‘他誌からの転載’ カテゴリーのアーカイブ

『朱雀』 2009年9月号・より 評者 鈴木眀魚

2009年8月23日 日曜日

 鷹鳩と化す掌を器とす         岩淵喜代子
  
            「俳句四季」四月号、「わが道を行く・白亜紀」より。

 「鷹化して鳩となる」、穏やかな春爛漫の季節には鷹も穏やかになり鳩と化してしまうと言う。 季語だけで十音を使ってしまう驚きの季語のひとつである。作者はこの季語を短縮して使っているが、これほど穏やかな日には掌を器として使うと言う。
 私は春爛漫の朝、少し遅く目覚めた作者が庭の咲き乱れた花を見て、両手で水を受け顔を洗っているのだと解釈した。
 揚句とは全く状況が異なると思うが、尾崎放談の「入れものが無い両手で受ける」を思い出した。

『増殖する俳句歳時記』7月11日 今井肖子評

2009年7月20日 月曜日

 駆け足のはづみに蛇を飛び越えし      岩淵喜代子

 手元の『台湾歳時記』(2003・黄霊之著)。「蛇」は、「長い物」という季語として立っている。傍題は「長い奴」。その解説曰く「蛇の噂をする時、『長い物』と呼び『蛇』とはよばない。蛇が呼ばれたと思い、のこのこ出てくるからだ」。どこの国でも、あまり好かれてはいないらしい。最近蛇を見たのは、とある公園の池、悠々と泳いでいた。それは青白い細めの蛇だったが、子供の頃はしょっちゅう青大将に出くわした。まさに、出くわす、という表現がピッタリで、歩いていると、がさがさと出てきてくねくねっと眼前を横切るが、けっこう素速い。掲出句、走っているのは少女の頃の作者なのか。のんびり歩いていたら、ただ立ちすくむところだが、こちらもそうとうなスピードで走っていて、出会い頭の瞬間、もう少しで踏みそうになりながら勢いで飛び越える。説明とならず一瞬のできごとを鮮やかに切り取っている。子供はそのまま走り去り、蛇は再び草むらへ。あとにはただ炎天下の一本道が白く続く。『嘘のやう影のやう』(2008)所収。(今井肖子)

  ~~~~~~~~~~~~~~~

東京育ちではあったが、小学校の2年生ころは埼玉の山奥に戦争を逃れて暮らしていたので、蛇が石垣を這うのを見たりしていた。その後東京に帰ったので蛇などを目にすることはなかった。出会うとすれば、蛇屋のショウウインドウの薬漬けの蛇だった。

それが、東京オリンピックの年に現在の地に移り住んで、蛇が極めて日常的になってしまった。垣根に大きな蛇が枝から枝に全身を乗せて、日を浴びてるような姿は、まじまじと眺められる位置だった。軒先の鳥籠を狙うために窓ガラスを這う蛇を見つけたこともある。あんなに小さな蛇が鳥を食べるのかと思えるほどに細いものだった。

近所の人は雨戸を閉めようとして戸を引いたら蛇をつかみ出してしまって気絶してしまったそうである。蛇の話題は近所にたくさん生れた。しかし、人間が怖がって居るだけで、蛇の被害があったわけではない。蛇に襲われた話も皆無だった。

鑑賞して貰った句も当時の経験である。2分ほどのバス停への近道が、林の中の細道だった。バスの時間に間に合わせようとして走っている次の足が宙にあるときに蛇が目に入った。もう飛び越すしかなかった。文章仲間が発表したエッセイに、藏の天井裏で孵化した蛇が、つぎつぎ地上へ落下してゆく光景は、錦絵のようだった。 蛇は案外人間に親しんでいるのである。

『風の道』7月号 主宰・大高霧海

2009年7月8日 水曜日

現代俳句月評         筆者 山本柊花

まんさくの花のねじれのきりもなく          岩淵喜代子

金縷梅(満作)は野山に自生する落葉樹の大低木である。花は線形の縮れた黄色の四つの花弁である。早春に他の花にさきがけて咲く。この花の特徴を捉えて変哲もなく詠んでいるのがよい。

(「俳句四季・四月号」わが道をゆくーー白亜紀から) 

『河』七月号 主宰・角川春樹 (2)

2009年7月3日 金曜日

岩淵喜代子句集「嘘のやう影のやう」 選考過程

堀本  では、第二回日本一行詩大賞選考会を始めさせていただきます。今年は句集が41篇、歌集が20篇、総数61篇集まりました。その中から日本一行持大賞の句集が36篇、歌集が16篇、合計52篇、新入賞が句集5編、歌集四篇、合計9篇ということでした。
 今回もオブザーバーとして角川春樹代表に参加していただきます。選考には参加しないということで、あくまでもオブザーバーという形でよろしくお願いします。まず、大賞からお願いします。 句集、歌集関係なしに上位三位を挙げていただいて、一位二点、二位三位を一点として、合計で、二点以上を論じるということでお願いいたします。
  * * 
堀本  もう一つの二点は、「嘘のやう影のやう」岩淵喜代子さんです。加藤先生が二位、福島先生が三位で推していらっしやいます。
加藤  この人はしっかりしていますね。一番素養のある人ですね。助詞の使い方が群を抜いていました。いろいろ申しあげますけれども、「箒また柱に戻り山笑ふ」というのがあるんですよ。不思議な句だと思ってね。「山笑ふ」といえばだいたい決まっていますからね。箒が柱にまた戻るんですよ。
角川  柱にかけただけだけれども、そうは言わずに柱に戻ったというのは面白いですね。
加藤  日常俳句の典型みたいなものですね。これは驚きました。
 それから、「春窮の象に足音ながりけり」。象の句はほかの俳人も何人かつくっていますが、ご存じのように、「春窮」というのは食べ物がない時期のことを言います。この句は、気味の悪いようでいて、象というのは滅多にいるものじやないから、自分のところで飼うわけにいかないから、動物園だろうと思うんですけど、春窮の句でこんな句は見たことありますか。
堀本 ないです。不思議な句ですよね。
加藤  不思議な句なの。それで驚いたんです。 それから、不思議といえば、「龍天に登る指輪の置きどころ」というんですよ。
辻井 不思議ですね。
加藤  面白い句ですね。この方は、もちろん既婚者でしょうけれども、指輪の置きどころに困っているのか。亭王に返すのか、恋人に返すのか知らないけれども、年配の方ですよね。源義先生に習った方ですか。
角川 違います。
加藤  それから、清和の句をつくっているんですよ。「船べりに街の流れてゆく清和」。船で大川を上ったりしますと、街が流れていくように見えるんですね。それをご存じの「清和」という、いわゆる季語にもたれるけれども、私驚いたの、清和でこう言う女の人がいるというのは。うれしくなりました。
 それと、羅漢の句は多いんですけれども、「ひとつづつ羅漢に頂けしけんぼ梨」というのがあるんです。ケンポナシというのは仏手柑みたいなもので指の格好をしているんですけど、これがなぜ使われずにきたかというと、ハンセン氏病の人の指が欠けたりするでしょう。それがケンポナシに似ているといって忌み嫌ったんですよ。江戸時代そういうものがあったんですね。ところが、あえてこの人が使った勇気というか、俳句的素地としたらすごい句で、ご承知のように、羅漢といったら、五百羅漢寺があるように、あれだけ形相の変わった人のところにそれをあえて入れたというのは、場合によっては原爆忌の句より怖いですよ。すごい女性ですよ。私は、源義先生のお弟子さんだとばかり思っていました。
堀本  「けんぽ梨」が効いているということですね。       
加藤  効いている。まず玄圃梨を詠ったのは見たことない。
角川  私もない。
加藤  あなたは歳時記をおつくりだからおわかりでしょうけど、ないと思うな。これはえらい人だと思った。
 それから、何でもないけど、子規よりすごいと思った句があるので驚いた。子規なんかすっ飛んじゃう句があるんですよ。「鶏頭は雨に濡れない花らしき」というんですよ。あれ、雨を弾くんですよ。子規もうっかりしましたね(笑)。これはもう一行詩ですよ。「鶏頭花」ともいいますけど、鶏頭を詠む場合、普通、「花」は入れないんですよね。あえて入れている。いや、驚きました。
 ついでに言ってしまえば、瓢の句だってそうですよ。「それぞれの誤差が瓢の形なす」(笑)。誤差があるから瓢箪になる。これもすごい。会ってみたい人ですよ、この人は(笑)。
堀本  「誤差」というのは、成っていく時問差です。
加藤  そうですね、大きくなるとか、小さくなるとか。いや、教えられました。
堀本  ありがとうございます。
 それでは福島先生、三位に推していらっしやいます。
福島  「多喜二忌の樹影つぎつぎぶつかり来」これはそんなでもなかったんですが、一番驚いたのは、「釦みな嵌めて東京空襲忌」。
辻井 これはすごいね。
福島  なんていうのかな、端正な詠いっぷりの中に、学童だとか死者たちの顔が浮かんできますね、特に幼い子どもたちの。また生者たちが謹んで東京大空襲の日を迎えているというイメージ。これはすごいなと思いました。 それから、これも佳いと思った。やはりこれも戦争を反映している句だなと思いました。「黒板に映りはしない春の雲」。この二句が、僕は三位に推した理由です。
 出だしの句「草餅をたべるひそけさ生まれけり」を見たら、優雅な、まあまあと思って読み始めたんですけど、こういう句に出会って、非常に驚きました。やはりこの人の生きてきた歴史、昭和を生きてきた人間の凄まじさというか、体験したことの真実性というか、そういうものを深く感じました。
辻井  実は、いいなと思った句が一番多いのはこの人の句だったんです。今の「釦みな嵌めて東京空襲忌」というのは、僕がひねくれているのか、空襲忌ということで、生徒なんかを勢ぞろいさせて儀式としてやっているんだけど、ほんとに空襲の悲惨さをどれだけの人が実感しているだろうか、儀式になった途端に、これはやっぱり形式にすぎなくなるんじゃないかという、そういう批評まで入っているかなという気がして、私はいいなと思ったんです。
堀本  深いですね。
辻井 それから、「暗がりは十二単のむらさきか」なんていうのは、変な句なんだけれども、やっぱりそういうことかなと思ってしまったとか、「三月のなぜか人佇つ歌舞伎町」というのも、これは加藤さんが立っているのか誰が立っているのか知らないけれど(笑) それと、「花果てのうらがへりたる赤ん坊」。「うらがへりたる」というのは、仰向けになって手足をバタバタさせて泣いているのかもしれません。同じページの「花吹雪壷に入らぬ骨砕く」。これはちょっとすごいなあと思ってね。誰でも経験があると思うけれども、焼き場へ行って、大腿骨とか頭骸骨は入らないですよね、それを砕くわけ。花吹雪の中でそのことを思い出すというのは、桜の花の持っている美しさの中に潜んでいる死の影というものを、こんなふうに感じ取っているんだなということを感じました。
 そういう点では、「水引の咲きすぎてゐる暗さかな」。確かに水引が群生していますと、何でもないような花が群生していると、咲きすぎている感じが出てきて、影が見えてくるんですよね。
加藤  水引草はそうですよね。一つずつ見ると、ひそっとした花なんだけど、怖いんだね。
堀本  明を暗に転換させているんですね。
加藤  なるほどね。私、これを落としました。うっかりしました。
辻井  それから、「冬日濃し先に埴輪の暖まり」。埴輪というのは、古い時につくられて、そのまま壊れずにきて、掘り出されて、冬日が濃くなって先に埴輪のほうから暖かくなってきたと、作者は歴史を感じているんだなという感じがしまして、相当すごい句集だなと思いました。僕は入れてないんだけど(笑)。
堀本  それでは、決戦投票ということで、二点以上の中から三位までお遊びいただければと思います。

『河』七月号 主宰・角川春樹 (1)

2009年7月2日 木曜日

第二回 日本一行詩大賞 決定

 ★ 日本一行詩大賞 句集『憑神』   福島 勲
 ★ 新人賞  歌集『星の夜』 森水晶     句集『Kへの手紙』 松下由美

選考委員   辻井喬 (詩人・小説家)
同        加藤郁乎(俳人・詩人)
同        福島泰樹(歌人)

●日本一行詩大賞候補作品
    岩淵喜代子    句集『嘘のやう影のやう』
    大野ミツエ     歌集『虹 霓』
    梶等太郎      句集『されど洪水』
    小島 健      句集『蛍光』
    林 裕子      句集『虎落笛売ります』
    福島 勲      句集『憑 神』
    宮澤 燁      歌集『一塊の風』
    森 妙子      歌集『まあだだよ』
    八木忠栄     句集『身体論』

●日本一行詩新入賞候補作品
    喜多昭夫     歌集『責霊い
    佐藤文香     句集『海藻標本』
    三宅勇介     歌集『える』
    森 水晶      歌集『星の夜』
    松下由美     句集『Kへの手紙』

一次予選
辻井喬選・一位『虎落笛売ります』・二位『身体論』・三位『一塊の風』
加藤郁乎・一位『憑神』・二位『嘘のやう影のやう』・三位『虹霓』
福島泰樹・一位『されど洪水』二位・句集『憑 神』三位・『嘘のやう影のやう』

座談後の最終選
辻井喬選・一位句集『虎落笛売ります』・ 二位『されど洪水』・ 三位『嘘のやう影のやう』
加藤郁乎・一位句集『憑神』・ 二位句集『嘘のやう影のやう』・ 三位歌集『虹 霓』
福島泰樹・一位句集『憑神』・ 二位句集『されど洪水』・ 三位『嘘のやう影のやう』

『門』  主宰・鈴木鷹夫

2009年6月21日 日曜日

現代俳句月評   中村鈴子

「俳句四季」四月号、「白亜紀」より
  
        尾があれば尾も揺れをらむ半仙戯         岩淵喜代子
        甘茶仏人の目線に据えらるる

 一読して成る程と思う。周知のように人間には尾の名残の尾骨がある。進化論で言えば遥かなる先史時代もしブランコがあったら尾も揺れていただろう。着想の斬新さに脱帽すると共に心を楽しませる句である。
 二句目は認識の句。言われてみればその通りで甘茶仏は誕生仏でもあり又人々が甘茶をかけるのに都合が良いようにか、それほど大きくしない。しかし「人の目線に」というフレーズはそう簡単に出ない。見慣れた景でも、その視点と自分の言葉による表明でかくも新鮮な句が出来る事を教えられた。

『雲取』 主宰・鈴木太郎

2009年6月21日 日曜日

現代俳句管見   下条杜志子

「俳句四季」四月号、「白亜紀」より

      恋猫のために踏切り上がりたる   岩淵喜代子

 微笑ましくもあたたかくなる句だ。別に猫のために踏切が開いたわけでもないはずだが、恋猫がローカルな景色の中の線路を越えてゆく。いや、けっこうな混雑の中かも知れずそこに注がれる俳人の愛情のようなものが滲んでいる。で、かくありたいとは思うものの、野良猫の数匹の騒動によくない気分を持て余しもするのだ。

自然の誤差の発見ー『嘘のやう影のやう』感想   坂口昌弘

2009年6月15日 月曜日

     嘘のやう影のやうなる黒揚羽    喜代子
   大巌をゆらしてゐたる花の影
   大岩へ影置きに行く冬の犀
   日陰から影の飛び出す師走かな
   枯野原とんびの影が拾へさう
   君やてふ我や荘子が夢心   芭蕉

 句集の中に、「影」という言葉がつかわれた句は五句ある。岩淵喜代子は影というものにとらわれた俳人である。文学に関心のない人は影には関心をもたないで実体そのものだけに関心をもつ。合理主義からいえば、影は実体でないから、何も役にたたないのである。陶淵明に「形影神」という形と影と神が話をする面白い詩がある。古代東洋において、形は肉体、影は魂とされた。梶井基次郎には「Kの昇天」という影が主人公の散文詩のような名作がある。山本健吉の『いのちとかたち』には「影」と「たましひ」についての論文がある。

 なぜ、俳人は影なるものに関心をもってしまうのであろうか。
 岩淵喜代子は、黒揚羽をみて、それは実際に飛んでいる生物であるが、影のようにみえている。黒揚羽が飛ぶことや影のようにみえることそのものが、すべて嘘のようにみえているのである。ここには荘子の、夢の蝶の思想がみられる。「嘘」のようとは「夢」のようだということである。人間には何が本当の実体であるのかよくはわかっていないのである。夢にみた蝶が本当の荘子なのか、実際に生きている荘子が本当の荘子なのか、真実の本質を突きつめていった先に人がみるものは嘘のような夢のような世界である。喜代子のみた黒揚羽も荘子のみた蝶であろう。
 
 大巌というものは揺れないけれども大巌に映る花の影がゆれることによって、詩的真実は大巌がゆれてしまう。作者は物事をいつも相対的にとらえている。「影置きに行く」という見方も面白い。実体が動いて影が動くのではなく、影が動いてそののちに実体がうごくような感じがする。忙しい師走においても、日陰から影が飛びだしてやむなく身体があとを追いかけるようだ。影が精神の象徴であれば、精神が動いて身体が精神の欲するままに動くのは当然の心のからくりであれば、作者の影の句は心の動きをリアルに表現している。 野原でも鳶の体を捕まえるのが大切ではなく、むしろ鳶の影という鳶の心を捕まえたいという気持ちが感じられる。

   桐一葉百年待てば千年も         喜代子
   平和とは桐の一葉の落つる音
   陶枕や百年といふひとくくり
   百年は昨日にすぎし烏瓜
   それぞれの誤差が瓢の形なす

 句集には、百年という年数にこだわっている句がある。
 桐一葉という季語は、老荘思想の影響を受けたタオイズムの古典『淮南子』にある「一葉落ちて天下の秋を知る」という言葉が語源であり、栄えたものが凋落して行く様子の例として使われる。タオイズムは複雑な思想であるが、戦争に反対して時の政権から離れ隠遁した生活者や、不老不死を望む李白や陶淵明の詩人を生む思想となった。
 
 喜代子の句には、「百年待てば千年も」「平和とは」という言葉があるから、作者は『淮南子』の思想を無意識に語ったのかもしれない。詩歌は十年や百年の刹那的な言葉ではなく、千年の言葉であろうか。流行よりむしろ不易である。荘子を尊敬した芭蕉の〈夏草やつわものどもが夢のあと〉を連想させる。
 
 斎藤慎爾は句集の栞において、岩淵喜代子を「〈陸沈〉の人」と呼んでいる。「陸沈」とは本来タオイスト的な言葉で、人が世の中で姿を隠していること、時代の移り変わりに関心ないことという意味であるが、小林秀雄は儒教の中にも「陸沈」の考えがあることを発見している。「世の中は、時をかけて、暮してみなければ納得出来ない事柄に満ちてゐる」 「反省する事が即ち生きる事だといふ道は可能だ」 「この具体的な反省」を孔子は「陸沈」と呼んだと小林は述べている。

 今俳人の平均年齢が上昇して老化現象と若い俳人から鄭楡されるが、俳人が森羅万象の世の中を相手によい俳句を詠むためには、「世の中は、時をかけて、暮してみなければ納得出来ない事柄に満ちてゐる」ことを理解する必要がある。詩歌を理解するためにも百年はかかるということであろうか。二千年以上も前に考えられた老荘思想や儒教の思想は、千三百年前の日本の国に影響を与え、今もこれを超える思想はない。荘子の造化の思想は芭蕉や子規や虚子の俳句観に深い影響を与えた。
 
 世の中を理解するということは、自然の条件のささいな誤差が、瓢の形に微妙に影響を与えることを理解することであろう。同じようにみえる瓢でもその形―内容はすべて異なるのである。自然にも人間にも俳句にも多様性を認めるということに通じる。俳句とは、森羅万象にみるわずかの誤差の発見ではないか。

   己が火はおのれを焼かず春一番   喜代子
   火のやうに咲く花もあり迢空忌
   暗黒の芯を力に野焼きの火

「火」を主題とした句が三句ある。
 作者はみずからの胸の中に「火」のような情熱をもっているが、その精神的な火は身体を焼くどころか、春一番の風にあおられた炎のままに生きている。迢空もまたそのような人であり、いつも燃えるような文学と神と魂への学問の情熱をもっていた。迢空忌の九月に咲く赤い花といえば何であろうか。それは、花というよりも火のような精神力をもった詩人の心の花ではないか。火といっても、炎の中の中心には火がなく、そこには暗黒の芯があるだけである。火のように燃える情熱の心をみてもそこには何か暗い情念があるだけかもしれないと思わせる。

   芽キャベツや人棲む星はひとつきり    喜代子
   金銀の毛虫は何処へいくのやら
   スカンポを国津神より貰ひけり
   草笛や井氷鹿の里に尾も持たず
   古井戸をのぞきチューリップをのぞく
   陽炎や僧衣を着れば僧になり
   針槐キリストいまも恍惚と
   瞬間のうちかさなりて滝落ちる

 作者はあまり他の俳人がみないようなことを発見する。
 いまのところ人間が棲む惑星は地球ひとつだけであることを発見する。ましてや芽キャベツが育つような惑星はこの宇宙には他にないのではと思っているようだ。毛虫の行先を考える俳人も他にはいないのではないか。

 北原白秋に「すかんぽの咲く頃」の詩があるが、作者は、スカンポの植物は国津神から貰ったと詠む。古代日本人の神道には国津神と天津神があり、天神と地祇とも呼ばれる。天神は天から降りた神であり、天皇家の関係する神である。国津神は地の神でもあり、地方の豪族の神でもあった。天と地の神は、天地という古代中国のタオイズムの陰陽の神からきている。作者は自然の生命は国津神・地の神から貰ったと考える神観をもっているようだ。井氷鹿も吉野の国津神であり、水銀をとる部族で光る尾をもっていたとされるが、今の人間はもはや神聖な光る尾をもたないというアイロニーの句と思われる。

 作者はものの奥をみたがる俳人である。古井戸をのぞいたり、チューリップの花の中をのぞきたがる好奇心を持つ。子規が花に造化の秘密をみたように、作者はチューリップをまじまじと眺めている。僧侶もまたお布施によって生きている俗な人間であるが、僧衣を着たときに、俗から聖の人に変身するというその瞬間を作者は見る。陽炎の季語にはアイロニーがある。キリストは燦にされて死んだのではなく復活したのだが、生き返ることがわかっているが故に、苦しみではなく、恍惚の顔をしていったん死んだと詠んでいるようにも理解できる。 すべて世の中の運動はすべて瞬間の動きが連続するものだが、滝の連続した流れの中に瞬間を発見した句は滝の佳句のひとつになりえる。

『白露』   主宰・広瀬直人

2009年6月6日 土曜日

「現代の俳句」  評 長田群青
 
     蝋梅の一花盗めば手の濡るる        岩淵喜代子
                                
 蝋梅は、一月の初め頃咲き出す。盛りの時は、黄の勝った独特の艶のある花をびっしりと付け芳香を放つ。花びらの・内側にある濃い紫色の花托がアクセントとなっている。句いが強いからか、鵯や目白が群れをなして蜜を吸いにやって来る。揚句は、盛りの蝋梅をそっと黙っていただいたのである。雨の後であろう。小枝を折った手に雫が罰のように降りかかった。蝋梅は大きくなる木である。垣根から道へはみ出ることもある。「一枝」となるとどうかと思うが「一花」ぐらいなら、と思った。「盗む」という思い切った言葉が効いている。 (俳句四季4月号)より

『たかんな』  主宰・藤木倶子

2009年6月6日 土曜日

 『現代俳句の四季」評     鈴木興治

 山茶花の壊れれば散り平林寺   岩淵喜代子 

 作者は平林寺と側を流れる野火止用水の雰囲気が大好きでよく訪れるらしい。独歩の武蔵野がここほど残っているところはないだろう。禅の修業の場なので質素で静寂である。山茶花と椿の違いは一般的に散り方にある。椿は花の形のままポトリと落ちるが、山茶花は花びらを散らす。壊れるように散った時、音がきこえるほどの静寂だったのではなかろうか。 
               (俳句あるふあ2009年4・5月号)俳句が生まれる現場より。

トップページ

ににんブログメニュー

アーカイブ

メタ情報

HTML convert time: 0.133 sec. Powered by WordPress ME