‘喜代子の折々’ カテゴリーのアーカイブ

柿の葉寿司

2010年5月14日 金曜日

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この頃の柿の葉は一日ごとに大きくなる。てらてらと5月の光に薄緑の葉を茂らせて、今、いちばん生命力を感じさせる樹木である。その柿の葉を使って、毎年一回は柿の葉寿司なるものを作る。柿の葉は腐敗を防ぐ成分があるのだ。昔の人はそれを知って柿の葉寿司を作り始めたのだろう。

吉野で作られている柿の葉はもっと大きな葉になってから使われるのだが、私のは若葉のころの小さい葉である。ただ寿司飯と鯖やサーモンの酢に均したものを柿の葉に乗せて二つ折りにするだけである。そうして箱に詰めて、重しをしておくだけだから、いとも簡単である。写真の柿の葉寿司は出来たてで、葉が寿司飯になじんでいない。開いてみれば一口に入る大きさである。

この柿の葉寿司を教えてもらったのは、20年位前の連句を捲いていた頃。関口芭蕉庵で東明雅先生を中心に座が持たれていたが、皆さん風雅な食べ物を持っていらっしゃった。その中に、この柿の葉寿司があった。

『里』五月号

2010年5月14日 金曜日

到着したばかりの「里」を読んでいたら、「吾亦庵記録」にーー俳人協会の姿勢が理解できないといふことについてーーと題して島田牙城氏の意見の書いてあるページに出会った。極めて簡単に言ってしまえば俳人協会の入会資格が結社の主宰推薦しかないと言うこと。だから「里」にも来ないということ。

このことを俳人は案外知らないのではないかと思う。だから、「ににん」には推薦枠が来ないのだと言うと、一様に意外だという表情をしていとも簡単に「言ってあげるよ」と一度ならず協会に口添えをして下さった方がいる。

そのたびに、棚山氏から「同人誌」って年鑑に書いてあるので推薦枠はあげられない」という丁寧なお電話を頂く。実は今年もまた頂いたのである。なんだか、私が働きかけていたみたいだが、私はもうとっくに諦めているのである。しかし、昨年陳情して下さった方がどうなっているのか結果を問い合わせたのだろう。それで、今年は協会推薦を促してくださった方に「どうぞご放念ください」という文書まで送った。

俳人協会入会資格の人選っていうものがほんとうに正しくできるのか言えば、主宰の質を掌握出来ないかぎり不可能である。だから、きわめて曖昧な基準なのである。入会資格を、これ以上曖昧にしないために、ということで現在の入会要項があるのだろうか。本来、俳人協会の設立目的は俳人の保険加入を確保するためだったと聞いている。

ネパールの写真

2010年5月12日 水曜日

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写真はネパールの街中らしい。実は毎日新聞の「俳句あるふあ」から三十代の俳人を紹介してということだった。「ににん」に三十代は三人いるのだが、より若い人ということでシノミヤさんを紹介しておいた。その原稿締め切りが今日なのである。

実はこの原稿の締め切りが迫っている10日ほど前に「連休にネパールに行ってきます」と言われて、すぐにはエベレストまでに想像出来なかったが、それを見越したように「エベレストに登ってきます」、と言われた。そんな話を一度も聞いたことがなかったが、それでもエベレストならそれ相応の準備もあるだろうに。

「原稿は帰って来てから出します」ということで、ちょっと心配していたが、無事に予定通り帰宅したらしく、メールに何枚かのネパールの写真が添付されていた。あちらはストライキに遭遇して、麓から駅まで一日かけて歩いたという。なんと凄いこと、と思うのだがさわやかなメールだった。やれやれ。

俳人協会埼玉支部大会

2010年5月5日 水曜日

2010年の埼玉支部の俳句大会.会場は武蔵嵐山にある「国立女性会館」である。この建物は鎌倉武士の史跡畑山重忠館跡の地続きで、新緑に囲まれた広大な土地に研修棟、ホール、宿泊棟などが点在している。他に茶室などもあるので、研修会には是非おすすめしたい。国立などというと、野暮ったいビジネスホテル以下におもいがちだが、そんなことはない。今の季節はどの部屋からも新緑が見えて、山中にいるような感じである。

大会の準備は、それぞれのお仕事柄を生かしたハイテク機能で準備されてきて、一メートル以上あるボードに貼る採点表が拡大コピーしたものであることにもびっくり。一応わたしは今年度の実行委員長だったのだが、見物人の一人のような感覚であれよあれよという間に会は進んで、予定通りの時間に終わった。

大会会場で落合水尾さんが薄羽白蝶を見てきた話をなさった。カメラマンがたくさん集まっていて、二日間しか見られないと言っていたという。懇親会の席で、二日間しか見られないのは何故かという話題になった。

① 他に移動する
② 羽化したばかりの姿とは違ってくる。
③ 生殖機能を果たせば死んでしまう。  などなど。

しかし、帰ってきてから調べてみると、どうも二日で死んでしまうというほど短命ではない。②があるいは理由になるかもしれないと思ったがそれも違う。ウスバシロチョウは蝶の中でも氷河期から生息していることで有名らしい。そんな珍しい蝶なら是非見たかったが、係として場を離れるわけにはいかなかった。高山の低温地域に住んでいて、「生きた化石」と呼ばれている珍しい蝶だったのだ。

 名前の通り翅が白く、翅の向こう側が透けて見えるほど薄い優雅な雰囲気を持つ蝶で、「春の女神」をギフチョウと呼び、薄羽白蝶は「春の妖精」と呼ばれているという。もともと、畑山重忠の館跡にはオオムラサキの森がある。蝶の生息に適した環境があるのだろう。来年はゆっくり見に行きたい。

国立女性会館は仕分けによってかなり減額されるらしい。しかし、国に一つしかない施設である。この施設の縮小は縮小にとどまらない。この広大な土地の中の配置があるからすばらしいのであって、これが縮小されてしまったら、街の中の福祉センターなどと変わらない景観になりそうだ。会館は今年の十一月頃から改装をすることになっているが、きっと縮小のための工事なのだろう。

仕分け事業の会議が一時間のうちに三箇所も行われるのは乱暴だと、会館の館長がコメントしているが、同感である。縮小にお金をかけるよりも、建物を生かすべきである。

氷柱

2010年3月18日 木曜日

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手にとどく大内宿の軒氷柱

なにしろ見事な氷柱だった。もぎ取ると全長が子供の背丈くらいあって、まさしく槍として刀として振り回せるような大きさだ。酷寒ということばを証明するような長い氷柱に囲まれた家は大変だなー、とその生活を思いやってしまった。しかし、お菓子屋さんに入ると大きな囲炉裏に炭が熾きていて、店だから出口は開いているのに、店の中はほっとする暖かさが漲っていた。

宿場のポストに入れると、大内宿のスタンプが押されるというので、みんなハガキを買って自分に友達に、筆を走らせた。わたしは、自分に俳句を書いた。孫たちは友達に出しているみたいだった。このふたりの孫が、『ふたりの女の子』のモデル。

思いついて、春休みにはいった娘一家と出かけた会津。郡山で娘一家の車に乗り込んだが、どこもかしこもまだまだ雪がいっぱいで、ぬきんでている会津磐梯山も真っ白だった。夕食までにはまだ間のある夕がたの温泉にひたり、そのあと指圧にかかった。中年の男性の力加減もつぼの押え方もなかなかだった。

終わると、「息子さんがさきに部屋に帰っていますから」と、言っていました」という伝言だった。内心えー息子さん?と思ったが、あー娘の連れ合いも指圧に掛かっていたのだなー、と察した。夕食のときに、なかなか上手い指圧師だったことで意見が合った。

写真の氷柱は、翌朝、宿から車で40分くらいでいける大内宿のもの。山間の宿場はそこだけに人が固まって棲みついている土地である。たぶんそこへ宿泊する旅人は宿を囲むどこかの山を越えながら、ひたすら大内宿を目指して歩いてきたのだろう。どこを向いても高い山が聳えていた。その山々の落ち合う谷底のような土地に宿場はある。

購読者

2010年3月15日 月曜日

ににん」も今年は9年目。来年の一月の発行される41号は記念号を企画している。その「ににん」の購読を1号から続けてくれている人たちが20人くらいいる。全体では80人くらいの購読者がいるが、10年近くも淡々と購読料を送ってきてくれる人がいるなんて、当初は想像できなかった。

そのひとりの金井さんが亡くなった。葬儀には行かれないのでお通夜に参列した。たしか金井さんは証券会社にお勤めだったと聞いていたが、参列者のひと群れの人たちが、職場のお仲間だった人らしかった。もちろん、相当なお年の人たちばかり。

「金井君はさー、俳句とか文章と書いたりしていたみたいだよ」なんて話し合っているのが聞こえてきた。明日の葬儀には、そのお仲間だった荻窪教室の人たちが見えるのでないかと思いながら帰ってきた。俳句の縁というのも不思議だ。会うこともなく10年ちかくの月日が経ってしまっている。

再々会

2010年3月12日 金曜日

件の会がいつもの人数の5割増くらいの混みようだった。なにしろ会員の黒田杏子氏の桂信子賞受賞をはじめとする細谷氏・榎本氏などの受賞祝賀会をかねているからである。挨拶が続いて草臥れてきたので後ろを振り返ると椅子が空いていた。

そこで久しぶりにM氏に出会った。黒田杏子さんのお祝いに駆け付けたのだろうか。M氏と知り合ったのは20年位前である。だから当時の彼は40代だったはずである。そのころから文筆業だったから、夜型だったのだろう。歌仙の開始が1時ごろだったがいつも遅れ気味で眠そうな顔をしていた。

連句の会を中止してしまってからは音信不通だったが、あるとき俳句年鑑にM氏の名前があって吃驚してしまった。「藍生」の年間賞を貰っていたのだ。意外だったのは彼が俳句にそんなに真面目に取り組むとは思っていなかったからである。

丁度「ににん」を起こすころだった。それから5年ほど「ににん」に参加していたが何故か5周年を前に退会してしまった。同時に「藍生」も退いていたようだ。俳句にたいする無欲さは、言いかえれば俳句の世界への諦念とわたしは判断している。

彼は、正津さんが碧悟桐を書いているけど僕が書きたい俳人だと言った。M氏と正津さんの差は水と火のような両極にある。それは文体にまでおよぶ。淡々と淀みない文章は熟知の上の熟知が書かせる余裕の文章である。こうした人が俳壇の外側にいるのが惜しいと思う。

3月10日

2010年3月10日 水曜日

今朝の毎日新聞の文化欄は古井由吉のエッセイ。東京大空襲に遭遇したことである。私はこの戦争について空襲についての記憶がかなり曖昧で甘い。古井由吉とほぼ同年齢にもかかわらず戦争が霞みにかかった絵空事のように遠い。古井由吉はその空襲の火を郊外で眺めていたが、その後の5月24日に焼け出されていたという。きっと天袋に収まったいた雛人形はそのまま和紙で顔を覆われたまま火に炙られたのではなかったかと書いている。

私が戦争についての記憶が甘いのは、ひとつはわずかな学年の相違で、歴代天皇の名前の暗記やら、教育勅語の暗記をする場から疎外されていたからである。言ってみれば戦争は物心がついたときから始まっていて、日常的なことの中に組み込まれていた。その後、東京に戻ってきた。あたりは焼け野原だったのだが、それは残骸が残っているという場面ではなく、土地は均されて、そこに無数のガラスの塊が日にきらめいていた。

それは、結婚後の土地で葱畑などに、土器の破片が浮き出ていたのを拾い集めたように、幼かった私はガラスの破片を嬉々として拾い集めて遊んでいた。その破片のひとつが、そこに住んでいた家族たちの思い出の花瓶だったり、日常の調味料の瓶だったり、ということを考えたのは、ずいぶん経ってからだった。この戦争体験の甘さは、その後の私の生き方に影響しているのかもしれない。

もしかしたら、何もかもぼんやりとした中で見つめて来たかも知れないなーと、しきりに思うこのごろなのである。たぶん、私の脳が現実のものを受け入れるのにかなりな時間を必要とするように仕組まれていたのではないかと。そういえば、小学生になる前のわたしは、片目が見えなくなっていた。親は「雲眼」というような名前を言っていたように思うが、調べてみてもその症状に匹敵する正式な名前は わからない。ようするに、瞳に何かが出来て視力を失っていたのである。

秩父の「野上の眼医者」とは戦前には全国的に知れ渡っていた名医らしかった。当時、その周辺にはその眼科に通うために旅館が繁盛したとかいう話も聞いた。その眼科に通うために母の実家に暮らしていたことがある。毎日牛乳を飲まされ雀の黒焼きを食べさせられていた。どちらにしても、この、鈍感さは生きてゆくことを支えてくれていると、この頃は思うのである。

締め切りを課す

2010年3月8日 月曜日

 綿屋の坂の途中の、ブリキ屋、正確にはなんと呼ぶのか。そこがいつからか経師屋に替わった。特別に看板が出ているわけでもなかったが、ガラス越しに表紙を剥がした襖が立てかけてあるのを見たり、店から襖を車に積んでいるのをみたからだ。 経師屋とは、屏風や掛軸などの表装する職人だが、なんだか時代劇がかった呼び名である。経師とはその文字面から、経を書き写すことを業とした人も含まれているらしい。表具屋というほうが新しいかも。

 ブリキ屋から表具屋に替わった時から、「うちももう張り替えなくては、と思いながら過ごしていた。だが、億劫だったのは、そのためにしばらく家の中が落ち着かなくなることと、押入れが全開になることだった。しかし、先日連れ合いの退院日に迫られて部屋の整理をしたように、頼んでしまえば何とかなるものだと結論つけた。 

「襖」と一文字だけ書かれたガラス戸を明けても人気はなかったが灯りがあったので声をかけた。経師屋とか表具師などという呼び名はずいぶん古めかしい印象を持つが、その作業場も時代物映画の中でのセットときっと変わったところはないだろう。

真ん中に据えた作業台の向こうから現れた主は、案外若いのかもしれない。あるいは団塊の世代かな、とも感じられた。何枚っていうから、「えーと、天袋も二枚になるのかしら」と尋ねるとそうだという。そうすると一間の押し入れは四枚になるなと計算して、半間の押し入れも観音開きは四枚になってしまうのも知った。

そんなふうに数えていると、そんなにあるなら値引きもしますよ、と主が言った。
「あと部屋の間仕切りは両面ね」と念を押してから四枚の両面と片面は壁紙の戸が四枚だと言った。
「それじゃ、一日じゃー貼れないないなー、それに乾かす日も見なければならないから、寒くて困る部屋を先にやりますよ。なにしろ、完全に乾かないの入れてしまってからストーブなどを焚くと剥がれ易くなるからね」
「いいですよ、何日かかっても、」

我が家は個室が少ない。冷暖房もリビングの左右の部屋の戸が開けてあるような状態で住んでいる。だから、無くても一向に困らない。まして襖の多い和室は平素は使っていない。
「取りにいくのは2,3日過ぎてからだけど」
「その位あとのほうがいいわ、まだ受け入れ態勢が出来ていいないから」
そうそう、出来ていたらもうとっくに頼みに来ているんだから、と、胸の中で呟きながら帰ってきた。

やはり新しいはいい。その明るさに何度も眺めまわした。思い出したのは、二宮にある石鼎旧居だ。そこの中心の部屋の襖には石鼎が書いた雁の絵が貼ってある。コウ子夫人が、石鼎の絵の散逸を惜しんで使用したものだ。あれから、何十年と経っている。今でもあのままだろうか。少なくとも私が最後に訪れた平成2年あたりまでは雁の絵だった。

賜り物

2010年2月26日 金曜日

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     飛び翔ちてみな緑鳩となりゐたり

     一生のどのあたりなる桜かな

吟行をご一緒している句仲間の三浦郁さんが、私の作品を色紙にと言いたいがハガキに書いてくださったもの。しかし、拡大しても十分見応えがある文字だ。あまりに素敵なのでご披露することにした。 もちろんご一緒した吟行のなかで得た句なので、覚えていてくださったのだろう。一句目は大礒の海岸に水を飲みにくる緑鳩を見に行った時のもの。

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