2010年3月 のアーカイブ

鳥井保和第二句集『吃水』    2010年二月  角川書店刊

2010年3月24日 水曜日

  参道は波の飛沫の初詣
  橋の裏まで菜の花の水明り
  どの鳥のこゑとは知らず百千鳥
  吃水に昆布躍らせ船戻る
  厠より婆の一喝稲雀
  愚直にも誓子一筋曼珠沙華
  水底に腹をあづけて寒の鯉
  葉裏までひかりの透ける柿若葉

誓子門下生であることを知れば、その揺るがない風景の据え方に大きく頷いてしまう。
昭和27年生まれ。現在俳誌「星雲」創刊主宰。

氷柱

2010年3月18日 木曜日

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手にとどく大内宿の軒氷柱

なにしろ見事な氷柱だった。もぎ取ると全長が子供の背丈くらいあって、まさしく槍として刀として振り回せるような大きさだ。酷寒ということばを証明するような長い氷柱に囲まれた家は大変だなー、とその生活を思いやってしまった。しかし、お菓子屋さんに入ると大きな囲炉裏に炭が熾きていて、店だから出口は開いているのに、店の中はほっとする暖かさが漲っていた。

宿場のポストに入れると、大内宿のスタンプが押されるというので、みんなハガキを買って自分に友達に、筆を走らせた。わたしは、自分に俳句を書いた。孫たちは友達に出しているみたいだった。このふたりの孫が、『ふたりの女の子』のモデル。

思いついて、春休みにはいった娘一家と出かけた会津。郡山で娘一家の車に乗り込んだが、どこもかしこもまだまだ雪がいっぱいで、ぬきんでている会津磐梯山も真っ白だった。夕食までにはまだ間のある夕がたの温泉にひたり、そのあと指圧にかかった。中年の男性の力加減もつぼの押え方もなかなかだった。

終わると、「息子さんがさきに部屋に帰っていますから」と、言っていました」という伝言だった。内心えー息子さん?と思ったが、あー娘の連れ合いも指圧に掛かっていたのだなー、と察した。夕食のときに、なかなか上手い指圧師だったことで意見が合った。

写真の氷柱は、翌朝、宿から車で40分くらいでいける大内宿のもの。山間の宿場はそこだけに人が固まって棲みついている土地である。たぶんそこへ宿泊する旅人は宿を囲むどこかの山を越えながら、ひたすら大内宿を目指して歩いてきたのだろう。どこを向いても高い山が聳えていた。その山々の落ち合う谷底のような土地に宿場はある。

購読者

2010年3月15日 月曜日

ににん」も今年は9年目。来年の一月の発行される41号は記念号を企画している。その「ににん」の購読を1号から続けてくれている人たちが20人くらいいる。全体では80人くらいの購読者がいるが、10年近くも淡々と購読料を送ってきてくれる人がいるなんて、当初は想像できなかった。

そのひとりの金井さんが亡くなった。葬儀には行かれないのでお通夜に参列した。たしか金井さんは証券会社にお勤めだったと聞いていたが、参列者のひと群れの人たちが、職場のお仲間だった人らしかった。もちろん、相当なお年の人たちばかり。

「金井君はさー、俳句とか文章と書いたりしていたみたいだよ」なんて話し合っているのが聞こえてきた。明日の葬儀には、そのお仲間だった荻窪教室の人たちが見えるのでないかと思いながら帰ってきた。俳句の縁というのも不思議だ。会うこともなく10年ちかくの月日が経ってしまっている。

中島鬼谷著・『乾坤有情』   2010年3月 深夜叢書刊

2010年3月14日 日曜日

 これまで各雑誌に発表してきた俳句随想、評論を一集にしたもの。中島氏の俳句観には説得力がある。それは孤高を保つ姿勢が言わせる論であるからである。それまで、総合誌や「雁坂」で読んでいたつもりだったが、一集にまとめられると、重層的に中島氏のことばが沁みてくる。

榎本好宏著『名句のふるさと』    2010年3月  飯塚書店刊

2010年3月14日 日曜日

 第49回俳人協会賞受賞直後の一冊。もう古典になりつつある作家の誰もが知っている名句を、その句の出来た場で鑑賞している。しかも挿入されている写真はカラー写真で楽しめる。
 一句を見開きの頁を使っての鑑賞で、季語の検証や解説から始まって、交友や実際に出会った作者の風貌や生涯にも触れている。

池田すみ子著 『自句自解』ベスト100  2010年3月 ふらんす堂刊

2010年3月14日 日曜日

 見開きの一頁は作品一句。その作品の自解が片方の頁に納められている。
大概の自註は作者の想い出にとどまるのだが、池田澄子氏の自註はその句を完成した時の俳句観が書きこまれている。それは、池田澄子ファンにとってはことに魅力的な一書になるだろう。

再々会

2010年3月12日 金曜日

件の会がいつもの人数の5割増くらいの混みようだった。なにしろ会員の黒田杏子氏の桂信子賞受賞をはじめとする細谷氏・榎本氏などの受賞祝賀会をかねているからである。挨拶が続いて草臥れてきたので後ろを振り返ると椅子が空いていた。

そこで久しぶりにM氏に出会った。黒田杏子さんのお祝いに駆け付けたのだろうか。M氏と知り合ったのは20年位前である。だから当時の彼は40代だったはずである。そのころから文筆業だったから、夜型だったのだろう。歌仙の開始が1時ごろだったがいつも遅れ気味で眠そうな顔をしていた。

連句の会を中止してしまってからは音信不通だったが、あるとき俳句年鑑にM氏の名前があって吃驚してしまった。「藍生」の年間賞を貰っていたのだ。意外だったのは彼が俳句にそんなに真面目に取り組むとは思っていなかったからである。

丁度「ににん」を起こすころだった。それから5年ほど「ににん」に参加していたが何故か5周年を前に退会してしまった。同時に「藍生」も退いていたようだ。俳句にたいする無欲さは、言いかえれば俳句の世界への諦念とわたしは判断している。

彼は、正津さんが碧悟桐を書いているけど僕が書きたい俳人だと言った。M氏と正津さんの差は水と火のような両極にある。それは文体にまでおよぶ。淡々と淀みない文章は熟知の上の熟知が書かせる余裕の文章である。こうした人が俳壇の外側にいるのが惜しいと思う。

3月10日

2010年3月10日 水曜日

今朝の毎日新聞の文化欄は古井由吉のエッセイ。東京大空襲に遭遇したことである。私はこの戦争について空襲についての記憶がかなり曖昧で甘い。古井由吉とほぼ同年齢にもかかわらず戦争が霞みにかかった絵空事のように遠い。古井由吉はその空襲の火を郊外で眺めていたが、その後の5月24日に焼け出されていたという。きっと天袋に収まったいた雛人形はそのまま和紙で顔を覆われたまま火に炙られたのではなかったかと書いている。

私が戦争についての記憶が甘いのは、ひとつはわずかな学年の相違で、歴代天皇の名前の暗記やら、教育勅語の暗記をする場から疎外されていたからである。言ってみれば戦争は物心がついたときから始まっていて、日常的なことの中に組み込まれていた。その後、東京に戻ってきた。あたりは焼け野原だったのだが、それは残骸が残っているという場面ではなく、土地は均されて、そこに無数のガラスの塊が日にきらめいていた。

それは、結婚後の土地で葱畑などに、土器の破片が浮き出ていたのを拾い集めたように、幼かった私はガラスの破片を嬉々として拾い集めて遊んでいた。その破片のひとつが、そこに住んでいた家族たちの思い出の花瓶だったり、日常の調味料の瓶だったり、ということを考えたのは、ずいぶん経ってからだった。この戦争体験の甘さは、その後の私の生き方に影響しているのかもしれない。

もしかしたら、何もかもぼんやりとした中で見つめて来たかも知れないなーと、しきりに思うこのごろなのである。たぶん、私の脳が現実のものを受け入れるのにかなりな時間を必要とするように仕組まれていたのではないかと。そういえば、小学生になる前のわたしは、片目が見えなくなっていた。親は「雲眼」というような名前を言っていたように思うが、調べてみてもその症状に匹敵する正式な名前は わからない。ようするに、瞳に何かが出来て視力を失っていたのである。

秩父の「野上の眼医者」とは戦前には全国的に知れ渡っていた名医らしかった。当時、その周辺にはその眼科に通うために旅館が繁盛したとかいう話も聞いた。その眼科に通うために母の実家に暮らしていたことがある。毎日牛乳を飲まされ雀の黒焼きを食べさせられていた。どちらにしても、この、鈍感さは生きてゆくことを支えてくれていると、この頃は思うのである。

テーマ俳句 「書」ににん38号掲載

2010年3月10日 水曜日

  寒月光放つ良寛書の余白        遊 起

江戸後期の禅僧・歌人である良寛は、諸国行脚の後に帰郷して、国上山に五合庵を結び村の童を友として脱俗生活をおくるが「大愚」の号を持ち、「書の命は『余白』にあり」と多くの書を残す。揚句「良寛の書」の余白には寒月光を放つのに充分な情趣があり。「良寛の海に下り立つ素足かな・・原裕」の句の『素足』と遊起の句の『余白』が、互いに響きあうだろう。(竹野子)

  いろはにほ書き続けてる春の宵    acacia

陽気漂う明るい春のいちにちが暮れなずんでいく。昼間の程よい疲れをいといながら、一風呂浴びて湯殿を出て鏡の前でおめかしを・・。風呂上りの洗面所の鏡は身熱りの温度差のせいか、すぐに曇ってしまう。曇った鏡に「いろはにほ」と書いてみる。少しおくと文字がぼやけ、拭いてもまた曇る。また、いろは・・いつまでも書き続けていたいような・・・。こころの移ろい易い春の宵ならではの描写である。よく「へのへのもへの」などと書き連ねた幼少の頃を思い出す。    (竹野子)

  雪中花画と書が弾み息を吹く     万香

池大雅や与謝蕪村の南画には、中国の詩をもとに風景や人々が描かれ、見ていて楽しくなってくる。水墨に彩色の濃淡のつけられた画にちゃんと詩も書かれ、詩を理解すると、風景の味わいも深くなる。まさに「画と書が弾み息を吹く」である。雪中花の季語が絵画的で凛として美しい。(千晶)

  万巻の書を読みても愚茗荷汁    倉本 勉

茗荷は物忘れを促すということを聞いたことがあるが本当なのだろうか。一所懸命に勉強して、本を読んでも右から左へ忘れてしまうのは、悲しいかぎりである。しかし、ソクラテスの言葉「無知の知」ではないが、おのれの愚を認識すること、すなわち叡知であろう。(千晶)

  羽子板のうらに長女の名前書く    橋本幹夫

初めて生まれた女の子、長女へ羽子板を買ってあげたので、その裏にその名前を書いた。羽子板を買うときはたくさんの中から、選ぶのに随分と迷ったに違いない。ようやくこれというのを選び買って帰った。その裏にただ名前を書くとしか言っていない、初めての女の子を持った喜びが見える句である(禎子)

  告知書をながめては七度目の春         匙太

告知書とはよく分からないが、七度目の春になったということを自祝して詠っているので、おそらくがんか、重病の告知をされた診断書なのかもしれない。作者はあれから七度目の春を迎えることができて、よくぞ生きてこられたことよと感慨にふけっている。経験しなくては詠まないし、このように境涯を俳句に詠むことも大事なことと思う。(禎子)

  冬ざれや我が名を書きて狼狽える   三千夫

わが名を書いて狼狽する場面とはどういうときだろうかと想像してみる。とりあえずはひとりの場面なら手紙。あるいは、記帳の場面など。あるいは手持無沙汰を埋めるための無意識な筆の走りだったのか。どちらにしても、その名前を書いて、その己の名前に向き合ったときの内面を語るのが冬ざれなのである。季語は思想を表すためにもある。(喜代子)

締め切りを課す

2010年3月8日 月曜日

 綿屋の坂の途中の、ブリキ屋、正確にはなんと呼ぶのか。そこがいつからか経師屋に替わった。特別に看板が出ているわけでもなかったが、ガラス越しに表紙を剥がした襖が立てかけてあるのを見たり、店から襖を車に積んでいるのをみたからだ。 経師屋とは、屏風や掛軸などの表装する職人だが、なんだか時代劇がかった呼び名である。経師とはその文字面から、経を書き写すことを業とした人も含まれているらしい。表具屋というほうが新しいかも。

 ブリキ屋から表具屋に替わった時から、「うちももう張り替えなくては、と思いながら過ごしていた。だが、億劫だったのは、そのためにしばらく家の中が落ち着かなくなることと、押入れが全開になることだった。しかし、先日連れ合いの退院日に迫られて部屋の整理をしたように、頼んでしまえば何とかなるものだと結論つけた。 

「襖」と一文字だけ書かれたガラス戸を明けても人気はなかったが灯りがあったので声をかけた。経師屋とか表具師などという呼び名はずいぶん古めかしい印象を持つが、その作業場も時代物映画の中でのセットときっと変わったところはないだろう。

真ん中に据えた作業台の向こうから現れた主は、案外若いのかもしれない。あるいは団塊の世代かな、とも感じられた。何枚っていうから、「えーと、天袋も二枚になるのかしら」と尋ねるとそうだという。そうすると一間の押し入れは四枚になるなと計算して、半間の押し入れも観音開きは四枚になってしまうのも知った。

そんなふうに数えていると、そんなにあるなら値引きもしますよ、と主が言った。
「あと部屋の間仕切りは両面ね」と念を押してから四枚の両面と片面は壁紙の戸が四枚だと言った。
「それじゃ、一日じゃー貼れないないなー、それに乾かす日も見なければならないから、寒くて困る部屋を先にやりますよ。なにしろ、完全に乾かないの入れてしまってからストーブなどを焚くと剥がれ易くなるからね」
「いいですよ、何日かかっても、」

我が家は個室が少ない。冷暖房もリビングの左右の部屋の戸が開けてあるような状態で住んでいる。だから、無くても一向に困らない。まして襖の多い和室は平素は使っていない。
「取りにいくのは2,3日過ぎてからだけど」
「その位あとのほうがいいわ、まだ受け入れ態勢が出来ていいないから」
そうそう、出来ていたらもうとっくに頼みに来ているんだから、と、胸の中で呟きながら帰ってきた。

やはり新しいはいい。その明るさに何度も眺めまわした。思い出したのは、二宮にある石鼎旧居だ。そこの中心の部屋の襖には石鼎が書いた雁の絵が貼ってある。コウ子夫人が、石鼎の絵の散逸を惜しんで使用したものだ。あれから、何十年と経っている。今でもあのままだろうか。少なくとも私が最後に訪れた平成2年あたりまでは雁の絵だった。

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