‘受贈著書’ カテゴリーのアーカイブ

山本純子句集『カヌー干す』2009年9月  ふらんす堂刊

2009年9月29日 火曜日

1957年生れ。詩集『あまのがわ』でH賞受賞。「船団」所属

  ねこじゃらしマックかマクドで待ってます

どのページを開いても面白い句集というのは、ほとんどない。しかし、山本氏の句集は面白い。それは、きわめて日常的な風景を、きわめて卑近な言葉で綴った俳句への親近感が作用するのだろう。あまりにも卑近なために、描かれている風景を、思わず自分の日常にダブらせてしまう。掲出句などは卑近ななかの卑近な風景だ。マックと呼ぶのは東京で、マクドと呼ぶのは関西であることから、景が広がっていくのである。

   廃船を描く人いて鰯雲
   秋の浜大人になったから座る
   一月の上半身をふと回す
   三月のはじっこへ来て山頭火
   豊の秋内緒内緒と叔母が来る
   山火事の昼は一人でケンケンパ

年中原道夫第9句集『緑廊(パーゴラ)』 2009年刊 角川書店 

2009年9月17日 木曜日

 ほぼ二年ごとに上梓する句集でありながら、このたびの句集も大冊である。句数を正確には数えていないが、おおよそ900句ある。

   ものの芽や空がひつかかつて困る
   建坪に負けてさくらの拗ねてゐる
   天に飽き地に飽き雪積るなり
   裸眼には入れぬと知る櫻かな

中原道夫氏の句風は、ものごとのすべてを擬人化的な描写に置き換えているようだ。四句目の「裸眼には入れぬと知る櫻かな」になると、わかりずらささえ出てくる。

   かたつむり昼寝の村を出てゆける
   虹舐めて麒麟は脚を畳むなり

上記の作品も手法は同じなのだが、その手法が不思議な、かたつむりや麒麟の存在感を造りだしている。

『上田五千石五百句』 2009年刊

2009年9月17日 木曜日

上田日差子主宰「ランブル」付録

    もがり笛風の又三郎やあーい       『田園』
    曼珠沙華わなわな蘂をほどきけり
    水増して代田ひしひし家かこむ
    渡り鳥みるみるわれの小さくなり
    かたつむり殻の内陣透けゐたり
    冬浜に浪のかけらの貝拾ふ        『森林』
    硝子戸に洗ひたてなる春の闇       『風景』
    雨空のあまり明るき仏生会
    堰といふ水の切口初紅葉          『琥珀』
    梟や出てはもどれぬ夢の村
    太郎次郎三郎そのほかみんな蝌蚪
    月の村川のごとくに道ながれ
    かげろひて記憶のごとく女来る       『天路』
    さびしさを涼しさとして倚る柱

有住洋子句集『残像』  2009年  ふらんす堂刊

2009年9月10日 木曜日

 心待ちにしていた句集である。もっともっと早く出版してもよかったと思うのだが、今回のあとがきには「還暦は、生れた年の干支に還ることだといいます。ということは、私は今、新たな0歳といってもいいのではないか。・・・」と、句集を編む動機を書いている。略歴も省かれている。
 わずかに橋本榮治氏の栞の中に、長い年月のアメリカ暮らしと美術を学んだことだけに触れている。だから、わたしも作品だけを鑑賞しようと思う。

   海底は音なきところ秋櫻
   手をかざす埋火のなく過去もなく
   春空に進み出て弓引きにけり
   昼と夜また昼と夜雛葛籠
   サーカスの一団白夜の街を発ち
   港湾の一番奥の誘蛾灯
   鰯雲いくつか橋を渡りをへ
   おもひ出せぬことなど牡蠣の殻重ね
   たれもゐぬ櫻蘂降るあかるさに
   魂祭まへもうしろもけむたかり
   覚めて霧ねむりて大河しろじろと

 気がついてみると、拾いだしたすべてが句集名『残像』につながる。残像をテーマに詠んだ句集と言ってもいいような作品群である。

   薄墨の祖母と木槿の道に遭ふ

 その冴えたるものが「薄墨の祖母」の句に言える。祖母を薄墨と捉えるところがすでに残像なのである。それはとりもなおさず、有住さんの視点がいつも残像へ行き着くことで言葉になるのではないかと思える。

   雪女地軸かたむく星に棲み
   いなびかり水中を母歩きをり
   綿虫や砂漠に水のありしころ
   白襖砂漠の音をとどめけり

 あえて「確かな残像」と言いたい句。雪女だけをこの世の存在感として、母の残像を稲光によってあぶり出し、砂漠の悠久の時を言葉に置き換えている。

遠藤千鶴羽・第二句集『暁』   2009年  ふらんす堂刊

2009年9月2日 水曜日

「草藏」「大」所属の1964年生れ・1990年から俳句に関ったようである。

後書きにーー指の間から零れてしまうような日々の、それでもいくらかは、575という形に溜めてこられたのではないかと思っていますーーと言い添えている。

魚は氷に上りて君とゐる不思議
てつぺんはまだ竹の子や今年竹
三月の雪より現れし雀かな
牡丹の見ゆる障子の破れ目かな
人生のほぼ真ん中や鉄砲鍋
暗がりへ続く階段雛かざり
春の雨駅の名前を誉めにけり
一枚は空を写して卒業す
手を振るは青水無月の歩道橋

「椅子」の章、すなわち最後の章が一句の世が輪郭鮮明に描き出されている。これは、俳句という形式への熟成度がさせているのだと思う。

室生幸太郎句集『昭和』  2009年 角川書店刊

2009年9月2日 水曜日

句集名『昭和』に対する想いを濃くする以下の作品がある。
 
  飛花落花昭和を忘れたい人へ
  昭和ヒトケタ前へ進めず花の中
  芒原昭和の波の音ばかり

硬質な作品集のようであり、色彩豊かな叙情を感じる面もある。変化のある一集だった。

  梅雨茫々鏡のなかのさびしいけもの
  いつもの席に老女と薔薇と黒猫と
  紫陽花の荒れ放題に猫病んで
  霧の夜の村を捨てたい床柱

山西雅子句集『沙鴎』  2009年  ふらんす堂刊

2009年9月2日 水曜日

  花びらのごとくつめたくなめくぢり
  小満のみるみる涙湧く子かな

こうした句を懐かしい人に出会ったように味わったのは随分前からインプットされている句だったからである。詩情の濃い作家である。

  大岩に石を供えて草の花
  宵闇や手を泳がせて子が走り
  チョコレート折れば冷たき夜更けかな
  船小屋に油のひほひつばくらめ

作品から醸しだされる無音な空気が不思議さを伝えてる。

加藤かな文句集『家』   2009年  ふらんす堂刊

2009年8月22日 土曜日

   春の山好きなところに並べ置く
   月曜は蒲公英の濃き畦となる
   空蝉や光つて何も見えぬ水
   毛布からのぞくと雨の日曜日
   冬の川毎日越えてる毎日見る
   陽炎へるあたりこの世のちぎれ飛ぶ
   つばくらめずいぶん雨に濡れながら

 その句集名がいかにも作品群の外装のように思えるのは、昭和36年生れの作者の基点が『家』そのものであるからだ。何処を開いても、作者の見える風景であることが柔らかな光を放つ。

佐藤清美句集『月磨きの少年』  2009年刊 風の花文庫

2009年8月22日 土曜日

 文庫本である。林 桂氏が代表の「鬣」が発行している。そういえば以前に紹介した林 桂 著『俳句此岸』も同じシリーズだった。あのときも書いたと思うのだが、やはり句集はこの形で、詩集のように持ち歩きながら読みたい。

   スミレ咲き空はスミレに触れている
   仔猫来る梢を揺らす風を見に
   どこまでも枯野自転車空色で
   春隣わたしの席はそこにない
   謹んではそびらの形に闇があり

 句集名の句は「梯子には月を磨きにゆく少年」があり、メルヘンチックな作品に本領を発揮している。

神蔵器句集『氷輪』  2009年刊   角川書店

2009年8月22日 土曜日

   いくたびか月の夜を経て椿かな
   杏咲くあんずぼかしのしあわせに
   水打つやころころ水の珠法師
   虹立つや積木の上に積木積む
   まなこより鱗の落ちて烏瓜

平成2年に『貴椿』で俳人協会賞受賞。一句目「いくたびか」に続く叙述で椿が鮮明。目立たないがことばの斡旋によって対象物を引き立たせている。

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