2009年7月 のアーカイブ

人間もパソコンも

2009年7月15日 水曜日

足の親指に魚の目が出来てから何年になるだろうか。確実に育っていくので、ときどき薬を買ってきて貼るのだが、完全に取れることはない。それなら医者に行けばいいのだが、「麻酔もしないで取る」と周りのものが言うので医者に見せたこともない。

ちょっと痛むときには包帯を巻いてやり過ごしていたが、二年ほど前、その魚の目が手にもできた。目で見つけたというよりは左手が右手の異物を発見したというのが正確だ。このときは、医者に行かなければならないと思ったがなかなか行く機会がないままに、魚の目は成長していった。

そんなある日テレビで野球選手が手の魚の目の話をしていた。医者に行くと切るので何日かは練習に差し障りが出るので、これはひとつ自分の念力で治そうと思った、というのである。「それで治ったのですか」とアナウンサーが聞いていた。治ったのだそうである。あの野球選手は誰だったのだろう。

念力が俄に身近になった。それから毎日ハンドクリームをつけるたびに念力を指に送った。念力というものの送り方を知っているわけではない。とにかくクリームをつけるたびに、指先に思いを込めていた。

それが、一ヶ月も経たないうちに治ったのである。まるで、魚の目が申しわけなさそうに、少しずつ後ずさりをするかのように小さくなっていくのである。「アレー」と自分自身が一番吃驚した。直径が5ミリくらいだった突起が日毎に後退して、ある日どこに魚の目があったのかさえ分からなくなっていた。ルルドの泉の話も絵空ごとではないようだ。

そのとき、足のことは念頭になかった。手の魚の目が消えてから、そうだ足にも念力を、と思ったのだが、足の場合は7,8年か、あるいはもっと以前からのものだから、そうやすやすとは念力は届かないみたいだった。駄目だなーと諦めかけていた。

ところがである。昨夜、思い出して親指を眺めてみた。親指の腹がつるつるで、何処にも突起のようなものが見当たらない。あれ、もしかしたら右だったかなと思い、反対の足を裏返してみるという滑稽譚を演じてしまい、ひとり密かに笑ってしまった。不思議だ、跡形もなく消えている。やはりルルドの泉は本当なのだ。跡形もない親指ではあるが、微かな鈍痛の名残は残っている。そのために消えてゆく過程に全く気がつかなかった。いやー、人間もパソコンもなんだかわけの分からない力が働くときがあるようだ。

『六歳の見た戦争・アッツ島遺児の記憶』  榎本好宏著  角川学芸出版

2009年7月14日 火曜日

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 アッツ島の戦いは、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦。日本軍のアッツ島守備隊は上陸してきたアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕したそうである。

アッツ島の玉砕は、以前サイパンへ行ったときのバンザイ岬と重なる。それは昭和20年の終戦のとき、島に居た日本兵は島の端まで追いやられて、そこから身を投げるしかなかったのである。そのときに「天皇陛下万歳」と叫んで海へ飛び込んだことから「バンザイ岬」という呼称が生れたようだ。慰霊碑がたくさんある。

著者はアッツ島で戦死した軍人の遺児(六歳)という視点から、終戦や戦後の家族との生活を書き記している。読んでいてまもなく、榎本さんも淀橋区に住んでいたのだ、という現実感も手伝って一書を一気に読み切った。

それは、生活感覚から書きこんでいることもある。榎本さんは役に立つ長男だったせいか、買出しなどにも母親が連れて行ったようだが、私はそうした経験がない。いつも家で留守番をしていたので、食べ物の調達がどのように行われたのか知らないのである。

そうして召集のこと、疎開のこと、自転車の覚え方などが、六歳の等身大の視点で語られている。多分、この一書は両親への鎮魂も込め込められているのだろう。

吟行地その2

2009年7月13日 月曜日

神楽坂吟行の話題を書いたら、しんぱちさんから「神楽坂で吟行されるとのこと。2年前の丁度今頃NHK俳句番組の人たちと吟行したときのメモが出てきました。」というコメント付きで詳しい案内書が送られてきた。

それによると、夕方からの吟行である。たしかに、神楽坂なら夜がいい。見番や芸者新道の面白さは、真昼間を歩く九月の会では只の径でしかない。いつか「ににん」で夜の吟行をしてみよう。

そういえば、神楽坂には旧居跡も多い。東京日仏学院の傍には川合玉堂、理化大の傍には泉鏡花、北原白秋。尾崎紅葉の旧居跡も近い。相馬屋と山田紙店は、その作家たちが足を運んだ文具店。それと、泉鏡花の「婦系図」のモデルになった料亭「うを徳」や作家が缶詰になって作品を仕上げたという「和可菜旅館」。そんなことを書き連ねていると、なんとなく神楽坂の雰囲気が漂ってきた。

現実に返って、苦手だが、地下鉄何番出口に集るとか、何番出口から句会場に行くとかの企画を書き出さねば。今日は高田馬場での「ににん」句会があったので、会場もついでに予約することが出来た。

吟行地

2009年7月11日 土曜日

句会に出そびれると、そのままずるずると行かなくなってしまう。高円寺の句会も、飯田橋の句会も半年ぐらい欠席して、結局退会のような形になってしまっていいる。マイミクの寺澤さんが佃島盆踊りの吟行案内をしていたのに、食指が動いたのだが、そのあと続けられるとは思えないので思いとどまる。

吟行も二つあったのだが、一つは完全に退会状態。決して忙しいのではなく運が悪いのである。現在残っているのだけは続けたいと思いながらもすでに、6月・7月と欠席状態だ。でも9月は私が案内係りをしなければいけない。そんなことで、何時もの「ににん」の句会場を利用しながら吟行の出来るところを昨日から物色していた。

神楽坂はどうだろうかと思ったのは、飯田橋から神楽坂駅までが吟行で、そのまま午後は高田馬場の句会場に移動しやすいからである。ほんとうはじさんさんにでも聞いたほうが早いのかもしれないが、とりあえず地図を広げてみた。

地図を眺めてみると坂をテーマでも十分ある。地藏坂には相馬屋文具店があって、その店の原稿用紙は夏目漱石の使用していたものだとか。小路もいろいろあって面白い。本田横丁・かくれんぼ横丁・芸者新道などなど。眺めていると旧居もたくさんある。途中にはランチの美味しそうな店がいっぱいある。やっぱり吟行は神楽坂に決まりだ。

いつも公園みたいなところが多いから、たまには街がテーマもいいだろう。地図を眺めていたら、しんぱちさんの通うギンレイ・ホールも発見した。 かならず行ってみよう。 地図を眺めていると時間を忘れる。

坪内稔典「俳句と俳文『高三郎と出会った日』」 2009年4月  沖積社刊

2009年7月10日 金曜日

誰も彼もが、決まったパーンの句集を出さないで、こんな楽しい本を出してはどうだろうか。文章と俳句の相乗作用で楽しめる。まずは、「高三郎と出会った日」というタイトルが楽しいではないか。なんとなくページを開きたくなる。

その楽しくさせることが、坪内稔典氏の狙いでもある。坪内氏の話題になった俳句、例えば「三月の甘納豆のうふふふふ」が出来た経緯。これは「二月には甘納豆と坂下る」「四月には死んだまねする甘納豆」「五月きて困ってしまう甘納豆」「甘納豆六月ごろごろごろついて」の同時発表した中の一句が一人歩きしたようである。たしかに、中では一番不思議さがある。

さて、タイトルになった「高三郎に出会った日」は物語が書き込まれているわけではなく次の一句が挿入されている。
  
   月欠けて高三郎と出会った日

「ににん」の片腕

2009年7月9日 木曜日

大方の雑誌は、広告や句集紹介や作品鑑賞したものを紹介するページがある。しかし、「ににん」はそういったものを一切載せていない。というよりは載せる余裕がないのである。その分をせっせとブログで転載やら紹介やらをさせて貰っている。要するに、ブログで雑誌を補っているのである。

著書の広告も同人のもの、あるいは、同人の作品の収録されているものしか載せない。それは創刊のときからの不文律だった。そうでないと、載せたり載せなかったりの不公平が出て、年四回しか発行しない雑誌が広告だらけになってしまう。そのことで、ときどきちょっと辛いこともあるのだが、仕方のないことである。

もはやパソコンは雑誌発行の片腕的な存在なのである。それなのに、たった三日間の旅行の間に、変調を来たしていた。立ち上がりが遅くなってしまったのである。一つ立ち上げるのに新聞を読んだり、他の用事を済ませて来たりしながら、開くのを待つ有様。原因は、電源を完全に切ったためのようだ。

今回は買い替えをしなければならないか、と覚悟をしたが、どちらにしてもビスターは買いたくない。今直ぐ壊れたら、中古のウインドーズにするしかないと決めていた。もともと、このパソコン自体が古いのである。買い換えてもいいと思うのだが、新しい機種に慣れるのに時間がかかることを考えると、踏み切れない。

ところが、なんと今日は快調とは行かないまでも、元に戻ったのである。日にちを経て電流がゆきわったみたいだ。このパソコンは以前にも、ときどき画面が消えてしまうことがあった。まるで瞬きをするかのようにパチンと音がして画面が消えたのだ。誰に聞いても「それは覚悟をしていたほうがいいね」という答えだったが、いつの間にかそれは解消したのである。以後一度も瞬きをしたことがない。ときどきごねるけど、これからも付き合ってくれそうだ。

今井杏太郎 第五句集『風の吹くころ』 2009年6月刊 ふらんす堂

2009年7月8日 水曜日

今井杏太郎氏が以前主宰していた「魚座」には、いつも俳句はつぶやきのようなものだという意味のことが掲げられていた。気負いもなく、淡々とあるがままを一句に込めるのもひとつの、俳句方法。要するに、自分の文体と思想が定まった句集と言える。

「日本の伝統的な文化は、侘寂である。それならば、俳諧とは何か・・・。
芭蕉さんは、「俳諧は軽みである」とおっしゃっている。
「軽み」とは何か、と思い続けていたが、ある夜ふっと「軽みとは、儚さなのではないのか」と思いついた。すなわち  寂しさに咳をしてみる  杏太郎」

 という帯がすべてを語っている。
そういえば、数日前に紹介した若い高柳氏の句集も、蝶を儚さの象徴にしていた。

   みづうみの水がうごいてゐて春に
   野を駈ける少女よ明日は花になれ
   目が覚めてゐていつまでも桜の夜
   夢の夜のゆめのむかうの董かな
   たんぽぽの絮に少女の匂ひあり
   いちにちは長し海月を見てをれば
   砂山にのぼればはるかまで月夜

後書きでふと気がついたら老人になっていた。と書いているが、

作品を読みついでいくほどに、、とてもゆるやかな空気が流れて、ほっとする句集である。

『風の道』7月号 主宰・大高霧海

2009年7月8日 水曜日

現代俳句月評         筆者 山本柊花

まんさくの花のねじれのきりもなく          岩淵喜代子

金縷梅(満作)は野山に自生する落葉樹の大低木である。花は線形の縮れた黄色の四つの花弁である。早春に他の花にさきがけて咲く。この花の特徴を捉えて変哲もなく詠んでいるのがよい。

(「俳句四季・四月号」わが道をゆくーー白亜紀から) 

象潟へ

2009年7月6日 月曜日

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飛島を午後4時の船で酒田港へ。もうちょと大きな町なのかと思ったら、タクシーもない。駅から10分ほどを歩いて若葉旅館に。ここの食事の量は凄いと聞いていたが、まさに隅から隅まで出し尽くす、といった感じだった。それが懐石風に運ばれてくるから、まだ出てくるの、という具合になってくる。

あまり生牡蠣を食べない私も、ここのは美味しく食べられた。翌日酒田の街を歩いているときに、路地で牡蠣を捌いている男の人がいた。テトラポットに張り付いているのを捕ってきたのだという。誰でも捕ってきていいらしい。酒田は北前船が出入りした町。芭蕉さんもさぞ歓待されたのだろう。象潟からまた戻ってきて酒田に滞在しているのだから。

日和山公園に入口にアートな洋風の建物、それがなんだか見覚えあった。映画「おくりびと」の NKエージェント事務所である。となりがそのまま記念館になっていた。酒田の町を見知ってから映画を観たら、もっと楽しめそうである。われわれ一向は、芭蕉さんを追うのが目的だったので、象潟へ。

象潟は今回初めてではなかったが、案外見て居るようで見ていなかった。蚶満寺境内に船つなぎ石があったので、地形は想像できたが、タクシイで、象潟の中を走ってもらうと、やはり広い。芭蕉さんが舟でめぐった能因島も忘れずに車を止めてくれたので、しばらくそこからの象潟を眺めることにした。松の生えた高みに上がりきると、そこだけ別の風が吹いていた。涼しい。

三日間の旅のあいだ、いつも鳥海山が蜃気楼のようにうっすらと浮かんでいた。 

飛島へ

2009年7月4日 土曜日

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 飛島なんていう名前の島があうことすら、去年までは知らなかった。山形県酒田市に属する小さな島。現在は小学生が数人で、中学校は閉鎖しているらしい。島に交通機関はない、というより必要がないのかもしれない。

そんな島に行く気になったのは、青葉木菟が鳴くという一言に誘われたのだ。酒田の観光協会にも飛島へもそれが目的で渡島することを伝えたが、どちらも五月頃から鳴くという返事を貰っていた。「島は静かだから、どこででも聞えます」という返事だった。

ほんとうは飛行機が早いのだが、眩暈のために医師に止められている。そんなことで、列車でいくためには、かなり時間的なロスがあったが、それも、あっという間に行けたのは、やはり気の置けない仲間との旅のせいだ。

船を下りると今夜泊まる「なごし旅館」の旗を持った人がすぐ目についた。「よろしく」と挨拶していると、となりに小柄な女性が立っていた。齋藤愼爾さんのお姉さんだった。「愼爾がお世話になっています」と挨拶されて吃驚。70歳になっても、兄弟だ。そしてよく似ている。

木葉木菟の鳴き声を聴くためにわざわざ出向いたのだが、それは期待を裏切られた。なにしろ海猫の声が昼夜絶えたことがないのである。もう一つ絶えないのは飛魚を焼く匂い。今は飛魚の揚がる時期で、毎朝5時ごろになると、仕掛けておいた網を引き揚げてくる。

その魚をその場で捌きはじめて、それから夜まで七輪で飛魚を焼いているのである。散歩をしながら、しゃがみこんでいる女性たちの輪を覗くと、「食べてみて」と焼いたばかりの熱々の飛魚を手渡される。とってもいい味だ。島の人達は、焼いた魚をカラカラになるまで干して、出汁として使うらしい。土産屋で売っていた。

夜はお魚尽くし。いやお刺身尽くしだ。最後に大きな鮑が真中に置かれた。曇っていなければ銀河も見えるに違いないが、今夜は薄曇である。9時になると消燈を促す放送が流れてまた吃驚。漁業中心の住人300人足らずの島は、朝が早いのだ。

翌朝、五時に目ざましをかけて置いたが、ぐずぐずしているうちに、船の入るところは見損なってしまった。ご主人が網をたぐりながら飛魚を外して、奥さんが直ぐに捌き始めていた。昔の写真を見るとたくさんの子供が映っていた。みんな島を離れてしまっている。

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