『古志』『天球』『果実』『蓬莱』『虚空』『松島』『初雁』
七句集をひとつに収録したもの。
実をいうとこの俳人の句を句集として読んだことがないのである。全句集を開いて七句集も上梓していたのだというほどの疎い認識しかない。1954年生ということは、現在50代半ばである。
だが、第一句集『古志』の一頁目には次の句が並んでいた。句集を読んだことがないにも関らず端から見覚えの句ばかりである。
折りて来し椿とりだす麻袋
春の水とは濡れてゐるみづのこと
かげろひ易きやう石組まれけり
春の月大輪にして一重なる
花過ぎの朝のみづうみ見にゆかん
葉桜や水揺れてゐる洗面器
からからと雨戸を廻す杜若
噴水の頂の水落ちてこず
たぶん繰り返し作品が誌上に載って目に触れたことで知らない間にインプットしてしまったのだと思う。それほど櫂の句集が世間に鮮烈に迎え入れられた、ということなのだろう。今読んでもこの第一句集はいい句集だ。
第二句集目はどうだろうか。
春の水皺苦茶にして渉りけり
花びらやいまはの息のあるごとし
筍の貂のごとくに濡れてをり
冬深し柱の中の濤の音
いつぽんの冬木に待たれゐると思へ
二句集目は全句集の中ではことに、感性が俳句を作らしめている。自分の深いところから出た呼吸には屈折があって、それがむしろ心に訴えてくる。
無作為に開いた頁は第5句集「虚空」201ページ。
水にさす影切り分けて水羊羹
よこがをのいつしか乙女花柚かな
いつしかに乙女の立ち居花柚かな
夏蝶によき太き枝あり夏木立
夏蝶の舞ひ降りてくる深空かな
音立ててこの世揺れをり氷水
大地ごと揺れゐる家に昼寝かな
生き死にを徘徊の種籠枕
風鈴や天駆け廻りくる風に
以後の句集は、どこをきりとっても背筋正しい呼吸が聞えてくる句が並ぶ。その韻律にのせる作業が俳句を成している。たしかに俳句は575の組み合わせになることであるかのような錯覚でみんなが関っている。17文字に纏めれば俳句となる。その罠に陥った俳人たちのひとりが櫂氏だともいえる。句集を追うごとにその思いは強くなる。この表現なら誰もが作っている。どこにもありそう。まるで、どこかの結社の雑詠蘭のようである。よく整えられた箱庭の風景となる。