3月10日

今朝の毎日新聞の文化欄は古井由吉のエッセイ。東京大空襲に遭遇したことである。私はこの戦争について空襲についての記憶がかなり曖昧で甘い。古井由吉とほぼ同年齢にもかかわらず戦争が霞みにかかった絵空事のように遠い。古井由吉はその空襲の火を郊外で眺めていたが、その後の5月24日に焼け出されていたという。きっと天袋に収まったいた雛人形はそのまま和紙で顔を覆われたまま火に炙られたのではなかったかと書いている。

私が戦争についての記憶が甘いのは、ひとつはわずかな学年の相違で、歴代天皇の名前の暗記やら、教育勅語の暗記をする場から疎外されていたからである。言ってみれば戦争は物心がついたときから始まっていて、日常的なことの中に組み込まれていた。その後、東京に戻ってきた。あたりは焼け野原だったのだが、それは残骸が残っているという場面ではなく、土地は均されて、そこに無数のガラスの塊が日にきらめいていた。

それは、結婚後の土地で葱畑などに、土器の破片が浮き出ていたのを拾い集めたように、幼かった私はガラスの破片を嬉々として拾い集めて遊んでいた。その破片のひとつが、そこに住んでいた家族たちの思い出の花瓶だったり、日常の調味料の瓶だったり、ということを考えたのは、ずいぶん経ってからだった。この戦争体験の甘さは、その後の私の生き方に影響しているのかもしれない。

もしかしたら、何もかもぼんやりとした中で見つめて来たかも知れないなーと、しきりに思うこのごろなのである。たぶん、私の脳が現実のものを受け入れるのにかなりな時間を必要とするように仕組まれていたのではないかと。そういえば、小学生になる前のわたしは、片目が見えなくなっていた。親は「雲眼」というような名前を言っていたように思うが、調べてみてもその症状に匹敵する正式な名前は わからない。ようするに、瞳に何かが出来て視力を失っていたのである。

秩父の「野上の眼医者」とは戦前には全国的に知れ渡っていた名医らしかった。当時、その周辺にはその眼科に通うために旅館が繁盛したとかいう話も聞いた。その眼科に通うために母の実家に暮らしていたことがある。毎日牛乳を飲まされ雀の黒焼きを食べさせられていた。どちらにしても、この、鈍感さは生きてゆくことを支えてくれていると、この頃は思うのである。

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