴン
すでに夜のはこべらにただ在る雀   石田義風
予後の庭早くも雀隠れかな      横浜風
荒川の荒瀬のあたり揚雲雀      森岡忠志
こころにもない言葉さらり寒雀      lazyhip
ニュートンや雀の恋のひらひらと     半右衛門
四十雀の黒ネクタイも三鬼の忌     ショコラ
野辺送りいとしや雀隠れに佇ち     高楊枝
さまざまに子持雀の小さき声      壽々女
菜の花や脚を揃へて跳ぶ雀       半右衛門
その中に贔屓の雀春の風邪       たんぽぽ
遊び場の砂の無くなる雀の子       十文字
葬りし雀の墓や日脚伸ぶ        岩田 勇
料峭や埴輪の笑みの雀いろ      たかはし水生
夕東風や雀が雀色の木に       たんぽぽ
鶯の鳴いて雀の鳴かぬかな      半右衛門
雀みな出払つてをり雛祭       たんぽぽ
蛤の夢に雀の跳ね止まず       三千夫
とんと来ぬ雀や菜飯まだ皿に      高楊枝
口開けて顔一杯の雛雀        半右衛門
バスを待つ著莪咲く里の雀見ず    隠岐灌木
銀河系水の惑星雲雀かな            祥子
雲雀丘花屋敷駅新樹光           曇遊
揚雲雀天を支へてゐるのかも     岩田 勇
揚雲雀田は喜びて水満たす        祥子
沈丁に酔ひし雀の笑ひ声        戯れ子
藁屑を零し窓辺の雀の巣       大山つきみ
雀知らぬ子もいるらし保育園      acacia
金雀枝の二樹にこだわる兜太の句    曇遊
まさおなる空に出入りの雀二羽      西方方人
ぽつねんと雀色して春の山        西方方人
燕来て目立たなくなる雀かな       ハジメ
浮世には知らぬが仏雀の子        ミサゴン
揚雲雀遠回りしてポストまで     ショコラ
投錨のえりもとましゆう雀の子      ヒデ
収穫を雀と語る案山子かな        祥子
まさおなる空に出入りの雀二羽     西方来人
ちゅんちゅんと声を残して消えにけり    acacia
パンくずをやうやく銜へ雀の子    岩田  勇
雀蛾の西日に溶けて夜になりぬ       三千夫
夕雲雀高く昇るは墜つるため       猫じゃらし
春風一陣雀ふとよろめきぬ      森岡忠志
揚雲雀影もろともに一つ点        隠岐潅木
燕雀も鴻鵠もなく春眠す          三千夫
雀みな出払つてをり雛祭         たんぽぽ

龍土町

2007年6月2日 土曜日

石鼎の二度目の新居になり、鹿火屋創刊の地でもある竜土町を訊ねる準備をしつつある。準備と言っても、誰か案内してくれる人があるわけではなく、麻布龍土町五十四という住所だけがたよりなのである。

よほど狙いをつけていかなければ、歩けない。例の古地図がインターネットから消えてしまい、コピーもとっていなかったのが無念である。
スパイ・ゾルゲの仲間であった宮城与徳が麻布区竜土町二十八、現在では港区六本木6−8辺り、六本木の旧防衛庁前の路地とあるからかなり近い位置である。そんなところから探ろうかな、と思っている。もっとも、その片鱗さえないほど変わっているのだが・・・。

     打水に浮き出て暮れぬ苔の花   コウ子

その竜土町で作った句である。
大正十一年作・『原コウ子全句集』・季語は「苔の花」で夏の季語。実際には苔は隠花植物だが、梅雨のころから白や薄紫の胞子を入れた胞子嚢が花と呼びたいような美しさになるのである。
「大正七年秋に石鼎と結婚、麻布龍土町に一軒を借り受ける。大家は植木職のこととで、庭は見事な苔むす石組であった。その苔の花を見て。」という作者の自註がある。
夕暮れの打水に色を深くした苔から浮き上がるように、苔の花もあざやかに甦った。(浮き出て暮れぬ)はそうした花のありようであると同時に、一日の暮れようとしている瞬間の感慨でもある。
とは言っても、いつものような一日であるに過ぎない。特別な事柄があったわけでもなく、ことさら振り返ろうと思ったわけでもない。ただ、打水に浮き上がった苔の花の鮮やかさが、一日の終るという意識を浮き上がらせて「暮れぬ」のことばを引き出したのである。

石鼎は妻であるコウ子を俳人にするつもりは全くなかったようなので、大正十年に創刊された「鹿火屋」に俳句を出してはいない。この作品は、創刊一年後の「鹿火屋」にはじめて発表した句である。ここから俳人原コウ子としての歩みが本格的にはじまったようである。                                                                          

原コウ子

2007年6月1日 金曜日

原コウ子  
今月中に、原石鼎の夫人だった原コウ子の作品鑑賞を二十枚ほど書かなければならないので、一日コウ子の『昼顔』『胡卉』『胡色』を読みふけった。
コウ子夫人に私が出会ったのは、原裕に主宰を譲って、町の句会などを指導していた時期。まだ、お元気だった。矍鑠としている、という表現があたるような気力を持っていた。しかし、そういう表現が相応しくない色白で小柄で、細身の飄々とした女性だった。句会で、俳人協会の自註句集を買い求めたので、揮毫をお願いした。
快く筆は持ったのだが、それからご自分の句をどれにしようかと、ながいこと迷っていらっしゃった。ページを繰るたびにその句の世界に入り込んでしまったみたいに見入っていて、なかなか決めかねていた。わたしはそのとき気になっていたいた句を指し示すと、「それもいいわねー」、と一気に筆を走らせた。

       初冬のこころに保つ色やなに     コウ子

昭和22(1947)年・52歳、石鼎が没する4前年の作品。その自註には
「春は華やかな色を芯に夏は緑、秋は紅葉の衣も初冬を迎える心の中では生きている。初冬の色や何とわが心に問うが、静寂に入る静けさだけだった」
とある。コウ子はこの頃から老いという言葉を句に詠む様になっている。まだそんな年齢ではないと今なら思うのだが、やはり明治生まれなのだ。
石鼎も独特な筆使いだが、コウ子夫人もみごとだった。
昭和55(1980)年のこと、、当時のコウ子夫人の年齢は80歳を越えていた。

コウ子 2  
主宰を退いていた原コウ子だったが、何年かは東京例会に出席していた。

   新緑や暮らしの端に欅立つ      (朝の椅子)

この句を出句したときに、ことさら気に入ったのか、改めて誰の作品かを確認していらっしゃったのが思い出される。
そのころ、現在の鶯の鳴く空き地の持ち主の屋敷には、欅が何本も聳えていた。その一本が、朝は小さな我が家の屋根をすっぽり覆うので、クーラーも必要なかった。この欅から賜った句はたくさんある。

  朝の椅子欅の冬を迎へけり
  野分あと子がひとりづつ欅過ぐ
  木末まで欅みてより紫蘇きざむ

その欅もいつの間には、一本ずつ消えてしまって、今窓から見渡せるところに、欅は一本もない。その木のあった土地が何かに使われたわけでもないのに、どうして切ってしまったのか分からない。

ところで、膨大な句数を収録した石鼎全句集に、まだ欅の句は見つからない。
コウ子の作品にも思い出す句はない。

コウ子 その3  
コウ子夫人と、もう一度近々とお目にかかった場面がある。
鹿火屋の大会を高野山で行なったときである。鹿火屋の記録を繰ると昭和五十四(1979)年のことだ。
宿に荷物をおいた私たちが散策している途中、遅れて着いたコウ子夫人と近所に住む鹿火屋人一行に出会った。
夫人は「この人達が、大阪で買い物に夢中になってなかなか動かないんですもの」と、愚痴を言うようなしゃべり方だった。しかし、「この人達」がというのが「この子たち」というふうに聞こえる親しさがあった。

原裕の弟子として入会したわたしたちには見せない親近感である。
夜、部屋が不案内で、おろおろしていたコウ子夫人を見かけた私の仲間が、ご案内しようとしたが、○○さんと連呼していて、関われなかったと語っていた。
もう新しい人達に馴染もうとはしなかった。

コウ子はその後の主宰になった原裕とは違って、筆まめで、きめ細かな弟子との交流をしていた。親族を亡くしたり、病気になったりした弟子には必ず手紙を書いていたようである。
現在藍生会員三島広志氏はかって原コウ子に入門したことがあるようだ。その時代、昭和四十九年、二十歳のときに貰ったハガキの内容を公開している。
 口語俳句に転向して、袖を分かつことになった市川一男も、最晩年まで交流を持ち、援助をしていたようである。

      くれなゐの膚(ふ)に秋風や高野槙   コウ子

コウ子 その4  
私が鹿火屋にいたころ、密かに囁かれていた事柄がある。「コウ子先生は処女」ということだった。
当時は、原石鼎そのものへの認識もなかったし、ましてやその夫人への認識も関心もなかった。

「何んでかなー」

とはおもっても、それを追求するほど情熱も持っていなかった。
しかし、石鼎論を書き始めてから、生涯の処女である、ということがまんざら否定もできないとことだと思い始めた。そしてこのところ、さらにその風評は真実のようにも思われてきた。
それはちょうど、わたしの石鼎論が大正七年、石鼎が結婚する時期にきたからである。

石鼎は結婚に際して「僕と結婚するということは、貧乏と僕の病身に堪え得る覚悟が重大だ」と言った。具体的には「子供を作らないこと」「嘘をつかないこと」「お金をためないこと」だった。

京都医専時代に梅毒の治療を受けたが、石鼎は完治の確認をしていない。
この子供を作らない、という約束ほどコウ子を苦しめたものはなかったのだろう。それは俳句に現れている。

   虫の音に遂に負けそう子が欲しく  コウ子  

のちにコウ子は「はじめから兄弟のようで、おそらく一生夫婦という気持ちは石鼎もわたしも味わわなかったかも知れない」と述懐している。

コウ子 その5   
石鼎は結婚したら、毎夜コウ子に本を読んであげようと思っていたらしい。しかし、その前にコウ子は眠ってしまうので諦めたようだ。
その代わりというのでもないが、石鼎は執筆をしているときも、コウ子の頭を膝に載せて仕事をしていた。それが何時間もだったとか。コウ子が「お手伝いが見られるからというと、お手伝いに毛布をもってこさせてコウ子の体を包んでいた。結婚ごっこをしているような場面である。

そして、大正十四年にコウ子は「夫婦生活は遠のいたが愛情はかえってこまやかになった」と語っている。関東大震災の後遺症により体調が極度に低下したときである。結婚七年後のことである。
この二点の書き込みのどちらもが、私には不自然に思えるのである。
まして、夫婦生活云々をわざわざ書くのかなー。という気がするのである。むしろ、無かった夫婦生活の偽装にも思えてしまう。

さらに、須賀敦子の「遠い朝の本たち」には敦子が九歳ころの隣家が原石鼎の家だったことから、その印象が描かれている。
少女にはまだ四五歳の石鼎が老人として映っている。
夫人は石鼎よりも十二歳下であるにもかかわらず、顔色の悪い暗いイメージで捉えていたのは、須賀敦子をはじめととする兄弟三人の騒ぐ声がうるさくて、病気の石鼎に触るからと、苦情を言いにきているからである。
須賀敦子の母親は、「あの人は子供を亡くしたから」と言っていたが、これは聞き違いのような気がする。しかし、もしかしたら、「お子さんは」などと聞かれてそんな風にこたえたかもしれない。

  コウ子 6
新居となった麹町上六番町を歩いてみようと思い立った。
石鼎がコウ子を迎えるために借りた住所である。そのあたりへ出るには、我が家からは有楽町線で市ケ谷まで乗り換えなしでいける。
途中に住んでいる友人に、暇なら付き合ってもらおうとしたが、「今日は予定が入っている」ということなので、それなら一人で歩くわ、とばかりに家を出た。
もちろん、インターネットで取り出した地図をしっかり携えて、地下鉄も一番近い出口を探した。

   春寒や西東郷大将東大橋図書館   石鼎

これは石鼎が、コウ子を迎えるにあったて借りた家の転居案内に書き込んだ句である。
新居といっても、相変わらずの二階住みの下宿である。
手紙が「麹町西東郷大将東大橋図書館中間・浦野方原石鼎様」という珍妙な表示でも届いたようだ。
その大橋図書館は現在は存在しないが、東郷大将の屋敷跡は記念公園になっていて、九段小学校が隣接していた。
コウ子はそのあたりの様子を

「東郷大将邸の向いに側には渡辺水巴さんのお宅も教わったが何時通ってもしんとしていた。
東郷大将邸の黒塀を通り抜けて、帯解け坂という長い坂をだらだら下りて外濠までよく散歩に出かけた。時に神楽坂あたりまで足を伸ばすこともあった。」

このとおりに辿るには、現在の東郷元帥記念公園の脇の27通りを辿って、東郷坂を横切り、帯坂から市ケ谷見付方向進むようだ。
あたりは番町皿屋敷の物語の生れたところだと思うのだが、そんな暗さも屋敷跡もない。坂の名前が残っているのが、唯一の手掛かりになった。
結納もない結婚式を済ませ、はじめてコウ子が叔母と一緒に石鼎の下宿にいくと、この浦野という大家の怪物めいた老婆の顔に吃驚した。それ以上に驚いたのが石鼎の部屋であった。布団は敷きぱっなし、本や雑誌が足の踏み場もないほど散らかっていたのである。
ここから、すでにコウ子は尽くす人生の一歩を歩み始めてしまったのだろう。
夫婦って、どちらかが、尽すタイプになるように決っているのだ。そうでなかったら、部屋が片付かない。叔母に付き添ってもらって部屋にきたコウ子は早速ふたりで、着物の裾を端折って掃除をはじめたが、その間、石鼎は窓から外を眺めていたのだという。

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