自然の誤差の発見ー『嘘のやう影のやう』感想   坂口昌弘

     嘘のやう影のやうなる黒揚羽    喜代子
   大巌をゆらしてゐたる花の影
   大岩へ影置きに行く冬の犀
   日陰から影の飛び出す師走かな
   枯野原とんびの影が拾へさう
   君やてふ我や荘子が夢心   芭蕉

 句集の中に、「影」という言葉がつかわれた句は五句ある。岩淵喜代子は影というものにとらわれた俳人である。文学に関心のない人は影には関心をもたないで実体そのものだけに関心をもつ。合理主義からいえば、影は実体でないから、何も役にたたないのである。陶淵明に「形影神」という形と影と神が話をする面白い詩がある。古代東洋において、形は肉体、影は魂とされた。梶井基次郎には「Kの昇天」という影が主人公の散文詩のような名作がある。山本健吉の『いのちとかたち』には「影」と「たましひ」についての論文がある。

 なぜ、俳人は影なるものに関心をもってしまうのであろうか。
 岩淵喜代子は、黒揚羽をみて、それは実際に飛んでいる生物であるが、影のようにみえている。黒揚羽が飛ぶことや影のようにみえることそのものが、すべて嘘のようにみえているのである。ここには荘子の、夢の蝶の思想がみられる。「嘘」のようとは「夢」のようだということである。人間には何が本当の実体であるのかよくはわかっていないのである。夢にみた蝶が本当の荘子なのか、実際に生きている荘子が本当の荘子なのか、真実の本質を突きつめていった先に人がみるものは嘘のような夢のような世界である。喜代子のみた黒揚羽も荘子のみた蝶であろう。
 
 大巌というものは揺れないけれども大巌に映る花の影がゆれることによって、詩的真実は大巌がゆれてしまう。作者は物事をいつも相対的にとらえている。「影置きに行く」という見方も面白い。実体が動いて影が動くのではなく、影が動いてそののちに実体がうごくような感じがする。忙しい師走においても、日陰から影が飛びだしてやむなく身体があとを追いかけるようだ。影が精神の象徴であれば、精神が動いて身体が精神の欲するままに動くのは当然の心のからくりであれば、作者の影の句は心の動きをリアルに表現している。 野原でも鳶の体を捕まえるのが大切ではなく、むしろ鳶の影という鳶の心を捕まえたいという気持ちが感じられる。

   桐一葉百年待てば千年も         喜代子
   平和とは桐の一葉の落つる音
   陶枕や百年といふひとくくり
   百年は昨日にすぎし烏瓜
   それぞれの誤差が瓢の形なす

 句集には、百年という年数にこだわっている句がある。
 桐一葉という季語は、老荘思想の影響を受けたタオイズムの古典『淮南子』にある「一葉落ちて天下の秋を知る」という言葉が語源であり、栄えたものが凋落して行く様子の例として使われる。タオイズムは複雑な思想であるが、戦争に反対して時の政権から離れ隠遁した生活者や、不老不死を望む李白や陶淵明の詩人を生む思想となった。
 
 喜代子の句には、「百年待てば千年も」「平和とは」という言葉があるから、作者は『淮南子』の思想を無意識に語ったのかもしれない。詩歌は十年や百年の刹那的な言葉ではなく、千年の言葉であろうか。流行よりむしろ不易である。荘子を尊敬した芭蕉の〈夏草やつわものどもが夢のあと〉を連想させる。
 
 斎藤慎爾は句集の栞において、岩淵喜代子を「〈陸沈〉の人」と呼んでいる。「陸沈」とは本来タオイスト的な言葉で、人が世の中で姿を隠していること、時代の移り変わりに関心ないことという意味であるが、小林秀雄は儒教の中にも「陸沈」の考えがあることを発見している。「世の中は、時をかけて、暮してみなければ納得出来ない事柄に満ちてゐる」 「反省する事が即ち生きる事だといふ道は可能だ」 「この具体的な反省」を孔子は「陸沈」と呼んだと小林は述べている。

 今俳人の平均年齢が上昇して老化現象と若い俳人から鄭楡されるが、俳人が森羅万象の世の中を相手によい俳句を詠むためには、「世の中は、時をかけて、暮してみなければ納得出来ない事柄に満ちてゐる」ことを理解する必要がある。詩歌を理解するためにも百年はかかるということであろうか。二千年以上も前に考えられた老荘思想や儒教の思想は、千三百年前の日本の国に影響を与え、今もこれを超える思想はない。荘子の造化の思想は芭蕉や子規や虚子の俳句観に深い影響を与えた。
 
 世の中を理解するということは、自然の条件のささいな誤差が、瓢の形に微妙に影響を与えることを理解することであろう。同じようにみえる瓢でもその形―内容はすべて異なるのである。自然にも人間にも俳句にも多様性を認めるということに通じる。俳句とは、森羅万象にみるわずかの誤差の発見ではないか。

   己が火はおのれを焼かず春一番   喜代子
   火のやうに咲く花もあり迢空忌
   暗黒の芯を力に野焼きの火

「火」を主題とした句が三句ある。
 作者はみずからの胸の中に「火」のような情熱をもっているが、その精神的な火は身体を焼くどころか、春一番の風にあおられた炎のままに生きている。迢空もまたそのような人であり、いつも燃えるような文学と神と魂への学問の情熱をもっていた。迢空忌の九月に咲く赤い花といえば何であろうか。それは、花というよりも火のような精神力をもった詩人の心の花ではないか。火といっても、炎の中の中心には火がなく、そこには暗黒の芯があるだけである。火のように燃える情熱の心をみてもそこには何か暗い情念があるだけかもしれないと思わせる。

   芽キャベツや人棲む星はひとつきり    喜代子
   金銀の毛虫は何処へいくのやら
   スカンポを国津神より貰ひけり
   草笛や井氷鹿の里に尾も持たず
   古井戸をのぞきチューリップをのぞく
   陽炎や僧衣を着れば僧になり
   針槐キリストいまも恍惚と
   瞬間のうちかさなりて滝落ちる

 作者はあまり他の俳人がみないようなことを発見する。
 いまのところ人間が棲む惑星は地球ひとつだけであることを発見する。ましてや芽キャベツが育つような惑星はこの宇宙には他にないのではと思っているようだ。毛虫の行先を考える俳人も他にはいないのではないか。

 北原白秋に「すかんぽの咲く頃」の詩があるが、作者は、スカンポの植物は国津神から貰ったと詠む。古代日本人の神道には国津神と天津神があり、天神と地祇とも呼ばれる。天神は天から降りた神であり、天皇家の関係する神である。国津神は地の神でもあり、地方の豪族の神でもあった。天と地の神は、天地という古代中国のタオイズムの陰陽の神からきている。作者は自然の生命は国津神・地の神から貰ったと考える神観をもっているようだ。井氷鹿も吉野の国津神であり、水銀をとる部族で光る尾をもっていたとされるが、今の人間はもはや神聖な光る尾をもたないというアイロニーの句と思われる。

 作者はものの奥をみたがる俳人である。古井戸をのぞいたり、チューリップの花の中をのぞきたがる好奇心を持つ。子規が花に造化の秘密をみたように、作者はチューリップをまじまじと眺めている。僧侶もまたお布施によって生きている俗な人間であるが、僧衣を着たときに、俗から聖の人に変身するというその瞬間を作者は見る。陽炎の季語にはアイロニーがある。キリストは燦にされて死んだのではなく復活したのだが、生き返ることがわかっているが故に、苦しみではなく、恍惚の顔をしていったん死んだと詠んでいるようにも理解できる。 すべて世の中の運動はすべて瞬間の動きが連続するものだが、滝の連続した流れの中に瞬間を発見した句は滝の佳句のひとつになりえる。

コメント / トラックバック2件

  1. じあん より:

    こんな風に丁寧に読んでもらえると、他人事ながらすごーく嬉しいですー。
    ご一緒した時の体験を元に、出来た句かなーと思うのがあると、余計うれしいです。

  2. じあんさん、ありがとうございます。今活躍の評論家坂口さんのはここの場所では申し訳ないのですが、埋れさせておくのはいかにも惜しいので、掲載させていただきました。

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