2008年12月 のアーカイブ

俳句αあるふぁ2009年4、5月号

2008年12月7日 日曜日

2,3日前の夕方、受話器を取ったら「俳句αあるふぁ」の石寒太さんからだった。
「石寒太です」という声は聞き覚えのあるものだった。「お元気ですか。風邪などひきませんでしたか」というのもいつもの口調だった。

何かと思ったら、グラビアの「俳句の生まれる現場」への依頼だ。そうして今日、以前のページのコピーと今までの吟行場所のリストが送られてきた。私が近くなら平林寺しか思いつかないけど、と伝えておいたが、まだそこは未踏の地だった。

他人事として読んでいるときには、たいして把握しないものである。この企画の一番新しいのは、2008年10・11月号で鹿火屋の原和子主宰だったので覚えていたが、風景の中に収まればいいのだと思っていた。ところが、コピーを見ると、結構写真というより、活字の部分が多い。全部で六頁です、と寒太さんは言っていたっけ。

歩きながら、句を作ったり句について語ったり、略歴を語ったり。「ヒヤー、その語るところなんて、原主宰のページにあったの」というほど覚えていない。日程もこちらの空いている日を伝えておいたから、「1月8日はいかがでしょう」と書き添えられていた。

風邪の神やっと退散

2008年12月6日 土曜日

月曜日句会のあと「ににん」の校正。そのあと飯田橋の八車に遅くまでいたのが祟ったらしい。その夜から鼻水が出初めて、翌日はそれを抑えるための薬を飲みながらのカルチャー教室。

このあたりまでは、鼻水だけで、薬を飲むと止まっていたので、軽く考えていたが、夕方から喉も痛くなって、完全に体の中に風邪の菌が入ってしまったのかもしれない。その後の3日間は用事がなかったが、その間中、体が熱っぽくてごろごろしているしかなかった。

夕方やっと熱が取れたような感じがしたら、なんだか体を取り巻いていた鎖が外されたような、身の軽さを取り戻した。やっと風邪の神が退散してくれたらしい。

山陰の寺本喜徳氏が原石鼎の吉野以前についての冊子を送ってくださった。寺本氏は石鼎の吉野以前についての探求をずっと行なっている。おかげで、大いに役立たせてもらっている。

今回の冊子で寺本氏が句集『花影』の年譜のことで、気が付かなかったことを指摘している。それは年譜の長さである。昭和12年に上梓した『花影』の年譜は大正2年までに、年譜の半分近い頁数を費やしているという指摘である。寺本氏は、年譜の半分の頁を使っている大正2年までが、俳句の基礎を作っていると主張しているだ。

わたしはそのあたりのことを、初めて活字になった「七草に入りたきさまの野菊かな」から「頂上や殊に野菊の吹かれをり」までの期間が石鼎の文学素養の基礎だったことは書いたが、物理的な年譜の頁数にまでは及ばなかった。

JTの2009年度のカレンダー

2008年12月5日 金曜日

karenda.jpg

 たばこ産業の来年度のカレンダーは毎月美しい自然の風景である。その風景に添える一句が書き込まれている。七月は私の一句「緑蔭を大きな部屋として使ふ」が採用されている。新潟県十日町市、大巌寺高原で撮ったもの。たぶん橅林だとおもう。 

このカレンダー、作品の使用依頼がきたわりにはカレンダーが送られてこない。親戚にJTのOBが居るので頼んだらやっと手に入れることが出来た。 

写真撮影:上杉満生/俳句監修:鷹羽狩行

『友岡子郷俳句集成』・沖積者 2008年11月刊

2008年12月3日 水曜日

「遠方」「日の径」「未草」「春隣」「風日」「翌」「葉風夕風」「雲の賦」
八句集の前後に初期作品と句集以後が前後に収録してあって、まさに俳句集成である。1934生れ。
   
   跳箱の突き手一瞬冬が来る

句集であらためて、上記の句が友岡子郷の句であることを認識した。今、読んでも新鮮である。何度出会っても新鮮に感じる句が作れたら、俳句を作った甲裴がある。この光の明るさが、作品全体に漲っているのが友岡子郷の特徴。それは最後まで変わらない。

   鶏頭を抜けば濤音ばかりかな    「未草」
   冬耕に鯉のとぶ音つづけざま
   笹鳴は袂に溜まるごとくなり
            
   石室に海より青き蜥蜴這ふ      「雲の賦」 
   かの軍船の影めく黒揚羽蝶
   ひとりゆく冬至南瓜一つ提げ
   赤蕪を切なきまでに荒ひをり  

『長谷川櫂全句集』 花神社   2008年11月刊

2008年12月3日 水曜日

『古志』『天球』『果実』『蓬莱』『虚空』『松島』『初雁』
七句集をひとつに収録したもの。

実をいうとこの俳人の句を句集として読んだことがないのである。全句集を開いて七句集も上梓していたのだというほどの疎い認識しかない。1954年生ということは、現在50代半ばである。

だが、第一句集『古志』の一頁目には次の句が並んでいた。句集を読んだことがないにも関らず端から見覚えの句ばかりである。

      折りて来し椿とりだす麻袋
   春の水とは濡れてゐるみづのこと
   かげろひ易きやう石組まれけり
   春の月大輪にして一重なる
   花過ぎの朝のみづうみ見にゆかん
   葉桜や水揺れてゐる洗面器
   からからと雨戸を廻す杜若
   噴水の頂の水落ちてこず

たぶん繰り返し作品が誌上に載って目に触れたことで知らない間にインプットしてしまったのだと思う。それほど櫂の句集が世間に鮮烈に迎え入れられた、ということなのだろう。今読んでもこの第一句集はいい句集だ。
第二句集目はどうだろうか。

   春の水皺苦茶にして渉りけり
   花びらやいまはの息のあるごとし
   筍の貂のごとくに濡れてをり
   冬深し柱の中の濤の音
   いつぽんの冬木に待たれゐると思へ

二句集目は全句集の中ではことに、感性が俳句を作らしめている。自分の深いところから出た呼吸には屈折があって、それがむしろ心に訴えてくる。

無作為に開いた頁は第5句集「虚空」201ページ。

   水にさす影切り分けて水羊羹
   よこがをのいつしか乙女花柚かな
   いつしかに乙女の立ち居花柚かな
   夏蝶によき太き枝あり夏木立
   夏蝶の舞ひ降りてくる深空かな
   音立ててこの世揺れをり氷水
   大地ごと揺れゐる家に昼寝かな
   生き死にを徘徊の種籠枕
   風鈴や天駆け廻りくる風に

以後の句集は、どこをきりとっても背筋正しい呼吸が聞えてくる句が並ぶ。その韻律にのせる作業が俳句を成している。たしかに俳句は575の組み合わせになることであるかのような錯覚でみんなが関っている。17文字に纏めれば俳句となる。その罠に陥った俳人たちのひとりが櫂氏だともいえる。句集を追うごとにその思いは強くなる。この表現なら誰もが作っている。どこにもありそう。まるで、どこかの結社の雑詠蘭のようである。よく整えられた箱庭の風景となる。

初校完了

2008年12月2日 火曜日

「ににん」は経費節約の為に初校は、私自身のパソコンで仕上げる。もちろん執筆者には、フアックスで送り、送り返された原稿を何度でも訂正する。完全な原稿にしたいからである。、この作業も結構時間を費やす。延べにしたら四日くらい費やすだろうか。ここで三万円くらいの節約になるので、「ににん」の印刷費はどこと比較しても割安である。

こうして出来上がった初校を毎号句会の後の2,3時間でこなす。ここだけは、やはりたくさんの目を通さなければならないからである。唯一自分一人では出来ない部分である。このときに、事前に会員が分担して目を通してもらっておくのが望ましい。何たって2時間余で校正しなければならないからである。

そうして、家に帰って再びパソコンの中の原稿の訂正で、初校は完成する。大概は出来上がる嬉しさで、その夜は徹夜になってしまう。

いつか、パーテイでお隣が印刷屋さんだったことがある。「ににん」の手順を聞いて、そこまでやってくれば楽ですよ、と言っていた。事実、同じ印刷屋さんを使っている友人が、きちんとやってくれてやり易い、と言っていたわよ、と伝えてくれた。

はじめて印刷屋から送られてきた版下は、「ににん」にとっては既に再校なのだ。再校はたいがい私一人で見ている。このゲラを印刷屋さんに送り返せば、あとは、雑誌になるのを待つだけ。

ゲラを送ったあとに、発送の準備。封筒に宛名とメール便のラベルを貼って、出来上がりを待つのである。こつこつと暇にまかせて作業しているので、一週間くらいは、その部屋を袋やノリが占領している。手伝うからと言ってくれる会員もいるのだが、そうすると、また日取り調整が難しくなる。早めに用意しているのだから、何日かかってもいいのである。

こんなくりかえしも8年目にはいった。 しかし、かなりな時間を費やすので、体力が無くなったら、雑誌の発行は無理かもしれない。

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