原コウ子

原コウ子  
今月中に、原石鼎の夫人だった原コウ子の作品鑑賞を二十枚ほど書かなければならないので、一日コウ子の『昼顔』『胡卉』『胡色』を読みふけった。
コウ子夫人に私が出会ったのは、原裕に主宰を譲って、町の句会などを指導していた時期。まだ、お元気だった。矍鑠としている、という表現があたるような気力を持っていた。しかし、そういう表現が相応しくない色白で小柄で、細身の飄々とした女性だった。句会で、俳人協会の自註句集を買い求めたので、揮毫をお願いした。
快く筆は持ったのだが、それからご自分の句をどれにしようかと、ながいこと迷っていらっしゃった。ページを繰るたびにその句の世界に入り込んでしまったみたいに見入っていて、なかなか決めかねていた。わたしはそのとき気になっていたいた句を指し示すと、「それもいいわねー」、と一気に筆を走らせた。

       初冬のこころに保つ色やなに     コウ子

昭和22(1947)年・52歳、石鼎が没する4前年の作品。その自註には
「春は華やかな色を芯に夏は緑、秋は紅葉の衣も初冬を迎える心の中では生きている。初冬の色や何とわが心に問うが、静寂に入る静けさだけだった」
とある。コウ子はこの頃から老いという言葉を句に詠む様になっている。まだそんな年齢ではないと今なら思うのだが、やはり明治生まれなのだ。
石鼎も独特な筆使いだが、コウ子夫人もみごとだった。
昭和55(1980)年のこと、、当時のコウ子夫人の年齢は80歳を越えていた。

コウ子 2  
主宰を退いていた原コウ子だったが、何年かは東京例会に出席していた。

   新緑や暮らしの端に欅立つ      (朝の椅子)

この句を出句したときに、ことさら気に入ったのか、改めて誰の作品かを確認していらっしゃったのが思い出される。
そのころ、現在の鶯の鳴く空き地の持ち主の屋敷には、欅が何本も聳えていた。その一本が、朝は小さな我が家の屋根をすっぽり覆うので、クーラーも必要なかった。この欅から賜った句はたくさんある。

  朝の椅子欅の冬を迎へけり
  野分あと子がひとりづつ欅過ぐ
  木末まで欅みてより紫蘇きざむ

その欅もいつの間には、一本ずつ消えてしまって、今窓から見渡せるところに、欅は一本もない。その木のあった土地が何かに使われたわけでもないのに、どうして切ってしまったのか分からない。

ところで、膨大な句数を収録した石鼎全句集に、まだ欅の句は見つからない。
コウ子の作品にも思い出す句はない。

コウ子 その3  
コウ子夫人と、もう一度近々とお目にかかった場面がある。
鹿火屋の大会を高野山で行なったときである。鹿火屋の記録を繰ると昭和五十四(1979)年のことだ。
宿に荷物をおいた私たちが散策している途中、遅れて着いたコウ子夫人と近所に住む鹿火屋人一行に出会った。
夫人は「この人達が、大阪で買い物に夢中になってなかなか動かないんですもの」と、愚痴を言うようなしゃべり方だった。しかし、「この人達」がというのが「この子たち」というふうに聞こえる親しさがあった。

原裕の弟子として入会したわたしたちには見せない親近感である。
夜、部屋が不案内で、おろおろしていたコウ子夫人を見かけた私の仲間が、ご案内しようとしたが、○○さんと連呼していて、関われなかったと語っていた。
もう新しい人達に馴染もうとはしなかった。

コウ子はその後の主宰になった原裕とは違って、筆まめで、きめ細かな弟子との交流をしていた。親族を亡くしたり、病気になったりした弟子には必ず手紙を書いていたようである。
現在藍生会員三島広志氏はかって原コウ子に入門したことがあるようだ。その時代、昭和四十九年、二十歳のときに貰ったハガキの内容を公開している。
 口語俳句に転向して、袖を分かつことになった市川一男も、最晩年まで交流を持ち、援助をしていたようである。

      くれなゐの膚(ふ)に秋風や高野槙   コウ子

コウ子 その4  
私が鹿火屋にいたころ、密かに囁かれていた事柄がある。「コウ子先生は処女」ということだった。
当時は、原石鼎そのものへの認識もなかったし、ましてやその夫人への認識も関心もなかった。

「何んでかなー」

とはおもっても、それを追求するほど情熱も持っていなかった。
しかし、石鼎論を書き始めてから、生涯の処女である、ということがまんざら否定もできないとことだと思い始めた。そしてこのところ、さらにその風評は真実のようにも思われてきた。
それはちょうど、わたしの石鼎論が大正七年、石鼎が結婚する時期にきたからである。

石鼎は結婚に際して「僕と結婚するということは、貧乏と僕の病身に堪え得る覚悟が重大だ」と言った。具体的には「子供を作らないこと」「嘘をつかないこと」「お金をためないこと」だった。

京都医専時代に梅毒の治療を受けたが、石鼎は完治の確認をしていない。
この子供を作らない、という約束ほどコウ子を苦しめたものはなかったのだろう。それは俳句に現れている。

   虫の音に遂に負けそう子が欲しく  コウ子  

のちにコウ子は「はじめから兄弟のようで、おそらく一生夫婦という気持ちは石鼎もわたしも味わわなかったかも知れない」と述懐している。

コウ子 その5   
石鼎は結婚したら、毎夜コウ子に本を読んであげようと思っていたらしい。しかし、その前にコウ子は眠ってしまうので諦めたようだ。
その代わりというのでもないが、石鼎は執筆をしているときも、コウ子の頭を膝に載せて仕事をしていた。それが何時間もだったとか。コウ子が「お手伝いが見られるからというと、お手伝いに毛布をもってこさせてコウ子の体を包んでいた。結婚ごっこをしているような場面である。

そして、大正十四年にコウ子は「夫婦生活は遠のいたが愛情はかえってこまやかになった」と語っている。関東大震災の後遺症により体調が極度に低下したときである。結婚七年後のことである。
この二点の書き込みのどちらもが、私には不自然に思えるのである。
まして、夫婦生活云々をわざわざ書くのかなー。という気がするのである。むしろ、無かった夫婦生活の偽装にも思えてしまう。

さらに、須賀敦子の「遠い朝の本たち」には敦子が九歳ころの隣家が原石鼎の家だったことから、その印象が描かれている。
少女にはまだ四五歳の石鼎が老人として映っている。
夫人は石鼎よりも十二歳下であるにもかかわらず、顔色の悪い暗いイメージで捉えていたのは、須賀敦子をはじめととする兄弟三人の騒ぐ声がうるさくて、病気の石鼎に触るからと、苦情を言いにきているからである。
須賀敦子の母親は、「あの人は子供を亡くしたから」と言っていたが、これは聞き違いのような気がする。しかし、もしかしたら、「お子さんは」などと聞かれてそんな風にこたえたかもしれない。

  コウ子 6
新居となった麹町上六番町を歩いてみようと思い立った。
石鼎がコウ子を迎えるために借りた住所である。そのあたりへ出るには、我が家からは有楽町線で市ケ谷まで乗り換えなしでいける。
途中に住んでいる友人に、暇なら付き合ってもらおうとしたが、「今日は予定が入っている」ということなので、それなら一人で歩くわ、とばかりに家を出た。
もちろん、インターネットで取り出した地図をしっかり携えて、地下鉄も一番近い出口を探した。

   春寒や西東郷大将東大橋図書館   石鼎

これは石鼎が、コウ子を迎えるにあったて借りた家の転居案内に書き込んだ句である。
新居といっても、相変わらずの二階住みの下宿である。
手紙が「麹町西東郷大将東大橋図書館中間・浦野方原石鼎様」という珍妙な表示でも届いたようだ。
その大橋図書館は現在は存在しないが、東郷大将の屋敷跡は記念公園になっていて、九段小学校が隣接していた。
コウ子はそのあたりの様子を

「東郷大将邸の向いに側には渡辺水巴さんのお宅も教わったが何時通ってもしんとしていた。
東郷大将邸の黒塀を通り抜けて、帯解け坂という長い坂をだらだら下りて外濠までよく散歩に出かけた。時に神楽坂あたりまで足を伸ばすこともあった。」

このとおりに辿るには、現在の東郷元帥記念公園の脇の27通りを辿って、東郷坂を横切り、帯坂から市ケ谷見付方向進むようだ。
あたりは番町皿屋敷の物語の生れたところだと思うのだが、そんな暗さも屋敷跡もない。坂の名前が残っているのが、唯一の手掛かりになった。
結納もない結婚式を済ませ、はじめてコウ子が叔母と一緒に石鼎の下宿にいくと、この浦野という大家の怪物めいた老婆の顔に吃驚した。それ以上に驚いたのが石鼎の部屋であった。布団は敷きぱっなし、本や雑誌が足の踏み場もないほど散らかっていたのである。
ここから、すでにコウ子は尽くす人生の一歩を歩み始めてしまったのだろう。
夫婦って、どちらかが、尽すタイプになるように決っているのだ。そうでなかったら、部屋が片付かない。叔母に付き添ってもらって部屋にきたコウ子は早速ふたりで、着物の裾を端折って掃除をはじめたが、その間、石鼎は窓から外を眺めていたのだという。

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