2008年10月 のアーカイブ

眩暈

2008年10月20日 月曜日

今朝は吃驚。起き上がってふらふらすることは、いつでも経験しているのだが、今回は天井がぐるぐるまわるのである。そのときは、水分でもとって少し落着かせようとおもっていたのだが、ふたたびベットに横たわるとさらに眩暈は強くなって、吐き気もともなってきた。

隣の部屋でがたがた音をさせている連れ合いを呼んでも届かない。仕方がないからようようの思いで部屋の戸をあけて、そこで、もうさっき飲んだ水は全部吐いてしまっていた。救急車を呼ぶ間に着替えをするなんていう行動にはなれない状態。完全なメニエール症候群の状態。

通っている総合病院の耳鼻科に救急車は連れて行ってくれた。一週間前にも薬を貰いにきたばかり。ここを外来で待てば二時間は確実に待たされるところ。すぐに点滴の指示を出しているのが聞えた。「点滴で直らなかったら入院ね」と看護婦さんに言っている医師も声も聞えていた。

いやー、そんな入院なんて絶対いや、と思いながらも目が開けられない。嘔吐のときに誰が背中を撫でているのかもわからない。点滴を始めて落着き初めたころ、「お大事に」と肩が叩く人が居た。「救急隊の方よ」と看護婦さんが言ったので「どうも」という声を出すのがやっとだった。

救急隊の人は終始親切だった。そして、薬の威力は凄いものである。二時間ほどかけた点滴が終る頃には眩暈が殆ど消えていた。このメニエール症候群というのも原因不明のもの。もっとも内耳の構造なんてかなり微小な器官の集りだから、調べようがないんだろと思う。それにしても、こうした発作のときに、傍に人がいない場合のことを考えておく必要がある。

これからは、とりあえず電話の子機やら携帯電話をそばに置くことも心がけたほうがいい。

俳人協会

2008年10月19日 日曜日

今、ちょっと悩んでいることがある。「ににん」という団体が俳人協会への入会窓口がないのである。もちろん、私は随分以前から協会員である。それにもかかわらず、協会員推薦の資格はない。なぜなら、毎年協会員推薦の枠が降りてくるのは結社の主宰である。こうした小さな同人誌には、その枠は永久にこないのである。たぶんこの辺は、俳人協会側のジレンマでもあるだろう。主宰の推薦する人というある種の格付けが、人選の拠り所だからである。

「だからどうしたの」と言われそうだが「ににん」にもかなり深入りして俳句を作っている人達や「句集」を作ったひとたち、これから句集を作ろうとしている人たちがいる。その人達が自分の作品を確認したい場、あるいは視野を広げてみたいとう意識の中では、やはり俳人協会のようなものがあるならば、とりあえず参加してみたいと思うのは当然の順序である。

この悩みを何人かの俳人協会の中枢の人に訊ねてみたことがある。とりあえずカレンダーを買えば、という返事ぐらいしか返ってこなかった。この件に関しては2007年12月号の「俳句界の紙面でも触れたことがある。

私が俳人協会に入会したのは「鹿火屋」推薦ではない。「貂」に参加していた頃、仲間が直接協会の窓口で入会資格を問い合わせた。そのときの返事が川崎展宏氏の弟子なら資格あり、ということだった。とは言っても当時展宏先生は俳人協会の会員ではなかったが・・。

そんな経緯があって、私もその仲間のお相伴で俳人協会へ入会させてもらたった。第一句集を出す以前のことである。推薦者は当時の俳人協会長の草間時彦氏であった。

うーん、なんとかいい方法はないものだろうか。それで、現代俳句協会はどうだろう、ということになった。直接には知らないが、評論やら、俳句やらの応募という挑戦の場もあるとか。しかも、協会員の推薦があればいいというのだ。

『麻』十月号 主宰・嶋田麻紀

2008年10月18日 土曜日

~~ 句集散見 ~~ 句集『嘘のやう影のやう』   黒米満男 評

 あとがぎによると、集名は、〈嘘のやう影のやうなる黒揚羽〉の句からきめた、とある。師系は「鹿火屋」の原裕(はらゆたか)が初学時代。時を経て、創刊から参加していた「貂」の川崎展宏氏など。どこかで述べたが、基本はそうであっても、その他、多くの人々の影響下にあったことは確かだ。ちょっと脇道にそれるが、こうして出来上がった「俳人」がひとりふえ、ほかにも影響を与えていくということになる。
 〈嘘のやう影のやうなる黒揚羽〉は、もちろん文中にある句だか、黒揚羽は夏から初秋にかけて舞っている実際の生物である。それが、嘘のやうであり、影のようである、という。そこが俳句の面白いところで、言われてみれば、なるほどと納得させられるものがある。心象的に言えば、実体として、たしかに諾うことのできる何かがあるだろうかと、自問しているわけである。何もかもあやふや、それが実体である。

   草餅をたべるひそけさ生まれけり

冒頭に置かれた句。ひそけさの実体を草餅を配することによって得た。こう考えると、俳人は、逆にあやふやな現象をいかに実体にまで、射止めるかの実存的努力家でもある。

   雨だれのやうにも木魚あたたかし二句目。

木魚の本質を雨だれで示した。

  己が火はおのれを焼かず春一番
 
 これも面白い発見だ。たまたま自制心があるからいいようなものの、社会的な枠をはみだして事に及ぶ不心得者もいる。と、即物的に考えなくとも、心の炎を燃えたたせている俳人のことと思えばよい。

  白髪の婦人隣家に水温む
 
 毅然とした白髪の老婦人が目に見えるようだが、水温む、で、優しい老婦人に変貌。

  釦みな嵌めて東京空襲忌

 一九三六年生れの著者は、八、九歳の頃この空襲に合われたかもしれない。一九四五年三月一〇日の大空襲で約十万人の死者が出た。釦みな嵌めて、に慰霊の気持がこもる。

  スカソポを国津神より貰ひけり

 別名酸葉(すいば)。若い茎を吸った覚えがある。天孫降臨以前の神を国津神という。スカンポという素朴な植物に似つかわしい。

  三月のなゼか人佇つ歌舞伎町
 
 待ち合せ、という目的が無くとも、なぜか人が立っている。それが歌舞伎町だ。

   きれぎれの鎌倉街蝌蚪生まる

 小生の居住地のそばにも鎌倉街道と名づけられた道ある。鎌倉へ向かっているとは、思えないけれども。
  
    春眠のどこかに牙を置いてきし
  覗き込む花散る里の潦
  春窮の象に足音なかりけり
 
 食べ物が不足してくる晩春、却ってか知らずしてか、象の足音にも、その影が‥‥。
  
  城跡の日向真四角椎の花
  駆け足のはづみに蛇を飛び越えし
  陶枕や百年といふひとくくり
  孑孑のびつしり水面にぶらさがり
  何せむとニコライ堂に日傘閉づ
  魂になるまで痩せて解夏の憎
  芭蕉忌の愚直の手足あるばかり
  地芝居に集ひてみんな羅漢めく
  生きて知るにはかに寒き夕暮れよ
 
 人生の夕暮れまで生きて、はたと、その寒さを感じた。この寒さを知らずに死ぬ子供もいる。しかし、人生の哀歓は最後まで味わって死にたい、と小生は思う。そして俳句ができれば最高だ。俳句はただ事実を詠めばよいというものではない。うまく言えないが、この「嘘のやう影のやう」を読ませていただいて、岩淵氏の突出した感性、個性を思った。俳句を止められなくなるのは事実だ。(平成二十年二月、東京四季出版刊)

永島靖子著・『秋のひかりにー俳句の現場』

2008年10月16日 木曜日

永島靖子著・『秋のひかりにー俳句の現場』 紅書房刊  2008年10月刊

高名な永島靖子氏についての認識は随分前からあったし、雑誌での写真も拝見していたが、実際にお目にかかったのは一度しかない。それも、ごく最近のことである。というのは、
   
     切々と海牛もいまかまひ時     藤田湘子

角川の原稿に挿入したい上記の句の出典が判らなくて、いろいろな人に聞きまくっていたときだ。その折に、「鷹」会員の知り合いが永島氏に聞いてくれたのだ。そのとき、氏はすんなり見当つけて引き出してくれた。師の作品を熟知しているのだなーと感心した。

そんなきっかけがあって、何かのパーテイでお礼を兼ねてはじめてご挨拶をした。知的なもの静かな女性という印象を抱いた。その永島氏から送られてきた散文集はページの初めから魅力的だった。「俳句随想」という控えめな分類になっているが、十分評論集である。師の湘子と同行したときの句、

   揚羽より速し吉野の女学生   藤田湘子

この句にたいする各俳人たちの評と自分の解釈との違いを、並べているのが興味を惹く。それは、「飯島晴子逍遥」の項でも、ともに同じ土壌で、俳句を作ってきたものでなければ語れないことが、随所にあった。知的で静寂な内容である。久し振りに、上質な文章を味わった、という気がしている。

『食いしん坊歳時記』 

2008年10月13日 月曜日

榎本好宏著 『食いしん坊歳時記』 角川学芸出版 十月刊

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榎本氏からはお目にかかるたび料理の話を伺っている。かなり専門的な料理をこなすらしい。山菜の話などになると、私のほうも興にのって、かたくりの花が茹でても色鮮やかで、甘酢につけるとまた違う発色をする話などで盛り上がる。だから、著書を頂いても意外な感じはしなかった。

しかし、この書は歳時記である。一章目は会津のたべも。二章目は旅の印象に残った食べ物、三章目は京都の料理のそれであるから、単なる食べ物や料理の話ではなく、一項目ごとに奥がある。でも、話ばかりでは詰らない。一度は手料理を食べさせてくださーい。榎本さんー。

『告知』

2008年10月13日 月曜日

  境野勝著 詩集『告知』  ふらんす堂 2008年9月刊

境野勝さんは俳号「大波」さん。俳誌「大(ひろ)」の代表である。60ページほどの「ちいさな句集」というのが相応しい。数年前に奥様をなくされて、その「遺歌集」「遺句集」を作り、そのあとご自分の句集「一羽」を上梓した。それも、夫人を偲ぶものだったが、それでもなお、言い足りないことがあるとして、出版したのが詩集『告知』である。一編ごとに物語が成りたつ、心情の濃い句集。

序詩として

  エレベーターに同乗した
  二歳ぐらいの男の子
  はにかみながら笑いかけてくれた
  君に
  一九五九年の青空の記憶を
  贈りたいのだが

たぶん、この詩の中の年度に結婚、あるいは出会ったのであろう。

アメリカ

2008年10月12日 日曜日

マイミクの種茄子さんがアメリカに出張するらしい。そういえば、Nさんも同じ時期にアメリカに一週間くらい行ってくると言っていた。今はアメリカの経済影響で会社人間は大変なのだろう。

ところで、このNさんとともに、私の「石鼎」の書き終わった原稿もお供をしているらしい。Nさんとは一度しか会ったことがない。そのとき「石鼎論面白く拝見しています」と言ってくれたのだが、「誤植が多いけど」という一言がついていた。Nさんは「ににん」の仲間から手渡されている雑誌を読んでいるのだろう。

そのことを仲間に報告すると校正を中心にやっていてくれる彼女は、責任重大とばかりに、雑誌のバックナンバーから「石鼎論」だけをコピーして彼に手渡すからというので、「もう仕上がった原稿があるけれど」というと、それを渡すというのだ。

でもいきなり五百枚くらいの原稿を渡されてはびっくりするから、ひとこと断ってからにしないと、と言ったら彼女は早速伝えたらしい。もしかしたら押し付けたのかもしれない。そんなことで、Nさんに私の原稿が渡った。そのお返事に、「今度の日曜から仕事で一週間ほど渡米しますので、アメリカを飛びまわりながら楽しみに読ませていただきます。」というお返事がきた。

なんとも嬉しくも有難い人々に囲まれていることよ。

十三夜

2008年10月11日 土曜日

十五夜は見えないことが多いのだが、十三夜は見えない年のほうが少ないかもしれない。買い物帰りにもう中天にかかっている月に出会った。まだかなり欠けている。

太陽を愛でるのは日の出や日の入りだが、月はなぜか一年中、いろいろな場で愛でることが多い。いつだったか、月を観るために奥多摩の御山に登ったことがある。その日は霧が真夜中になっても晴れないで、結局月見は出来なかった。

翌日、下山のケーブルで一緒になったグループも月見のようだったので、何の会なのか訊ねたら、怪訝な顔で「月を観る会」だといった。俳句をしているものは、月は二義的なもので、俳句を作るために月見があるのだが・・。

なんだか腑に落ちなくて、見た後は文章にでもするのですかと追求してみた。どうも純粋に月を観るだけで集っているようだ。どんな月だったかを報告しあい、それも毎月、開催しているという。今日はことに、いろいろなところで月見をしているずで、「今、富士山に登っているメンバーもいますよ」と教えてくれた。

いろいろな会があるものである。「太陽を見る会」は想像できないが、「太陽の黒点を見る会」ならありそうだ。

受贈誌

2008年10月10日 金曜日

恩田侑布子著・句集『空塵秘抄』昭和39年生  
                   栞・三木卓・池内紀・末木文美士・角川書店2008年9月刊

   誰も隠しもつ冬麗のふくらはぎ
   かがやくは君か冬木か待ちゐたり
   国境はすみれさがして風ばかり
   一湾の夕日ぼうたん運びゆく
   白猫のはらりと枝垂櫻かな

 虚実のバランスのあやふさが魅力を発揮している。

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仙田洋子著・句集『子の翼』 栞・筑紫磐井  ふらんす堂 2008年8月刊

この一集は子を生んでからの6年間の作品集である。

  さらはれて冬の銀河に佇ちつくす
  子を抱けば誰も聖母や流れ星
  みどりごをくすぐるによきすすきかな
  子にもえらふ虹の回遊切符かな

真正面からの吾子俳句ではなく、遊び心の余裕を見せる楽しい吾子俳句になっている。

源氏物語千年紀

2008年10月6日 月曜日

京都は源氏物語千年紀で沸いていたので,つい文化博物館の「源氏物語の世界」展に目が行ってしまう。
これが意外に面白かったのは、テーマが・江戸時代の源氏文化を読み解く・というものだったからである。要するに、江戸の人達の源氏物語への親しみ方なのである。

花魁が読む図だったり、活け花で源氏物語絵巻を作り、双六などの遊び道具。ミニの巻物にしたものが塗りの箱に54個収められていたりする。お嫁入りの道具、あるいは、少女への贈り物にしたかもしれない、などと想像した。

ことに絵草子が、源氏に親しむ庶民の体温を感じる。現在の漫画を思い出した。印刷技術が発達してきたことも発展を助けているのだろう。

今回の京都旅行の目的は翌日の二時からはじまるペンクラブに出席のため。石鼎の毎月通っていた藤田男爵の別邸「洛翠」を借り切っての会である。

sumiya2.jpgsumiya11.jpg*

 それでも二時までには一巡り出来るので、翌日は観光タクシーで、紫式部の生家跡、墓、光源氏ゆかりの西鴻臚館など・・を周った。途中で運転手さんが「角屋」に周ってくれた。文人の遊び場で、其角も芭蕉も蕪村も立ち寄っていたらしい。

rakusui1.jpgrakusiu2.jpgrakusui4.jpg*

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