石鼎の俳句論

荻窪のカルチャー教室は一応初心者用ということではじめたので、基本的なことを言うに止まる筈だった。しかし、文芸というものは、初学の基本だけでは済まない問題を抱えている。例えば、「物で語れ」といういい方は、虚子の客観写生と同じ方法論だ。だがそんなに単純にはいかない。

      遅き日のつもりて遠きむかしかな     蕪村
      さまざまのこと思い出す桜かな      芭蕉
      湯豆腐やいのちのはてのうすあかり   万太郎
      朝戸繰りどこも見ず只冬を見し     原石鼎

こうした句を前記の論理に当てはめていくと難あり、という風になりそう。文学に初学も奥義もないのである。原石鼎はあまり論理家ではなかったが、作句の方法を自分の気持ちに沿うことを第一義にしている。

ーー文学的に最もよい俳句を作る、といふ、其「最もよい俳句」といふ観念の中には當然、在来の俳句に比してどこかに一歩新しく進んでゐるといふことが含まれてゐなければならぬ。而して斯かる条件が加わつてゐる以上、何處から何處までといふ既知の範囲から決して何等の拘束、制限をうくべき筈のものものではない。

それで、最初は、斯ういふ事柄は俳句に詠まれ得るか、又は俳句に詠んでも差支ないのか、といふ様な事に拘泥するよりも先づ自分の心に「面白い」、「慕わしい」と感ずることを句に作つてみることが第一であろう。そして、それが「最もよき俳句」になり得さへすればそれで十分ではないか。元来私は、事柄が俳句を作るのではなくて俳句の持つ形式と約束とが俳句を作らしめるのではないかとさへ思ふことがある。(俳句文学全集 原石鼎編)ーー この中のことに「斯ういふ事柄は俳句に詠まれ得るか、又は俳句に詠んでも差支ないのか、といふ様な事に拘泥するよりも先づ自分の心に「面白い」、「慕わしい」と感ずることを句に作つてみることが第一であろう。」という箇所が好きである。自分が面白いと思えなくては、創作をやる意味がない。石鼎の実作から出た言葉は確かな重みがある。

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