秋山巳乃流さん

秋山巳乃流さんが亡くなった。七日の朝だったようで、新聞によると、すでに密葬を済ませていた。はじめてお目に掛ったのは昭和六十三年秋の中国訪中団に参加したときである。勿論、その夫人の素子さんとは、鹿火屋で馴染んでいて、ときどきは、ご主人のお話も出たので、全くの初対面には感じられなかったが、それ以上に気取らぬ暖かい方だった。機内食を食べながら「まるで、ブロイラーになったみたいだね」とおしゃった。秋山さんは総合誌「俳句」の編集長として取材をかねて俳人協会の人達と同行して、飛行機の席がお隣だった。

北京、上海、西安を廻る旅だったが、碑林を歩いているときに突然後ろの方から大声で「元気を出して岩淵さん」という声が届いた。秋山編集長だった。バスで移動しながら見学をしている何処かで、私は俳句手帖を失くしてしまったのである。呑気な私は、それほど拘っていなかったが、うしろ姿がしょんぼりしているように見えたらしい。

中国の旅は三回しているが、何故かいつも秋山さんがご一緒だった。ウルムチ・トルフアン、天山の中腹にある天山湖まで足を伸ばしたときには、癌の手術をした後だったと思うのだが、大柄な秋山さんからは、病的な雰囲気は見えなかった。だが、特製の小座布団を携帯しているのが印象的だった。その翌年もまた、秋山さんが同行していた。西安に行く予定でいたが、濃霧のために飛行機が2日待っても飛ばなかった。添乗員が方向転換して最近解放地区になった西塘を案内してくれた。上海からバスで行ける場所だったが、一世紀も時代が戻ったような住居だった。

三回目の旅の上海で頣和園を巡っているときに、案内人の懇切丁寧な説明を切り上げさせたくて、足元に生えていた、植物を指さして「これ何んというの」と、秋山さんが聞いた。龍の髭のような植物だった。案内人は、暫くしげしげとそれを眺め下ろして、それからおもむろに「草」といった。皆で爆笑してしまった。頣和園はみんな何回も訪れていたのだ。最後の旅のときには少し辛そうだった。「早く帰りたいよ」とも呟かれた。それでも、あれから五年くらいは過ぎていただろうか。 ににんへ

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