2009年4月 のアーカイブ

桜が散った

2009年4月14日 火曜日

昨日の句会場で、前の週に眺めた桜が一片の花びらも残さずに散っていたのを眺めて、何だか安堵した。実は先週の六日も「ににん」の句会だったが、三階の窓から満開の桜を眺め下ろし、その咲き様にみんなで感心したばかりだった。

その日は早めに切り上げて哲学堂まで桜見物に行った。この哲学堂の近辺は私の育った場所。古木は私の子供のころからある桜である。小学校の4、五年生のころ、教師に満開の桜の下に連れて来られたこともある。

それから一日置いて吉野へ出かけて桜を追いかけてきた。先週ほど桜を見続けた年はなかった。過ぎてみて、やはり桜は妖しく心を乱すものなのかもしれないと思った。いつになく、毎夜夢を見ていた。その夢もなんだか賑やかな気がした。しかし、その気分だけ残っていて筋は思い出せなのが疲れるのだった。
 
今日は、緊張が解けたような気分で朝からのんびりと手紙に時間をかけていたら、急に山菜の天ぷらが食べたくなった。庭でこごみを見つけたせいだ。いつものスーパーで筍やら椎茸と、それに油も少し足りないと思って籠に入れた。

レジ係りが「奥さん、今日は安売りの油があるのよ」というのだった。私はその油が安売りされているのを知っていたが、二人暮しには、小さいほうがいいと思って避けたのだ。別に顔馴染みでもないが、このスーパーの店員はみんな親近感を抱かせる対応をする。その親切心を遮れないで「そうなの」というと「替えてきてあげるわよ」と、さっさと取り替えてきてくれた 。

隣の墓地

2009年4月11日 土曜日

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今日はまさに夏日。半袖のTシャツで居られた。 
両親の墓は小平霊園。駅から続く石屋さんに我家の桶を預かってもらっているので、まずそこへ立ち寄る。鉤のついた長い竿を掲げながら「えーっと」といいながら、店内の高いところに並んでいる桶を見渡す。

この頃は店の人より先に、私が見つけて「あそこよ」と指さす。そうすると、石屋さんが巧く鉤に桶の持手を引っ掛けて下ろしてくれる。その桶に花を入れて箒や線香とともに受け取るのが、墓参のイントロみたいなもの。

お彼岸の賑わいは終ったので、園内はひっそりとしていたが、墓地を貫く欅並木が芽吹き始めていた。その道を通るのはいつの季節も気持ちのよい風景だ。散りかけているけれど、桜の木があちらこちらにあることにも、気がついた。

この霊園には、宮本百合子をはじめ著名人の墓もたくさんあるとは聞いているのだが、いつも父母の墓の近くに車を横付けで、墓参を済ませて引き返してしまうので、他の墓地を廻ってみたことはない。

隣の墓地に、なぜか土筆がいっぱいなので撮らせてもらった。 毎年一回ならず墓参に来ているが、近隣の墓参りの人に、一度も出会ったことがないのは不思議だ。 この場にくると、此の世の人同士で出会わないように、というより見えないようになっているみたいに。

花の吉野

2009年4月10日 金曜日

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奈良在中の俳友から、花の吉野にさそわれてから何年経ったか。なかなか日取りが合わないのと、20年以上前に生まれて初めて出かけた吉野が、中千本が満開という絶好の日和であったことも、誘いに乗れない理由だった。

以前の吉野の印象を壊したくなかったからである。しかし、今年、お誘いに応じたのは8日の花祭りに出会えるからであった。「東大寺の大仏さんの前に花見堂が出来ているから、そこで待っといて」 といわれた通りに、大仏殿の前には華やかな花見堂が出来ていた。

大仏殿の左手に大きな壺の耳がかなりリアルな蝶であるのに吃驚した。その口のあたりには長い長い蝶の舌が巻き込まれているのも想像できるものだった。俳友は「こんなんがあったのを知らんかったわ」と言った。

以前の吉野行は4月17日だったが、その日のごとくに、8日の吉野は中千本が満開だった。携帯カメラもなかなか馬鹿にしたものではない。吉野山の喧騒を離れた一軒家の宿の庭にも枝垂れ桜が満開だった。夕食のあとの散歩で銀河を見つけた。銀河なんて何時見ただろうか。

吉野山を降りて俳友と別れてから、京都でもう一泊して平安神宮の枝垂れ桜を見て帰ろうと思った。宿の枝垂桜から、谷崎潤一郎の「細雪」の中で、姉妹が毎年歓声をあげる枝垂桜を思い出したのだ。

明日は吉野

2009年4月7日 火曜日

「お花見」にコメントを頂いたacaciaさんは、ににん」の購読者であり投句者で秋田在住。ブログを拝見すると東京に住んでいたようである。心がけていた姥捨山に行くことを実現したのだとコメントしているが、しばしば東京に出てきたり、外国に住むお嬢さんやら、近くに住むお孫さんとの交流、それに地域に親しんでいるようである。

多分、私と同世代である。私たちの世代は、IT を受け入れられる人とそうでない人との落差が激しい。acaciaさんは後者のようだ。おかげで「ににん」のブログにもたどり着いてくれた。まさに悠々自適の生活者の代表みたいな方とお見受けしている。

明日から吉野山へいく。天候も桜にも恵まれそう。それに、吉野山の山中に泊まるのだから、朝桜、夕桜を楽しめるのは嬉しい。関西の方にお世話になるのだが、丁度仏生会の日でもある。このグログは携帯からも入力が出来るようにしてあるが、果たして巧くいくのだろうか。ことに写真は入るのだろうか。とにかく試してみようと思っている。

お花見

2009年4月5日 日曜日

実は昨日財布の中身が八千円ほどしかないのに美容院に入ってしまって辛うじて支払ってきた。それなのに、昨日の心細い財布に補充するのも忘れて買い物に出てのは、笛の音に誘われたからだ。

でもそんなに買い物はないのだから、いいかーと思って、とりあえず、最初の目的である黒目側の散歩コースを目指した。桜は丁度満開になった。川岸の花見客の賑わいを眺め、土手の花見の輪をすり抜けて駅まで歩きながら、仙台に住む孫たちに桜の写真をメールで送った。ついでに、たった一本見つけた土筆の写真も。

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駅近く、思わぬところにブックオフを発見。そこで米原万里の「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」、図書館で借りたのと同じ版だ。ついでに「魔女の1ダース」。吉村昭の「冷い夏熱い夏」、これは半月くらい前に読んで、もう一編読んでみようと思った。それにバッジ・ウイルソンの「こんにちはアン」上下。Mギレンの「赤毛のアンの世界」を買った。なんとなくルナールの「にんじん」とともに気にしている本なのだ。ここで1620円とられてしまった。内心「アレー全部105円ではなかったんだ」と思ったが仕方がない。

それから、帰り道で本来の目的の買い物。さっき千円札と小銭で支払ったから、まだ千円札がある。メモしたものだけ、それも小さい袋、小さい壜を選んだ。間に合いそうなので強力粉も買う。今夜パンを焼くつもりで。ヤレヤレ。

あれはいつだったか。駅まできたらお財布が無い。家に帰ったら遅刻するので、なんとか電車に乗りたいと思った。帰りには知人から借りて支払えるからである。駅員に話すと降りる駅で話してください、と通してくれ、降車駅ではノートに住所と名前を書きこめばよかった。そのとき、私みたいに財布を持たないで電車に乗る人がたくさんいるんだ、と妙に安心してしまったことがある。

獅子舞

2009年4月5日 日曜日

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急に笛がなって、窓から覗くと獅子舞の装束の行列が出てくるところ。そうだ今日は第一日曜日。毎年、四月の第一日曜日と10月の第一日曜日の行なわれるのだ。これから氷川神社で舞うのだろう。いつも写真を撮り忘れているので、急いで、後を追った。5分ほどで行き着ける氷川神社で、もう舞い始めていた。役員の着ている半纏の文字も撮らせてもらった。

朝霞市指定文化財になっている獅子舞の碑は、我家と向き合う位置にある。その碑のある家が、保存しているのである。踊り手が居なくなって・・と嘆く長老の声を聞いたことがある。こうした類はすべて五穀豊穣を願う行事である。

ににん編集者募集

2009年4月4日 土曜日

現在ににんの会費として集るのはおおよそ年間50万円。それに多少の寄付と、会員が買ってくれる雑誌の売り上げ金で賄っている。勿論、封筒代やら発送費を含めてだと言ったら、その経費の安さに驚く人は多い。

安いからと言っても、発行部数は一回ごとに400冊から450冊である。そのうち贈呈は出版社やら図書館を含めて250冊余。日本中へはりめぐらしたアンテナで安い印刷所を見つけたから可能なのである。もうひとつの安さは、すべてをデーターで送り、いちおうワードの紙焼きにしたページレイアウトも送り、校正は一回で済ませるからである。これは、ワードで制作した私のデーターで何回も気の済むまで校正を行なってもらうからである。

すでに書いたことだが、この行程のほとんどを私が一人で行なっている。ほんとうは同人誌なんだから、みんなが等分の力を差し出して一誌が出来上がるのが理想である。それは、地域的なこと、技能的なことで不可能である。それなら交替はどうだろうか。

誰か名乗りを挙げてくれるといいと思っている。もちろん、それはれっきとした「ににん」編集長ということになる。この編集長が交代でもいいのではないかと思っている。与えられる権限は「ににん」誌上の企画である。やりたいようにやって欲しい。

やりたいようにと言っても、現在ににんの会費は決まったページを作る費用だけの赤字財政である。この赤字の補いと、特別企画をするための費用は一般読者の購読費が使われる。この購読費の許す限りの範囲で、雑誌が面白く読めるようにするのも、たくさんの購読者への還元である。現在は、「物語を詠む」への寄稿と、座談会の企画がある。

「古志」の主催長谷川櫂氏が若い雑詠選者を打ち立てて、交代制にするという。そうして、「狩」が副主宰を立て、雑詠選は三人の弟子に任せると発表した。雑誌の常識も少しずつ変化していくようだ。

加古宗也句集『花の雨』  角川書店 2009年3月刊

2009年4月2日 木曜日

加古宗也氏は「若竹」 主宰・この雑誌の源流は村上鬼城。

     地ねぶりの春呼ぶ伊達の郡かな
     瞽女歩みゐしかと越の斑雪野は
     鮎の川はさみ縄文文化圏
     竹夫人ころがつてゐる父の部屋
     また一つ訃やがうがうと蝉の穴
     風鈴や靜に灼くる能舞台
     木犀や尼となりたる白拍子

加古氏の俳句は、風景の裏側に投げられている。それは、過ぎた時代であり、積み重ねられた歴史である。句集名になった(花の雨熱きものいま身辺りに)の熱きものが過ぎた時代への想なのである。その重層性が俳句の骨格を作っている。

「ににん」34号

2009年4月1日 水曜日

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「ににん」34号はぼつぼつ読者の手許に届く筈。この号は「黒」がテーマだったので、俳句「ににん集」は黒を読み込んでいる。「黒」などを意識しないで一句を受け止めたら、それは成功といえるのだが、無理やり黒を挿入したりしてして、苦心のあとが見える。

次の35号は「赤」がテーマ。表紙も赤にして、俳句も赤。物語を詠むのも赤がテーマ。そうして赤から起想される俳人、赤から起草したエッセイ。一誌全体読み終えたときに、赤の思わぬイメージが湧きあがるようにしたい。

要するに、読後感のなかに、燃えるような赤を植えつけい。詠み終えた胸に炎が燃えているようにしたiい。なんて・・・。今日は四月一日でした。

社会主義

2009年4月1日 水曜日

「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」の中の背景は社会主義である。米原万里の父親は鳥取の資産家だった。その家を捨てて社会運動に走った父親を万里は尊敬していた。成人してからアーニャを訪ねる旅で知る社会主義は日本のそれとは大きく隔たりがあって戸惑っていた。

なにしろ、アーニャは特権階級で、それは宮殿のような屋敷に使用人をおいて生活していて、それをごく普通のこととして受け止めていたのである。それを目の前にしながら万里は「日本の共産党は違うのよ」と何度も心の中で叫んでいる。その日本の共産主義にも、私は否定的だった。

20代のころ、男友達が社会主義だといった。「でも社会主義の究極の理想は共産主義なんだ」と付け加えた。当時のわたしはその社会主義は、人間の根源的な自由を奪うようなもの、という恐怖を密かに抱いていた。それを、どういう風に説明していいか分からないまま、とにかく嫌であった。

人間は欲望の生き物である。そういう人間をすべて同じ一並びに出来ないのではないかと思えたからだ。必要に応じた収入を確保すること一つにしても、人間の要求は千差万別なのである。それを平均で慣らして享受しなければならない社会のほうが怖いと思った。当時、この一言でも説明できたらよかったのだが。

安保闘争などの兆しは、かっての男友達のような発言から燃え上がっていったのだろう。個々には極めて純粋な人達だった。ごく最近でも、そうした共産主義の、それも幹部的な位置の人との日常的なお付き合いのなかでも、社会主義に話が及ぶと、20代のときと同じ返答をしている自分がいた。

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