‘受贈著書’ カテゴリーのアーカイブ

榎本好宏著 『江戸期の俳人たち』 飯塚書店刊

2008年2月6日 水曜日

江戸の俳人というと、数日前に紹介した磯辺勝著『江戸俳画紀行(中公新書)』を思い出す。ことにーー松尾芭蕉の弟子は気の毒である。なかなかすっきりと独立した俳人としてみてもらえない。とかく芭蕉が半分、本人が半分といった存在として扱われるーーという件を思い出す。

今回の榎本好宏さんの『江戸期の俳人たち』には、蕉門とあわせて40人ほどの俳人が紹介されているが、やはり芭蕉の弟子達は芭蕉を語らないことには成立しない。この一書は、(俳句実作者の視点で、作家の人となり、作品の淵源をわかりやすく語りました。というキャッチコピーがあって、文章も「ですます」調の一書である。

一話、すなわち一人ごとに、疑問を投げてそれを解き明かす、というかたちが推理小説の技法のようで面白い。書き出しはやはり芭蕉である。その芭蕉の「文月や六日も常の夜には似ず」「荒海や佐渡によこたふ天河」の二句を紹介しながら、ーー長大な紀行文の中で越後だけがなぜ数行で片付けだれたのかーーという視点から語っている。

たとえば山口素堂の有名な「目には青葉山ほととぎす初鰹」の存在から、鰹談義にはいるのは榎本さんのお得意分野である。その鰹談義によて、この句が「かまくらにて」という前書についての謎が解かれるという具合である。

『俳画紀行』

2008年1月30日 水曜日

磯辺勝著 『江戸俳画紀行     -蕪村の花見、一茶の正月』  中公新書 

「ににん」の創刊から書き始めた「江戸俳画紀行」はいつも注目されていた。それは一般の俳人があまり足を踏み入れない俳画であることより、その読ませる文章にあったと思う。と言ってもレトッリク的な文章ではない。

評論のような固い言葉もつかわない。きわめて普段の言語で綴る語り方が巧い。多分語り方が巧いのも、熟知に熟知をかさねた蘊蓄にもあっただろう。勿論ペン一本で生活しているプロで、NHK出版「食彩浪漫」には毎月、食の絵について語っている。

現在は一パーセントほどの可能性だけど「俳画紀行」を本にしてくれそうだ、と言っていたのは半年前くらいだったのだろか。多分そう口にするときには80パーセントくらいは進行していたに違いない。帯に蕪村の花見又兵の絵と「うまい へたより この境地」というコピーがある。

読み進むと磯辺さんの思想のようなもの、生き方のようなものがじんわりと沁み込んでくる。それは主張するというのではなく、こっちのほうが好きだなーというくらいの軽さで蕪村にたどり着くのである。聖俳と呼ばれる芭蕉とは全く反対の世俗の生活者の蕪村が好きだという件には、

ーーこういう生き方に、私はすべてこれ共感である。蕪村は死んだ人間のことをよく「あっち者」といったが、彼はとりあえず、「こっち者」でいることしか信じていなかったと思う。--

連句があれだけ「じか付け」がいけないと言われた時代に、なぜ俳画がべたつきの絵をかくのだろうかという疑問を解いていったりし、この一冊を読むと、俳画のみならず、近世の俳人図が明瞭に見えてくる。 ににん  

3冊の句集

2008年1月4日 金曜日

松村多美著句集『紅葩』  本阿弥書店刊

いのちあるものの苦さよ鮎の腸
欠伸する河馬にも着せむ花衣
夜祭の果てて雑魚寝に加はりぬ
もみくちやも尊し四万六千日
ひつぱりて尾の柔らかし虎尾草

一句目の生への意識と鮎の腸の苦さの取り合わせ。しかし、作者は苦さとはいいながら、人生のありようを失望しているわけではない。二句目の滑稽・三句目の風土性、秩父の風土を現している。四句目の自然悟道・五句目の本意への迫り方のそれぞれに、作者の生き様が見えてくる。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
菊田一平著句集『百物語』  角川書店刊
  *
ひとつひとつの
句があつまって
私なりの俳句空間を作りだせたらという
願いを込めて
「百物語」という
タイトルにしました。
  *
という作者の意思が帯に書き記されている。もう一つの意思は百物語を夏の季語に位置付けていることである。「百物語十一段は母のこと」「にぎり飯出でて百物語果つ」の二つが、夏の部に挿入されている。

なやらひの鬼の寝てゐる控への間
花すでに散りて大きな桜の木
伯爵の墓のまはりの芝桜
お祭の今日が始まる鶏の声
仏蘭西へ行きたし鳥の巣を仰ぎ
十月や象が鎖を引き戻し
手の届くあたりにありし恋歌留多

さりげない表現ではあるが、人生というものが、心の奥に沁み込んでくるような作品ばかりである。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
武田肇著 句集『海軟風』銅林社 200部限定

手にしたとき短冊が送られてきたのかと思った。縦が40センチで横が10センチ弱。これもA4の変形というのだろうが。とにかく細長い句集である。1ページの幅が10センチほどなのに、ページごとに2句が収められている。詩人であり編集者であり、そして俳句にも手を染めている、という感じに見受けられる。『星祭』から15年目の第二句集である。

をんな二人湯を掛けあふや朧月
見返れば来し方もなき棉の花
少年の鐵気ほのかに西瓜食ふ
ボート屋の娘銀河の戸を閉める
天の川ここは螢の焦げる川
冬蝶の燃えるが如くうせにけり

ひとことで言えば感覚的ということになるが、俳句という分野が物で語るということを意識しているのか、どのように見えるかという切り口から作品化している。そうした中で、最後に抽出した「冬蝶」の句などは生まれたのではないだろうか。

とにかく力まないと読めない句集だ。力まないと、というのは作品の内容ではない。本の形である。丁度、高窓から部屋を覗く為に爪先立ちの力みが必要なように、この本は、読むページを両手に力を入れて開いておかなければならない。少しでも手を緩めると、即座に音を立てんばかりにしっかり閉じてしまう。   ににん  

國井克彦詩集『東京物語』 思潮社 刊

2007年12月12日 水曜日

國井氏の11年ぶりの詩集。「東京物語」という題名が示すように、また、その目次の・幻視の海・・蔵前橋通り・・東京に雪が降る・・浅草幻想・・などが示すように都会派の詩である。しかし、一冊を読みとおすと、國井氏の生涯の凝縮したものが伝わってくる。そうして、その生涯を肯定も否定もしないで、叙述しているのが俳句的である。そう、國井氏は余白句会で俳句も作っていて、2年ほどまえに「森の蝶」という句集を手作りで限定30部発行している。

詩は一編ごとの一行の文字数が揃っているのが多く、何気なく読んでいると、その意味を見過ごしてしまうかもしれない。たとえば「啼く鳥」で一行が14文字に揃っているが、これもある種の呼吸を表し、視覚的表現も込めているのではないかと思う。

     あの鳴き声は鵙か仏法僧か梟か
         夜毎隣家から聞こ えて来るのは
     不満げな孤独な鳥の く ぐも り声
     ついつぶや かずにはいられない
         鳥を養う な かれ又飼うなかれと

「夢の楽器」もおなじような表記のしかた。「啼く鳥」14文字で一行だが、これは16字。16音ではない。漢字も一文字に数えて上下揃いを意識している。 ににん 
 

正津勉著『小説 尾形亀之助』 窮死詩人伝  河出書房新社 刊

2007年12月12日 水曜日

正津さんの好きな作家はいつも破滅形のような気がする。しかも、この亀之助は東北の大きな造り酒屋の生まれ。そんなところの家庭背景も自分に似ていて魅かれる要素になっているのだと思う。もう一つの好きな理由は、亀之助が放蕩無頼であるからだ。どちらも、正津さんの憧れなのである。破滅型と放蕩無頼に憧れながら詩を鑑賞し、詩人の生涯を小説化していて面白い。

      から壜の中は
          曇天のやうな陽気でいつぱいだ

     ま昼の掘る男のあくびだ

     昔ーー
     空びんの中に祭りがあつたのだ  「無題詩」(『色ガラスの街』)

紹介されている亀之助の詩から、もっと詩が読みたくなり、せつなくなる。        ににん 
 

 

秦 夕美著『赤黄男幻想』 富士見書房

2007年12月12日 水曜日

 個人誌『GA』に連載していた赤黄男の鑑賞を纏めたもの。一句を見開きで鑑賞している。もともと赤黄男をしっかり読んだことがなかったので、秦さんの雑誌で富澤赤黄男の俳句を味わってきていた。赤黄男の作品は一行詩と呼ぶのが相応しい。好きな作家である。その赤黄男を秦さんはいつも自分の内側に呼び込んで鑑賞している。
  
  切株のじんじんと ひびくなり
 ここでは、赤黄男の句はなぜこんなに哀しいのだろう、と問う。

  一本のマッチをすれば湖は霧
 このマッチを擦るという行為で何を思い、何を感じたのだろう、と問う。
 
  紫陽花は おもたからずや 水の上
 なぜ、自分が赤黄男の句に惹かれるのか、と問いながら鑑賞する。
こうした書き様が、秦さんの文学観を語っているのである。

 随分前に頂いたのに、読むのに時間がかかってしまって、紹介が遅くなってしまった。            ににん 
 

倉橋羊村著『水原秋櫻子に聞く』   本阿弥書店刊

2007年12月12日 水曜日

倉橋氏の表現姿勢は文中の以下の箇所に集約されている。

「秋櫻子については「波」創刊号から書きつづけて、30年を経た通算60回(一回2000字)の今日も、まだ書き切れていない。ちょうど1800枚を超えたところだが、私としては生涯書き続けるつもりでいる。」こうしたコメントが途中にあり、さらに「一気に読み切れる秋櫻子の文章を、何回にも分けて丹念に読んでいるのは、私自身改めて秋櫻子から学びたいからで、活字となって残っている文章から、ゆっくりいろいろな示唆を引き出したいからにほかならない。」の一文がある。

秋櫻子についての一書は、30年くらい前に「水原秋櫻子」というタイトルで上梓している。そのあと虚子についての一書があり、道元についての著書が続いている。もちろん道元についての著書も二冊ある。とにかく、こつこつと倦まず弛まず、書くことが好きな俳人。直接出会った印象からも、誠実な学級肌の人柄がにじみ出ている。

一書によると秋櫻子は古稀になってから、文章会を始めている。その初期のメンバーの一人に、倉橋氏もえらばれたようだ。書くというきっかけの原点をみたような気がした。 ににん 

根本佳代子「恋ごころ」  新日本文芸協会刊

2007年12月10日 月曜日

最近小さな句集を頂いた。
小さな句集といったのは、総ページ数八十頁、句数が百句に満たないような本だからである。むしろ、その句数の少なさが、全てをじっくり読ませるかもしれない。あまりに厚い句集は、それだけで、作品を粗末に読み過ごしてしまいそうだ。

この句集の編集も気に入った。普通は二句か三句を均等にページに収めていくのだが、この句集はそうではない。一句のページがあったり、三句のページがあったりして、緩急を自ずと句数で表現している。内容はそのタイトルで誰でも想像できる恋句である。

古扇子閉じて開ひて夜が明ける
籐椅子や右ひぢだけが飴の色
西日入る障子に一羽飾り鳥
行く先を問ふこともなし流し雛
さくらんぼ一人ぼつちを先に食べ

一句目の扇子の句は、まさにきぬぎぬの別れ際のような句。俳句をはじめて、一年ほどの作者とは思えないレベルである。ににん 

句集

2007年10月27日 土曜日

和知喜八遺句集『五階の満月』

  冬北斗みずからこぼるる車椅子
  茄子の馬乗るかと路地に遅れ居り
  妻が病み木槿あちこち向きて白
  目覚めいて師の梟の鳴くを待つ
  赤芽柏に立ち師が見えており

「饗焔」俳句会で発行した前主宰の遺句集。「寒雷」ことに加藤楸邨の影を強く感じる作家。掲出の師は勿論楸邨である。
   ————————————-
磯貝碧蹄館第十句集『未哭微笑』

  噴水を咥えて青い馬が佇つ
  水無月の水飲む虎に塔の見ゆ
  冬眠の乳房へ低き時計音
  金色の釈迦の御手にも雛あられ
  天へ向く千枚通し鳥渡る
  百本の筆の周りに狐火立つ
  六月の空へ平均臺藏ふ

俳句を写実と唱えるだけでは、こうした句は生れない。熱量の高い言葉を積み重ねて、魅力的。

句集 

2007年10月7日 日曜日

山本洋子句集『桜』  角川書店刊

きわめてさり気ない日常なのだが、それに静寂という言葉を被せたいような空気を感じる句集。

  掃いてあるところに椿よく落ちる
  雨来ては去る一軒家竹の秋
  一つ家にひとりで咲いて散る桜
  落椿入り日の前につづけざま
  裏戸より出でて椿の下を掃く

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
中原道夫句集『巴芹』  ふらんす堂刊

  と言つて初日の菊も気の迅し

何気なく開いたページで、一句に語らせるという事を、ことさら意識しながら作句するのではないかと思った。そう思いついてからページを繰っていくと、やはりそうした作品が並んでいるように思えた。

 どうにでもなる陽炎の中のこと
 にはたづみ覗かば虹の控へ室
 月見草とぢて雄蕊の片付かぬ
 兵児帯の男は金魚陋港の
 諸手挙げさくら歩いて来るやうな
 春深しどの家も閒引く子のをらず
 かげぐちに蒲公英の根の深さあり

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
井越芳子句集『鳥の重さ』     栞 西村和子  ふらんす堂刊

 改めて、この作家のやわらかな感性に触れたおもいがする。それはまた、西村和子氏のいう心象風景の展開にあるのかもしれない。

 びしよ濡れになり海鵜の浮いてきし
 風は日を通り抜けゆく野梅かな
 遠花火つめたき色を繰り返す
 暖房に息ととのへてゆきにけり
 春昼の体の中に羽の音
 春陰や鳥の重さの砂袋

トップページ

ににんブログメニュー

アーカイブ

メタ情報

HTML convert time: 0.124 sec. Powered by WordPress ME