‘他誌からの転載’ カテゴリーのアーカイブ

『吉野』2009年4月号  主宰・野田禎男

2009年5月31日 日曜日

「ににん」冬号

 同人誌で季刊である。しかし、いただく毎に楽しみな読み物が沢山ある。岩淵代表は「結社というのは喩えれば「城」、そして同人誌は「家族」に喩えられる。城には閉鎖性があり、家族には甘えがある。」と書いているが同感である。さらに『ににん』は、同人誌のようでそうでない。どこか、公園のような性格を帯びている。いつも、自由にでいりして、風が感じられる雰囲気でいたい。」とも書いており、私もそっと入り込んでみたいと思っている。本号は、まず、長嶺千晶句集『つめた貝』の特集で、中岡武雄さんと山西雅子さんが執筆している。二人が共通に取り上げている三句は

 もの思ふためのわが椅子去年今年      長嶺 千晶
 訣別や雪原に押す煙草の火
 冬桜こころに篤き文の嵩

 そして、特別寄稿を、齋藤愼爾、須賀荊、伊丹竹野子、岩淵喜代子、宮本部汪、長嶺千晶、望月遥の皆さんが読んだ小説をテーマに二十四句を発表している。ちなみに、齋藤愼爾さんは、寺山修司『田園に死す』を取り上げている。最初の三句を挙げると

 村棄つる日の茫茫と蝉の穴     齋藤愼爾
 淮か哭く水の面に雛置けば
 月見草まはりいづこも無のふかし

という具合である。
 さらに、両方に作品を発表できるににん集、さざん集があり、作品欄以外の連載として『歩く人・碧梧桐』、『わたしの茂吉ノート』、『石鼎評伝』、『予言者草田男』がある。
最後に岩淵代表の三句

雪女郎来る白墨の折れやすく
見えてゐる十一月の水平線
木枯らしやあまたの星を星らしく

「俳句・あるふぁ」4・5月号より転載

2009年3月25日 水曜日

「俳句の生まれる現場」の企画の最後のページの自作鑑賞

  逢ひたくて螢袋に灯をともす     (句集『螢袋に灯をともす』所収)   

 ふと思い出したのが、湖を隔てて愛し合う男女の物語である。男が火を焚き、女がその火を頼りに、毎夜泳いで逢いに行く話。最後は男が飽きて火を焚かなくなったのである。なぜ、体力の無い女が泳いでいくのだろうと、女の私には不条理な話に思えて仕方がないのである。
 螢袋はその名のとおりに袋状の花。垂れ下がった咲きようはランプシェードのようである。その連想から「ともる」ということばが生れた。そうは言っても虚構の火であることには違いないが、念じて眺めていればともっているかのようにも見える花である。否、想いを凝らせば灯がともりそうな花である。
 
  穂芒も父性も痒くてならぬなり     (句集『硝子の仲間』所収 )  

 男兄弟の中の唯一の女の子だった私を、父は異常に可愛がった。というよりも、他の兄弟を父がどんな接し方をしたのか全く覚えていない。ただひたすら父の記憶は私と父だけの場面で、他の兄弟が介在していることがなかった。
 父が私を幾つになっても、頑是無い童女のままのつもりで扱うことが、鬱陶しくなっていた。その視線さえ嫌になっていた最中の二十歳のときに、父は亡くなった。それもまた、この句の情感をいつまでも引き摺ることになってしまっていた。眺めていれば淡々とした穂芒の、花とも言えない感触が、身の置き所に困るような思いで重なるのである。

   薔薇園を去れと音楽鳴りわたる       (句集『嘘のやう影のやう』所収 ) 

 神代植物公園に六、七人で吟行にいったときの作。木立の下の木のテーブルと木の椅子を陣取っての句会だった。句の締め切りも迫っていたのは、もう閉園を告げるアナンスが流れ、音楽が鳴り渡っていた。その最後の句として、この句を短冊に書き込んだ。
 清記用紙が周っていたときに、仲間のひとりが「凄いわね。これって今直前の出来事よね」とびっくりした。というよりは呆気にとられている感じだった。 あまりにも、ありのままだったからである。
 しかし、このような計らいのない一瞬ごとを、一句に閉じ込めていければいいと思っている。

詩の波 詩の岸辺   松浦寿輝

2009年1月28日 水曜日

毎日新聞 1月28日

「わたしの茂吉ノート」を「ににん」に連載している田中庸介さんが最近詩集『スウィートな群青の夢』を上梓したのは以前のブログで紹介した。今日は、その評が毎日新聞にかなりな長文で取り上げられていた。

ーー言葉が軽やかに滑ってゆく、卓抜な運動感の漲る詩集だ。語り手の「ぼく」「私」「おれ」も絶えず自転車や電車やバスに乗って移動しつづ、一瞬もとどまることがない。では、悪天候で室内に閉じ込めれたらどうする?

〈こんな、こんな雨の日に
こんな雨の日に彼女とスローテンポで
彼女とスローテンポで踊りたい。こんな
雨の日にスローテンポで(スロー・テンポ)〉

と、1969年東京生まれの田中さんを、評者松浦寿輝はどの詩にもさわやかさを感じ、とても好意的である。この詩集は食べ物、たとえば「すいか」「白玉タピオカ入りの熱いぜんざい」「ぶっかけうどん」などを主題にし、遠目に「歪んだ自我の蛇」を置きながら詩を書いている。

『俳句四季』九月号掲載 i岩淵喜代子発表句16句より

2008年11月9日 日曜日

鑑賞・横松 しげる     (『遠嶺』12月号主宰・小澤克己   

  麨のはるかな味に咽にけり       
  
 麨は関西でははったい粉、関東では麦こがしと言う。江戸時代から旅の携行食として利用された馴染みのあるもので、ある年代以上の人にとっては懐かしさと共にある感慨を催す食べ物だが、今の了供たちにとって〈麨〉はどんな
味なのだろうか。 掲出、本当に久しよりに口にした〈麨〉の味に、懐かしさが甦って思わず咽せてしまったという気持ちが〈くはるかな味〉に籠められている。むかし、母が作ってくれたはったい粉を口に含むと心許ない薄い甘さが広がり、何か切ない感じがした覚えが作者にもあったのだろうと椎察した。筆者には〈麨〉ではなく「麥こがし」だったが、掲句を読んであの時代の一駒を懐かしく思い出した。
    ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~ 

鑑賞・平田雄公子          (『松の花』 主宰・松尾 隆信 )

    緑蔭といふ何もなきところかな   

「緑蔭といふ」満ち足りた、安息空間、其処に有るもの、無いもの。掲句の「何もなきところ」とは、不意打ちを食らったよう。寓意のような、ご宣託のような、そこは短詩型の申し子というべき、句。

    ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~

鑑賞・吉田千嘉子              『たかんな』 主宰・藤木具子

   牧開くとて一本の杭を抜く    

厩出しをした牛馬を牧野に解き放つ牧開き。牧を開くために、杭一本抜くのであるという。大きな扉があるわけではない。毎年大山桜を見に行く、岩手県北の七時雨山の裾野にある牧場もこうであった。杭一本抜くだけで別の世界が開かれる。今の世の中に、こんなに単純でおおどかな開放があることが嬉しい。

角川『俳句』九月号、岩淵喜代子の発表16句から

2008年11月8日 土曜日

遠矢 一月号  主宰・檜紀代   「現代俳句月評」   

  夜がきて蝙蝠はみなたのしさう 
 
 普段蝙蝠は洞穴などの暗い場所に棲んでいるらしい。色も黒く往々にして嫌われることが多い。欧米では吸血鬼の子分と見なされて評判が悪い。そんな蝙蝠にも温かな目を注ぐ作者。ひらひらと飛び回る姿を捉えて、楽しそうと表現したことに感動した。確かに蝙蝠にも生きる喜びがあるに違いない。 (鑑賞・福田貴志)

       ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~

『琅玕』12月号 主宰・手塚美佐     「 現代俳句月評」  

  初夏や虹色放つ貝釦

入梅前の暑くも寒くもない季節。自然は新緑に彩られ、人々は衣替えをする時期でもある。糊の利いたシャツブラウスの釦を一つずつ掛けると、虹色の光が返ってくる。ネックの釦一つをはずし、瑞々しい若葉の風と共に若さを謳歌する。「初夏」の響きもよく、さわたかな気分で鑑賞させていただいた。(鑑賞・伊藤てい子)

     ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~

『俳句』11月号  合評鼎談
岩淵喜代子    『箱庭 』

宮坂  この人の作品はこれまで集中的に読んだことがなかったのですが、今回の、
 
    箱庭と空を同じくしてゐたり

この人の作品はこれまで集中的に読んだことがなかったのですが、今回の、  うまいことを言う人だなあ。この句は感心しましたね。箱庭と空を一つにしているなんて、今まで誰も言わなかった。巧まざるうまさだね。
山下  私もその句と、

  噴水を寄る辺にみんな人を待つ
  盆踊り人に生まれて手をたたく
 
中七と下五でかなり叙述的な表現の仕方を取っておられます。ゆるやかな、力みのない表現ですが、人という存在への温かくて深い眼差を感じました。単なる技術的なうまさではなく、深いものをもった上での巧みな表現をなさっているなと思いました。
村上  もともと詩を書く人ですので、詩的な発想があるのでしょう。俳句はそれも加えて大変うまいですね。
 
  鳥は鳥同士で群るる白夜かな

に○を付けています。
宮坂  それもうまいし、

  夜がきて蝙蝠はみな楽しさう

 この童画も面白い。人の世を超えている。

~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~

麻』11月号 主宰嶋田麻紀 
 
  化けるなら泰山本の花の中   
 
 泰山木は初夏にまっしろで香り高い大きな花を咲かせる。アメリカ原産でモクレソ科の常緑樹、十メートル程になる高木で、硬くて大きな葉が茂った下はすばらしい木蔭。幼稚園時代の私は泰山木の下のお砂揚に居る為にだけ幼稚園に行っていたようなものだった。泰山木の葉はお皿、花びらはお茶碗、土筆のような花芯はスプーンに見立てて、飽きもせずひとり遊びを続けていた。多分、私も化けて出るなら勝手知ったる泰山木の花の中にすると思うのだ。そして芳香に包まれながら高いところから娑婆にいる人たちをただぽかーんと眺めているのではないかな。 (鑑賞・田中幸雪)   
       ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~
『ランブル』11月号  主宰上田日差子

 半夏生メトロの駅に風吹いて

〈半夏生〉は七二侯の十一日目にあたる。梅雨の最中であるので〈半夏雨〉といって大雨となり出水など災いを起すことも多い。
 今や、地下鉄の地中深く縦横に走る路線図を見ると、よくもこんなに掘ったものだと驚嘆と同時に、ある種の恐れのようなものを感じてしまう。地下のホームに降りる長いエスカレーターは、まるで奈落へ落ちんばかりである。梅雨どきの湿り気のある風は容赦なく髪を嬲り、自然の風でないこの人工的な強風にまたおののくのである。(鑑賞・今野好江)

      ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~

『椎』11月号  主宰・九鬼あきゑ

  初夏や虹色放つ貝釦     

このごろでは、天然の貝殻を加工したボタンを見かけることは好くなくなったように思うが、真珠の輝きを放つ貝釦の美さはいつ見ても魅了される。作者はその光沢を「虹色放つ」と表現し、光の加減で様々の色を発する貝殻の美しさを詠んでいる。七色の輝きの貝釦を手にした時のときめきは、来る夏への心の昂ぶりや初夏の爽やかな日差しと呼応している。(越川 都)
        ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~

『築港』 11月号   主宰・塩川雄三

 化けるなら泰山木の花の中     

泰山木の花は人の手の届かない高い高いところに咲く。こぶしや木や朴の花に似ているが花が大柄だ。花径15~20センチはある。
花の形を大きな盃に見立てて「大盃木」、それから「泰山木」になったというくらいあだから、泰山木の大きな花の中で変身するのも悪くないだろう。(鑑賞 岩水草渓)
           ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~
『百鳥』11月号 主宰・大串彰

   病葉も踏めば音して哲学科  

病葉にも音があるという発見、そして哲学科との取りあわせ。発見と取りあわせの妙という俳句の要諦を備えた作品である。果てもなく世界の根源を探り、ときとして人間の懊悩深きに触れる哲学の道には、病葉が散っている。どのような足取りにせよ、ひとたび入ったら踏み迷う道。(鑑賞・望月 周)         
       ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~

『俳句』11月号   「俳句月評」  仲寒蝉    

   病葉も踏めば音して哲学科      
             
 〈病葉〉は病気などに侵されて夏なのに色づき散る葉のこと。周囲が青々としている季節だから奇異に映るけれど病葉が色づいたり散ったする機序は秋の紅葉や冬の落葉と同じ筈だ。だから落ちている葉を踏めば当然音がする訳だがそれを事々しく言ったところに手柄がある。
 〈哲学科〉との付け方が唐突のようでいて中々味わい深い。作者の頭の中には山口青邨の(銀杏散るまつたゞ中に法科あり)があったろう。しかし、この句の下5は「法学部」でなく「哲学科」の方がいい。最近亡くなった池田晶子さんの活躍などもあって哲学が息を吹き返しつつある。病んでいる葉っぱだけでなく人や時代もしかり、だからこそ哲学は必要。そこまで穿った見方をしなくても「音を立てたのは葉か靴か」と考えるのもまた哲学か。

  ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~
11月号『氷室』・主宰 金久美智子  

    夜がきて蝙蝠はみな楽しさう   

獣なのに鳥のように飛ぶ蝙蝠は、昼は暗い所に潜み日暮になると活動をはじめる。姿形が気味悪がられて、あまり好意をもたれない気の毒な動物である。この頃はあまり見掛ける事もなくなったが、以前はよく夕方になると低い所を飛んでいたりして、子供達の「こうもりこうもり」と囃す声が聞こえてきたものである。うす暗くなった空に飛んでいる蝙蝠を見つけた作者、人間と交替するようにこれからは自分の世界だとおわんばかりに飛んでいる様子を見て、「みな楽しさう」とは言い得て妙である。(鑑賞 今井 幸
  ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~

10月号『曲水』・主宰 渡辺恭子

     夜がきて蝙蝠はみな楽しさう   

場所によってであろうが、最近あまり見かけなくなっている情景である。「みな楽しさう」に、作者の目のあたたかさを感じた。乱舞のさまが見えるようである。
     ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~

 10月号『吉野』・主宰 野田禎男

    噴水を寄る辺にみんな人を待つ  

日比谷公園や上野公園の噴水の周りには大勢の人が一年中いるが、それをみんな誰かを待っていると見て取った作者の切っ先は鋭い。
       ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~

 10月号『雉』 ・主宰 田島和生

    親鳥に離れて鳰の子の水輪   

生命の力強さと悲しみを、全肯定したような作品。青々と遠くまで拡がってゆく水輪の中心で、きょろきょろと親鳥の姿を探す鳰の子の姿が可憐。教訓的解釈も可能だが鑑賞と違って誰の作品の糧にもならない解釈を偉そうに展開して、大切な紙面を無駄にする度胸が私にはない。 (鑑賞・大前貴之)
        ~~~~~~~~~~~~~★~~~~~~~~~~~~

 10月号『若竹』 ・主宰 加古宗也

   盆踊り人に生まれて手をたたく   
   夏浅し片手ではらふ菓子の屑  

一句目、盆踊りとは祖先の魂を慰めるためにある。そんな当り前のこともだんだん薄れていきそうで怖い。「人に生まれて」という措辞は、私たちそれぞれにたくさんの祖先がいて、そして今の自分という肉体があるということを思い出させてくれる。手をたたく、その手さえも自分だけのものじないような。お盆というのはやはり死者の世界と少し繋がっているだろう。
二句目、「夏浅し」という季節が好きだ。「片手で」払うというそのさりがなくも鋭い写生が「夏浅し」の季感をいきいきと、より鮮やかなものにしている。屑を払い、さあ、と立ち上がったその上に広がる初夏の空が眩しい。(鑑賞・田口茉於)    

『百磴』 2008年11月号  主宰・雨宮きぬよ

2008年10月27日 月曜日

 句集『嘘のやう影のやう』    鑑賞・ 遠藤真砂子
 
   暗がりは十二単のむらさきか
   花果てのうらがへりたる赤ん坊
   秋霖の最中へ水を買ひに出る

 第二句集『蛍袋に灯をともす』で第一回俳句四季大賞を受賞された著者の第四句集である。あとがきには「鹿火屋」故・原裕主宰、「貂」川崎展宏主宰、二人の師との思い出と、俳句は寄り道ばかりしてしまったと現在の心境を語られている。句集名は《嘘のやう影のやうなる黒揚羽》に拠る。
 
 一句目、華やかなその名からは想像もできないほど地味な花である十二単。その地味な花を見て、ふと口をついて出た言葉がそのまま一句となったように思える。「暗がりは」の措辞は地を這うように殖えるこの花を確と表している。又、下五は「むらさきか」と突き放したような表現であるが、作者は存外この花を気にいっておられるのかも知れない。

 二句日、赤子は一日、一日見ている間に成長する。桜の咲き始めた頃はまだ出来なかった寝返りが、花も終る頃には出来るようになった。初めてその時を眼にする喜びは、母親だけのものではない。家中の愛情を一身に集めている赤子の愛らしさが浮かぶ。「うらがへりたる」には、そのむちむちとした体つきや、力強さが想像され「花果て」の頃の何かほっとした気分も伝わり、微笑を誘われる。
 
 三句日、近頃は水道の水ではなく、ペットボトルに入った各地の冷水を愛用する人が増えている。いつ頃からの風潮であろうか。作者も秋霖の中、わざわざ水を買いに出たのである。いつの間にかそんな習慣が身についてしまったことを、やや自嘲気味に、客観的に眺めておられるのか。何でもない日常生活の一駒を掬いとられる作者の感性の鋭さを思う。そのほか〈雫する水着紋れば小鳥ほど〉〈運命のやうにかしぐや空の鷹〉〈雑炊を荒野のごとく眺めけり〉などの比喩の句の数々は、単なる比喩を超えて印象深く心に残った。 

『暁』 2008年11月号 主宰・室生幸太郎

2008年10月27日 月曜日

句集『嘘のやう影のやう』   鑑賞・岡崎淳子  

 『嘘のやう影のやう』は、同人詰「ににん」創刊代表・岩淵喜代子氏の句集、氏には、第一回俳句四季大官受賞の『蛍袋に灯をともす』をはじめ『朝の椅子』『硝子の仲間』他の句集と連句集やエッセイ集がある。
  
  花果てのうらがへりたる赤ん坊
  春窮の象に足音なかりけり
  古書店の中へ枯野のつづくなり
 
 本書は、「春陰」「花果て」「黒揚羽」と季節を追って七章二九六句から成る。どの作品も言葉が実に美しい。やさしい表現の向こうから作者の深い思いがゆっくり立ち上がる。日本語の美しさに改めて魅せられた。 一冊には大きな<象>から<海牛>まで多種多様な生きものが詠まれている。<天上天下蟻は数へてあげられぬ>と小さなものも一句の中でこころを保つ。
 身ほとりの生きものに著者の気持ちが重なった極致の一句が、句集名となった次の作品なのてあろう。
  
  嘘のやう影のやうなる黒揚羽
 
 著者は「、鹿火屋」「貂」に所属されたが、あとがきは、三十年前、立冬の月山の頂上を目指した折の師原裕氏の印象を、月山の黄葉の透明感の中に綴られた優れた文章である。芭蕉に思いを馳せた主宰のひと言は、今なお著者のさまざまな感慨を誘っているのである。 本書はエッセイスト岩淵喜代子氏にも触れる一冊である。

『麻』十月号 主宰・嶋田麻紀

2008年10月18日 土曜日

~~ 句集散見 ~~ 句集『嘘のやう影のやう』   黒米満男 評

 あとがぎによると、集名は、〈嘘のやう影のやうなる黒揚羽〉の句からきめた、とある。師系は「鹿火屋」の原裕(はらゆたか)が初学時代。時を経て、創刊から参加していた「貂」の川崎展宏氏など。どこかで述べたが、基本はそうであっても、その他、多くの人々の影響下にあったことは確かだ。ちょっと脇道にそれるが、こうして出来上がった「俳人」がひとりふえ、ほかにも影響を与えていくということになる。
 〈嘘のやう影のやうなる黒揚羽〉は、もちろん文中にある句だか、黒揚羽は夏から初秋にかけて舞っている実際の生物である。それが、嘘のやうであり、影のようである、という。そこが俳句の面白いところで、言われてみれば、なるほどと納得させられるものがある。心象的に言えば、実体として、たしかに諾うことのできる何かがあるだろうかと、自問しているわけである。何もかもあやふや、それが実体である。

   草餅をたべるひそけさ生まれけり

冒頭に置かれた句。ひそけさの実体を草餅を配することによって得た。こう考えると、俳人は、逆にあやふやな現象をいかに実体にまで、射止めるかの実存的努力家でもある。

   雨だれのやうにも木魚あたたかし二句目。

木魚の本質を雨だれで示した。

  己が火はおのれを焼かず春一番
 
 これも面白い発見だ。たまたま自制心があるからいいようなものの、社会的な枠をはみだして事に及ぶ不心得者もいる。と、即物的に考えなくとも、心の炎を燃えたたせている俳人のことと思えばよい。

  白髪の婦人隣家に水温む
 
 毅然とした白髪の老婦人が目に見えるようだが、水温む、で、優しい老婦人に変貌。

  釦みな嵌めて東京空襲忌

 一九三六年生れの著者は、八、九歳の頃この空襲に合われたかもしれない。一九四五年三月一〇日の大空襲で約十万人の死者が出た。釦みな嵌めて、に慰霊の気持がこもる。

  スカソポを国津神より貰ひけり

 別名酸葉(すいば)。若い茎を吸った覚えがある。天孫降臨以前の神を国津神という。スカンポという素朴な植物に似つかわしい。

  三月のなゼか人佇つ歌舞伎町
 
 待ち合せ、という目的が無くとも、なぜか人が立っている。それが歌舞伎町だ。

   きれぎれの鎌倉街蝌蚪生まる

 小生の居住地のそばにも鎌倉街道と名づけられた道ある。鎌倉へ向かっているとは、思えないけれども。
  
    春眠のどこかに牙を置いてきし
  覗き込む花散る里の潦
  春窮の象に足音なかりけり
 
 食べ物が不足してくる晩春、却ってか知らずしてか、象の足音にも、その影が‥‥。
  
  城跡の日向真四角椎の花
  駆け足のはづみに蛇を飛び越えし
  陶枕や百年といふひとくくり
  孑孑のびつしり水面にぶらさがり
  何せむとニコライ堂に日傘閉づ
  魂になるまで痩せて解夏の憎
  芭蕉忌の愚直の手足あるばかり
  地芝居に集ひてみんな羅漢めく
  生きて知るにはかに寒き夕暮れよ
 
 人生の夕暮れまで生きて、はたと、その寒さを感じた。この寒さを知らずに死ぬ子供もいる。しかし、人生の哀歓は最後まで味わって死にたい、と小生は思う。そして俳句ができれば最高だ。俳句はただ事実を詠めばよいというものではない。うまく言えないが、この「嘘のやう影のやう」を読ませていただいて、岩淵氏の突出した感性、個性を思った。俳句を止められなくなるのは事実だ。(平成二十年二月、東京四季出版刊)

俳句誌『さくら』から  代表・いさ桜子

2008年8月6日 水曜日

『嘘のやう影のやう』
  岩淵喜代子句集を読む
                     梅 田 うらら

 岩淵喜代子氏は俳誌『ににん』の代表で、この句集が第四句集です。第二句集『蛍袋に灯をともす』で第一回俳句四季賞受賞、恋の句愛の句『かたはらに』で第二回・文学の森優良貨を受賞されています。 この句集の先ず『嘘のやう影のやう』この表題にとても心惹かれました。
  
  嘘のやう影のやうなる黒揚羽
 やけつくような暑い真夏の日、黒い揚羽蝶がひらひらと舞っている。一瞬、影のようにもみえ、いや、誰かの魂だったのでは………。はっとして確かめようとすると、もう何処にもいない。非常に幻想的な、あれは夢か幻だったのかしら。
  
  薔薇園を去れと音楽鳴りわたる
 薔薇のあまい香りと美しさに時の過ぎるのもうっとりと忘れる。そこへ不意に閉園を知らせる音楽が響く。「去れと鳴りわたる」に作者の怒りが感じられ、はっと意表をつく面白さです。
  
  針槐キリストいまも恍惚と
 十字架の刑にされたイエス・キリストの絵画か像か、その恍惚の表情には、私も密かにそのように惑じていました。
 針槐の辣と甘き香りが響き合い、素敵な一句です。
  
  三角は涼しき鶴の折りはじめ
 三角に、三角にと鋭角に折り進む折り紙の鶴。しなやかな指先、折っている人のほっそりとした涼しげな様子まで想像されます。室内か、公園のベンチか、静かな時間の中で。 頸や脚の長い鶴の姿形に、涼しいという季語の取り合わせ。鶴を折りはじめるのは、きちっと三角をまず折るのです。この感覚が素敵です。

  星月夜転居通知を出しにけり   
 やっと落ちついて、転居通知を出しにポストまでいった。なんということもない景ですが、ふと見上げれば、満天の星空に気づきます。 この地球から、あの満天の星の一つに引越しをするような不思議な感覚をも感じさせます。

  春眠のどこかに牙を置いてきし
  春深し真昼はみんな裏通り
  きれぎれの鎌倉街道蝌蚪生まる
  魚は氷に上る芭蕉に曾良のゐて

『俳句四季』七月号転載

2008年7月26日 土曜日

身体意識の結晶 ーーーーーーー 小澤克己

 岩淵喜代子さんには、すでに『朝の椅子』『蛍袋に灯をともす』『硝子の仲間』の三冊の句集がある。加えて『墟のやう影のやう』が四冊目の句集となる。第二句集『蛍袋に灯をともす』で第一回「俳句四季大賞」を受賞し、世に広く知られる実力俳人になった。同人誌「ににん」を創刊した翌年(平成一三年)、二十一世紀が始まったばかりのことだった。
 岩淵さんの句歴はもう三十年以上。かつてのエッセイで「文体は思想」として林田紀音夫を論じていたが、第四句集への道程は将に岩淵さん自身の〈文体は思想〉探りだった。
  
   雨だれのやうにも水魚あたたかし
  眠れねば椿のやうな闇があリ
  鱧食べてゐる父母の居るやうに
  秋の蝉鎧のやうなものを着て
  火のやうに咲く花もあリ迢空忌

直喩〈やうな〉を使った作品。句集名も、

  嘘のやう影のやうなる黒揚羽

 とくやうな〉を二つ使っている。この修辞表現にはみな〈文体は思想〉という意識が強く働いている。逆説的に文体を思想化〉出来ぬ作品は俳句ではないと言えようか。すると、安易に修辞表現に頼る文体も、その思想化からは遠のくことになる。難しい所だが、岩淵さんは敢えてその難点に切り込んでいる。直喩よりも暗喩(隠喩)に文体の複層化が包含されているが、作品の読み、あるいは伝達の拡散性の問題を孕んでいる。実は、句集名となった先句にもそれが内在している。
 つまり、〈嘘のやう〉〈影のやう〉の畳みかけの直喩が実はすでに隠喩化していることに気づく。例えば、『般若波羅蜜多心経』の「諸法空相」、実存主義の「存在と無」、逆上ってギリシア哲学者プラトンの「イデア論」などの存在論の認識に対峙させてもよい。黒揚羽の句は十分その思想の重みに耐えている。
 さらに隠喩が思想化を果たすと、〈詩の身体化〉が始まる。

  白魚を遥かな白馬群るるごと
  海風やエリカの花の黒眼がち
  春眠のどこかに牙を置いてきし
  青鷺は大和の国の瓦いろ
  雫する水着絞れば小鳥ほど

 本句集に高い水準の評価が集まるのは、この〈詩の身体化〉の成功であろう。西東三鬼の「穀象の群を天より見るごとく」に近い成功作の二回目、エリカに黒眼を発見した詩的洞察、自己の詩的変化を〈牙を置いて〉でシンボル化した手柄、〈青鷺〉を〈瓦いろ〉と形象・象徴化させ、五句目は、自己身体がまとっていた水着の別事物(小鳥)への身体化か図られ、成功した表現に結晶化している。見事と言う他はない。当面、現代の俳句はこの傾向を主点に展開されてゆくのであろう。翻って、岩淵さんが長く係っている現代詩の分野では、今どのような〈詩の身体化〉が図られているのだろうか。

  古書店の奥へ枯野のつづくなり
  老いて今冬青空の真下なり
  喪心や夜空の隅の冬木立

 〈現代詩の身体化〉された象徴の作品と解するにはあまりにも淋しい。現代詩は既に三句目のように葬られたのか。いや今なお青春期にあり血を滾らせていると信じたい。
 さて、本句集の到達点にはさらに〈思想の融合した身体化〉が認められる。

  悟リとは杉の直幹石鹸王
  魂となるまで痩せて解夏の僧
  十六夜の柱と共に立ち上がる

 一句目、二句目には叙述性を越えた身体化への直截的な志向がある。さらに成功作は三句目ということになろうか。無上の真言という仏語は、〈思想の融合した身体化〉と同義となる。「心に罫礎なす」も意義深く協働した言葉となって掲出三句と響き合っている。 最後に、岩淵さんの永年のテーマ〈時間〉意識にて成功した句も指摘しておきたい。

  瞬間のうちかさなりて滝落ちる

 後藤夜半、水原秋桜子の名句を想望し、かつ永遠の〈文体の思想〉を俳句に求めつづける作者の身体意識の結晶である。本句集の文運と著者の活躍を祈念し、摺筆とさせて頂く。

         ~~☆~~~~☆~~~~☆~~~~☆~~

       一句鑑賞      「俳句四季」

小津のやう  筑紫磐井

  もうひとリ子がゐるやうな鵙日和

 昨年一年間、角川書店の「俳句」で大輪靖宏、擢未知子らと毎月の俳句作品を講評する合評鼎談〉を行った。三人の内の二人は毒舌家として知られていたので、かなり容赦ない批判であったと受け取られていた(と人づてに間いている)。
 それはそれとして、その最終回(一三回目に、一年間感銘を受けた句を二〇句ずつ取り上げて,「俳句年鑑」で特別座談会を行った。重なり合うことの少ない三人だが、このとき擢未知子と私がそろって激賞したのは岩淵喜代子の「雫する水着絞れば小鳥ほど」であった。膨大な対象句の中で、作家が重なり合うことはあっても、一句が重なり合うことは滅多にない、希有な例であった。
 この句は、今回の句集にも収録されており、なるほどいい句である。「小鳥ほど」などなまじな作家の言える譬喩ではない。これからみても、岩淵喜代子はうるさい批評家を簡単に黙らせてしまう実力の特ち持ち主だと言うことがよく分かるだろう。
 とはいえ今回取り上げたのは掲出句である。「もうひとり子がゐる」とは不思議な感覚だ。「小鳥ほど」のように、うまさがたちどころに説明できる向とはまた違った岩淵喜代子の世界が現れている。 二人の子が一人になる(例えば事故や病気や戦争で)という感覚は切実だが、もう一人子がいたら、はとても男親では実感できないし、女親でもその説明には困惑するのではないか。
 小津安二郎の映画では、しばしば鎌倉が舞台となり老父と嫁ぎ遅れている娘の淡々とした生活が描かれるが、そんな感覚かもしれないと想像する。この句で動かない季題「鵙日和」は小津映画にふさわしい題だ。「晩春」「麦秋」[秋日和」という作品と並んで小津作品にあってもおかしくない。それもこの句が小津作品に通う点だろう。
    

        ~~☆~~~~☆~~~~☆~~~~☆~~

太虚に回生する言葉の力   五島高貴

  日陰から影の飛び出す師走かな

 岩淵喜代子さんとは俳句関係の会合で数度お会いしただけである。だからほとんど純粋に俳句作品の印象そのままが岩淵さんその人と言って良い。今回の句集『嘘のやう影のやう』でもその作品一つ一つに立ち現れる句姿は句集全体のイメージを構成すると同時に句集全体のイージを包摂するような懐の深さを持っている。このフラクタルの美しさこそ句集名の出来となった次の一句に舞う黒揚羽のそれである。

  嘘のやう影のやうなる黒揚羽

 例えば高浜虚子の〈山国の蝶を荒しと思はずや〉における山国の蝶に通じるしなやかな強さを特つ黒揚羽である。それは俳句と共にした三〇年という光陰のはかなさであるが、しかし、上五中七の措辞によって再び陰陽を生む万物の元気たる「大言」へ立ち返ることによって取り戻した静謐なる力を秘めた美しさでもある。
 
  大巌をゆらしてゐたる花の影

 原石鼎の〈花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月〉では大巖が花影に質量を与えたが、掲句では「大虚」から溢れる気が「花の影」をして大巌をさえ動かしむる詩の力となったのである。石鼎といえば〈石鼎の貧乏ゆすり野菊晴〉という句も入集している。岩淵さんは石鼎の孫弟子に当たるので当然かもしれないが、吉野の山奥という辺境にあって却って詩神の恩沢をものにした石鼎の底力に通じるものを受け継いでいるようだ。
 〈老いて今冬青空の真下なり〉に覗われる「白き五弁の梨の花」のような美しい諦観も佳いと思うが、私としてはやはり次の句に見られるような陰を陽に転換して止まないダイナミズムの刹那からほとばしる言葉のカに勇気づけられたいものである。      一
  日陰から影の飛び出す師走かな

      ~~☆~~~~☆~~~~☆~~~~☆~~

夢想の彼方   上田禎子

  冬銀河潜り全席自由席

 この句集を読み進むとき、ときどきはてな? どうして? と立ち止まる。言葉の難解さにではなく、ただその組み合わせの面白さ、不思議さにである。終りには心の中が驚きと不思議な思いで満たされている。
 掲げた句は、そのように立ち止まって、しばし思いをめぐらす、多くの句の中の一つである。冬の空の銀河は、澄んだ大気の中で見るからに冷たく輝いている。そんな凍りつくようなところを潜るなんて誰が思うだろうか。だが、好奇心旺盛な作者は物事の奥の奥を考えてしまう。潜った冬の銀河の底になにがあるか、なにか特別な佳きもの、素晴らしいものがあるかもしれないと夢想する。
 思い切って潜ってしまった銀河の底は、広場が劇場か映画館か。見回せば、そこには自由な空気が無限に漂っていることを発見する。座席が並び、どこに座ってもいい。全部自由席。誰が来てどこに座ろうと。料金は無料か有料か定かではないが、あの冷たさを潜り抜けてきた人の勇気を称えやはり無料に違いない。
 そして、座席のどこかに作者、岩淵代表の涼しく座している姿があり、そのあたりには「ににん」の仲間のみならず、多くの『硝子の仲間』(第三句集)たちがリラックスして座り、歓談が始まり宴となるのである。
 この句は「ににん」の精神にも通じている。会員はみな平等な立場であり、「ににん」を基盤に自由に活躍している。「ににん」の句会にはさまざまな結社の人々が居て、それぞれ自分の思うことを言う。代表の選句は幅広く、オーソドックス、批評を述べる口調は穏やかであり、みんな静かに耳を傾ける。
 沈着冷静に見える代表だが、「梔子の匂ふ方向音痴かな」と意外な一面がある。また「雫する水着絞れば小鳥ほど」の小さなもの、「芋虫に追はるる猫の後退り」の猫など愛らしいものを詠み、親しみを感じさせられている。
         ~~☆~~~~☆~~~~☆~~~~☆~~
 

トップページ

ににんブログメニュー

アーカイブ

メタ情報

HTML convert time: 0.137 sec. Powered by WordPress ME