2009年6月 のアーカイブ

自然の誤差の発見ー『嘘のやう影のやう』感想   坂口昌弘

2009年6月15日 月曜日

     嘘のやう影のやうなる黒揚羽    喜代子
   大巌をゆらしてゐたる花の影
   大岩へ影置きに行く冬の犀
   日陰から影の飛び出す師走かな
   枯野原とんびの影が拾へさう
   君やてふ我や荘子が夢心   芭蕉

 句集の中に、「影」という言葉がつかわれた句は五句ある。岩淵喜代子は影というものにとらわれた俳人である。文学に関心のない人は影には関心をもたないで実体そのものだけに関心をもつ。合理主義からいえば、影は実体でないから、何も役にたたないのである。陶淵明に「形影神」という形と影と神が話をする面白い詩がある。古代東洋において、形は肉体、影は魂とされた。梶井基次郎には「Kの昇天」という影が主人公の散文詩のような名作がある。山本健吉の『いのちとかたち』には「影」と「たましひ」についての論文がある。

 なぜ、俳人は影なるものに関心をもってしまうのであろうか。
 岩淵喜代子は、黒揚羽をみて、それは実際に飛んでいる生物であるが、影のようにみえている。黒揚羽が飛ぶことや影のようにみえることそのものが、すべて嘘のようにみえているのである。ここには荘子の、夢の蝶の思想がみられる。「嘘」のようとは「夢」のようだということである。人間には何が本当の実体であるのかよくはわかっていないのである。夢にみた蝶が本当の荘子なのか、実際に生きている荘子が本当の荘子なのか、真実の本質を突きつめていった先に人がみるものは嘘のような夢のような世界である。喜代子のみた黒揚羽も荘子のみた蝶であろう。
 
 大巌というものは揺れないけれども大巌に映る花の影がゆれることによって、詩的真実は大巌がゆれてしまう。作者は物事をいつも相対的にとらえている。「影置きに行く」という見方も面白い。実体が動いて影が動くのではなく、影が動いてそののちに実体がうごくような感じがする。忙しい師走においても、日陰から影が飛びだしてやむなく身体があとを追いかけるようだ。影が精神の象徴であれば、精神が動いて身体が精神の欲するままに動くのは当然の心のからくりであれば、作者の影の句は心の動きをリアルに表現している。 野原でも鳶の体を捕まえるのが大切ではなく、むしろ鳶の影という鳶の心を捕まえたいという気持ちが感じられる。

   桐一葉百年待てば千年も         喜代子
   平和とは桐の一葉の落つる音
   陶枕や百年といふひとくくり
   百年は昨日にすぎし烏瓜
   それぞれの誤差が瓢の形なす

 句集には、百年という年数にこだわっている句がある。
 桐一葉という季語は、老荘思想の影響を受けたタオイズムの古典『淮南子』にある「一葉落ちて天下の秋を知る」という言葉が語源であり、栄えたものが凋落して行く様子の例として使われる。タオイズムは複雑な思想であるが、戦争に反対して時の政権から離れ隠遁した生活者や、不老不死を望む李白や陶淵明の詩人を生む思想となった。
 
 喜代子の句には、「百年待てば千年も」「平和とは」という言葉があるから、作者は『淮南子』の思想を無意識に語ったのかもしれない。詩歌は十年や百年の刹那的な言葉ではなく、千年の言葉であろうか。流行よりむしろ不易である。荘子を尊敬した芭蕉の〈夏草やつわものどもが夢のあと〉を連想させる。
 
 斎藤慎爾は句集の栞において、岩淵喜代子を「〈陸沈〉の人」と呼んでいる。「陸沈」とは本来タオイスト的な言葉で、人が世の中で姿を隠していること、時代の移り変わりに関心ないことという意味であるが、小林秀雄は儒教の中にも「陸沈」の考えがあることを発見している。「世の中は、時をかけて、暮してみなければ納得出来ない事柄に満ちてゐる」 「反省する事が即ち生きる事だといふ道は可能だ」 「この具体的な反省」を孔子は「陸沈」と呼んだと小林は述べている。

 今俳人の平均年齢が上昇して老化現象と若い俳人から鄭楡されるが、俳人が森羅万象の世の中を相手によい俳句を詠むためには、「世の中は、時をかけて、暮してみなければ納得出来ない事柄に満ちてゐる」ことを理解する必要がある。詩歌を理解するためにも百年はかかるということであろうか。二千年以上も前に考えられた老荘思想や儒教の思想は、千三百年前の日本の国に影響を与え、今もこれを超える思想はない。荘子の造化の思想は芭蕉や子規や虚子の俳句観に深い影響を与えた。
 
 世の中を理解するということは、自然の条件のささいな誤差が、瓢の形に微妙に影響を与えることを理解することであろう。同じようにみえる瓢でもその形―内容はすべて異なるのである。自然にも人間にも俳句にも多様性を認めるということに通じる。俳句とは、森羅万象にみるわずかの誤差の発見ではないか。

   己が火はおのれを焼かず春一番   喜代子
   火のやうに咲く花もあり迢空忌
   暗黒の芯を力に野焼きの火

「火」を主題とした句が三句ある。
 作者はみずからの胸の中に「火」のような情熱をもっているが、その精神的な火は身体を焼くどころか、春一番の風にあおられた炎のままに生きている。迢空もまたそのような人であり、いつも燃えるような文学と神と魂への学問の情熱をもっていた。迢空忌の九月に咲く赤い花といえば何であろうか。それは、花というよりも火のような精神力をもった詩人の心の花ではないか。火といっても、炎の中の中心には火がなく、そこには暗黒の芯があるだけである。火のように燃える情熱の心をみてもそこには何か暗い情念があるだけかもしれないと思わせる。

   芽キャベツや人棲む星はひとつきり    喜代子
   金銀の毛虫は何処へいくのやら
   スカンポを国津神より貰ひけり
   草笛や井氷鹿の里に尾も持たず
   古井戸をのぞきチューリップをのぞく
   陽炎や僧衣を着れば僧になり
   針槐キリストいまも恍惚と
   瞬間のうちかさなりて滝落ちる

 作者はあまり他の俳人がみないようなことを発見する。
 いまのところ人間が棲む惑星は地球ひとつだけであることを発見する。ましてや芽キャベツが育つような惑星はこの宇宙には他にないのではと思っているようだ。毛虫の行先を考える俳人も他にはいないのではないか。

 北原白秋に「すかんぽの咲く頃」の詩があるが、作者は、スカンポの植物は国津神から貰ったと詠む。古代日本人の神道には国津神と天津神があり、天神と地祇とも呼ばれる。天神は天から降りた神であり、天皇家の関係する神である。国津神は地の神でもあり、地方の豪族の神でもあった。天と地の神は、天地という古代中国のタオイズムの陰陽の神からきている。作者は自然の生命は国津神・地の神から貰ったと考える神観をもっているようだ。井氷鹿も吉野の国津神であり、水銀をとる部族で光る尾をもっていたとされるが、今の人間はもはや神聖な光る尾をもたないというアイロニーの句と思われる。

 作者はものの奥をみたがる俳人である。古井戸をのぞいたり、チューリップの花の中をのぞきたがる好奇心を持つ。子規が花に造化の秘密をみたように、作者はチューリップをまじまじと眺めている。僧侶もまたお布施によって生きている俗な人間であるが、僧衣を着たときに、俗から聖の人に変身するというその瞬間を作者は見る。陽炎の季語にはアイロニーがある。キリストは燦にされて死んだのではなく復活したのだが、生き返ることがわかっているが故に、苦しみではなく、恍惚の顔をしていったん死んだと詠んでいるようにも理解できる。 すべて世の中の運動はすべて瞬間の動きが連続するものだが、滝の連続した流れの中に瞬間を発見した句は滝の佳句のひとつになりえる。

携帯電話の料金

2009年6月14日 日曜日

今年になって、ことに携帯電話の料金が跳ね上がったきた。携帯電話はそれほど使わないが、なくてはならない必需品。だから、いままで基本料に近い料金だった。それがなんと1万円前後の月が続いて吃驚。

だって携帯で長電話をすることなどは一ヶ月に一回あるかないかで、あとはメールである。それでaUの販売店に行って聞いてみた。どうも添付の写真がかかるようだ。一回300円くらいになるそうで、さらに吃驚。現在使っている携帯はカメラ機能が優れていることで購入したので、ブログの写真はみんな携帯からのもの。

昨日娘に送った二枚の青梅の山の写真もすでに600円かかっている計算になる。これでは確かに高額になるはずだ。それで、慌ててSDメモリを購入した。これなら直接パソコンに移せる。やれやれ。

山形の飛島行の旅行を計画中だが、この飛島へいく船というのが平日は一日一便しかない。ほんとうは平日に行きたかったが、急遽金,土、日曜日に変更した。朝どんなに早い列車に乗っても、平日の酒田からの出発時間には到着できないのである。

齋藤さんさんはたしか梟と言っていたが、夏に変だと思って問い合わせをしてみたら青葉木菟だそうである。4月ごろから聞こえはじめて、7月8月が最盛期だという。青葉木菟なら孤島までいかなくてもいいのだが、まー 、じっくり偏狭な島廻りを楽しんでこようと思う。なにしろ、最近小学生のいる一家が移り住んできたので学校が再開したというようなところだから。

螢狩

2009年6月8日 月曜日

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句会のあと、思いついて公園に電話してみたら「螢はかなり出ていますよ」という管理人の返事に弾みがついて、横浜まで出かけた。 

「神奈川県立四季の森公園」は、毎年一回は螢を見に出かけるスポット。今年は早々と出かけたので人は殆ど訪れていなかった。4人で固まっていても、広大な公園の奥まできている心細さがつきまとっていた。そのうち管理人が巡回してきてほっとした。蛍の句は桜よりも難しい。

   提灯を螢が襲ふ谷を来たり        大正2年   原石鼎 
   葉の螢風の螢にたゞならず        大正12年

ときどきフイットネスクラブへ

2009年6月7日 日曜日

流行っているんだなー、と感じるのがフイットネスクラブ。次々に新設されて、駅ごとにある。数年前に、入会してみたが、億劫になってしまって結局行かなくなってしまた。その次に岩盤浴のあるフイットネスクラブが出来て、それに申し込んでみたが、あまり心地よいものではなく、これも結局辞めてしまった。

最近、自宅下車駅のフイットネスクラブが月四回コースというのを売り出した。なぜ、運動に拘るかといえば、書くときはパソコン、読むときはとベットの二箇所を往復するだけになってしまい勝ちなので、ちょっと気になっていたのである。四回ときまっていれば通えそうな気がしたのである。

ごく初級のステップ運動に参加してみた。初級といっても結構難しい。うっかりすると足が縺れそうだ。「最初は足踏みだけでもいいですよ」とコーチはやさしい。周りをみるといろいろな人がいる。スリムな若者が多い。体格のいい年配者も、メタボなおじさんタイプの人もいた。

だが太っていても動きはしなやかで、リズムに合せて軽やかなステップを踏んでいる。それだけではない、その服装からプロっぽい。なぜかというとそのパンツだ。六分丈くらいのパンツが、ピノキオが履くズボンのよう。裾線がしっかり膝下で拡がって、それだけでステップが巧そうに見える。

お風呂はとりわけゆっくり入って、マサージ機にもかかってから売店に寄ってみた。みんなが履いているのはこれだな、と思いながら触ってみると、薄くて伸縮性のある素材だ。これなら足も軽くなりそうだと納得した。

『白露』   主宰・広瀬直人

2009年6月6日 土曜日

「現代の俳句」  評 長田群青
 
     蝋梅の一花盗めば手の濡るる        岩淵喜代子
                                
 蝋梅は、一月の初め頃咲き出す。盛りの時は、黄の勝った独特の艶のある花をびっしりと付け芳香を放つ。花びらの・内側にある濃い紫色の花托がアクセントとなっている。句いが強いからか、鵯や目白が群れをなして蜜を吸いにやって来る。揚句は、盛りの蝋梅をそっと黙っていただいたのである。雨の後であろう。小枝を折った手に雫が罰のように降りかかった。蝋梅は大きくなる木である。垣根から道へはみ出ることもある。「一枝」となるとどうかと思うが「一花」ぐらいなら、と思った。「盗む」という思い切った言葉が効いている。 (俳句四季4月号)より

『たかんな』  主宰・藤木倶子

2009年6月6日 土曜日

 『現代俳句の四季」評     鈴木興治

 山茶花の壊れれば散り平林寺   岩淵喜代子 

 作者は平林寺と側を流れる野火止用水の雰囲気が大好きでよく訪れるらしい。独歩の武蔵野がここほど残っているところはないだろう。禅の修業の場なので質素で静寂である。山茶花と椿の違いは一般的に散り方にある。椿は花の形のままポトリと落ちるが、山茶花は花びらを散らす。壊れるように散った時、音がきこえるほどの静寂だったのではなかろうか。 
               (俳句あるふあ2009年4・5月号)俳句が生まれる現場より。

ににん35号校了

2009年6月5日 金曜日

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 会員の中に経済学の先生がいるのだが、この不況の時期には忙しいらしい。論文を求められたり、講演をしなければならなかったりと。こういうのも「風が吹くと桶屋が儲かる」と、いうのだろうか。

「ににん」は不況に関係なく、もちろん好景気だって関係なく予定通り原稿は揃う。そうして、予定通りの第一月曜日の句会のあとで校正も無事終了。今回は座談会がはいるので、80ページの厚さ。いままででいちばん厚いページ数だ。

個人的にも、評伝『頂上の石鼎』に入れる吉野・龍土町・本村町の地図も思うようなイメージに完成して、やっと終ったという気分になった。どちらも出版社に送ったので、しばらく蛙の親子の遊び場にキーボードを開放しておくことにする。

ににん35号への「赤」掲載句

2009年6月2日 火曜日

曇天のつまらぬ午後や薔薇赤く       新井大介
赤ベコの小振りを買うて余花の雨       たかはし水生
春雨に二歳の孫が赤き傘           留守秀樹
他人のまま女同士の赤のまま        さわこ
残る鴨赤の他人に見えぬなり         匙太
何よりも真っ赤なばらを供花とせむ      岩田勇
高楼の白地に赤く昭和の日          橋本幹夫
菜の花を赤く染めてる朝陽かな        西方来人
春愁ひ赤松の幹にふれてみる         acacia
赤心や問わず語りに蓬摘む          西方来人
赤鳥居百基くぐりて牡丹かな          じゅん
細き首赤きドレスのチュウリップ       志村ゆり
梅雨夕焼赤錆うきし自転車押す        高楊枝
会津椀赤深くして春の雪            阿愚林
青き踏む常より軽き赤子かな         こさぶ
赤あかと唱えていたり春の夢         西方来人
母の日や兄の赤紙色褪せて         さわこ
抱かれて赤子泣き止む初燕          橋本幹夫
卒業をまづ赤飯で祝ひけり            岩田勇
夕焼の瞼を閉ぢて未だ赤く             橋本幹夫
恋猫は赤信号も見ざるなり            土下信人
孕馬赤きたてがみ靡かせて           橋本幹夫
おぼろ夜を赤子のままに過しけり        匙太
クロッカス赤き五線譜ひくリスカー       重箱
さえずりを聞きつ赤い実食われけり       西方来人
スコールやみ赤いバイクが湧き出でて     土下信人
愛憎の他人事なり赤き薔薇            灌木
遠つ国に赤十字旗のなびき朱夏         じゅん
ほほ赤き双子兄弟入学す            横浜風
蒲公英を赤く染めしは夕陽かな        下信人
寝返りをうって赤子の酷暑かな        なかしましん
赤い糸切れる日もあり花うつぎ        さわこ
赤子抱きまるく茅の輪をくぐりけり       橋本幹夫
料峭や冬虫夏草の赤い夜            隠岐灌木
和蝋燭真っ赤に染まる菜種梅雨        ミサゴン
朧夜や逆さに読ます赤看板           西方来人
冬薔薇赤きを保ち雨の道            橋本幹夫
肌縮む寒の戻りに枝垂れ咲く         坂本 廣
チュウリップさらに真っ赤な雨上がり     西方来人
赤提灯の父親泣くなり穀雨の夜       橋本幹夫
余寒なほ赤い帽子の六地蔵         ひろ子
陽炎や年月経たる赤い糸           西方来人
ポケットに赤鉛筆や卒業す           海音
花桃の赤が溶けだす朧かな          西方来人
赤の色濃すぎるかしら春ショール       ミサゴン
赤心といふは詩語なり夕桜           秋吾
赤提灯微動だにせずぶらんこ揺れ      高楊枝
赤穂義士寺は泉岳涅槃西風          橋本幹夫
春雨に赤き煉瓦のさらに濃し          橋本幹夫
姫林檎かじりて酸っぱし恋心         土下信人
石仏の赤い帽子に雀おり            篠塚英子
それとなく頬赤らめて雛の酒          高橋三歩
はなのさくまえのほのいろあかめもち    東雲乃鯊
茜空 色競い合う 山つつじ            田中善朗
時鳥赤の他人の巣に啼けり           橋本幹夫
赤坂の仮装マラソン春嵐            さわこ
赤札の財布空つぽ涅槃西風          遊起
赤椿てっぺんまでも咲きにけり         ひとり
夕凪の瀬戸は真つ赤に染まりけり      橋本幹夫
春惜しむ赤き剃傷顎につけ          新井大介
 春の蚊を叩き潰して真つ赤な血         ハジメ
うさぎの目赤きを背ナに卒業す          華子
真赤な嘘ついて貰ひし春の風邪         中村光声
赤星に向かって声を録音する彼岸         重箱

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