麻布と龍土町

以前ブログにも書いたことだが、麻布本村町の石鼎の住んでいた場所を、突き止められないでいるときに、古書店で麻布本村町という大きな背文字を見つけて、それだけで買ってきた本。それが、麻布に住んでいた人の思い出のようなエッセイ集だった。

ツエッペリン伯号が昭和4年8月19日に東京の上空を通ったのも五歳のときに見ていた。第二次大戦のときには、青年団としていろいろなことに狩り出された話もあった。その著者は荒潤三さんという大正14年生まれ。健在なら、80歳は越しているのだが、もしお元気ならお目に掛りたいと思って手紙を差し上げたら、お元気で、麻布も案内できるということだった。

だが、私のほうがぐずぐずしていて、その時期を逸してしまっていた。今年に入って時候がよくなったので、よろしかったら案内しますというお手紙を頂いた。もうこのチャンスを逃すわけにはいかない。早速の連絡で今日、案内していただけることになった。

待ち合わせの場所は、しっかりハガキに地図が書きこんであった。南部坂入口というか、有栖川広尾口。ケイタイのアドレスも書きこんであったので、早速メールを入れてみたら、「了解、天気晴朗であるように」というお返事がきた。最後にお日様マークも入って。地図もそうだが、さすが早稲田理工学部出身のこなし方だ。

時間ぴったりにお見えになった荒さんは、信号の向うで私を見て手を振った。私が白いバッグとサングラスで行きましょう、といったのですぐわかったようだ。南部坂を上って、フィンランド大使館を過ぎたところに、目的の住宅街があった。わたしも、そこまでは一人で来ていたが、同じ番地の中に3本の路地が通っていて、広大な土地が116番地だったのである。

荒さんもその後、石鼎も読み、須賀敦子のエッセイも読んだようで、崖上になる住宅街の一番端が石鼎と須賀敦子の住んでいた家の筈だとおっしゃった。そこだとコウ子のいうとおりに谷底のように渋谷川があって、その向うの遥かに聖心女学院の塔が見えるのである。
同じ116番地でも、そこだけが、少し大きな邸宅だったようである。それ以外の116番地にある住宅は、昭和19年に類焼防止のために、疎開を強いられて、青年だった荒さん等が家を壊しに行ったそうである。

ついでなので、龍土町も歩いて頂いた。場所は地図では分かっていても、実際には分かりにくかったが、やっと確信をもてるまでに、突き止めた。土地が均されて高台は無くなっていたが、道がわずかにクリーニング屋さんのほうへ傾れていた。

最後に六本木でお茶をしていたときに伺ったのだが、その「麻布本村町」・「横綱の墓を訪ねて」「落語歌留多」の著書はみんな広告の裏紙を綴じておいたものに書いたのだという。印刷屋もそれでいいって言ったのでそのまま渡したのだそうである。やっぱし昔の人は違う。

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