2008年11月 のアーカイブ

鴨がやってきた!

2008年11月10日 月曜日

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黒目川に鴨がやってきた。鴨は地味な鳥なので、訪れてもあまり目立たない。それでも、鴨がいるだけで、川がほっとしたような、やすらかな表情に見えるのは気のせいだろうか。もう少し寒さがしまると百合鷗もやってくる。その鳥が来ると、遠くからでも一目でそれとわかる白さが、川を華やかにする。子供達がパン屑を撒いて呼び寄せる。

雁と違って、鴨の存在感ってほんとうにないみたい。その証拠に小説の中にも登場しない。せいぜい鴨鍋になるくらいに扱われ方である。捜していたら、『アヒルと鴨のコインロッカー』という題名の小説があるらしいが、読んだことはない。

            鴨啼くや嘴くらくあげ日の真下    原 石鼎

『俳句四季』九月号掲載 i岩淵喜代子発表句16句より

2008年11月9日 日曜日

鑑賞・横松 しげる     (『遠嶺』12月号主宰・小澤克己   

  麨のはるかな味に咽にけり       
  
 麨は関西でははったい粉、関東では麦こがしと言う。江戸時代から旅の携行食として利用された馴染みのあるもので、ある年代以上の人にとっては懐かしさと共にある感慨を催す食べ物だが、今の了供たちにとって〈麨〉はどんな
味なのだろうか。 掲出、本当に久しよりに口にした〈麨〉の味に、懐かしさが甦って思わず咽せてしまったという気持ちが〈くはるかな味〉に籠められている。むかし、母が作ってくれたはったい粉を口に含むと心許ない薄い甘さが広がり、何か切ない感じがした覚えが作者にもあったのだろうと椎察した。筆者には〈麨〉ではなく「麥こがし」だったが、掲句を読んであの時代の一駒を懐かしく思い出した。
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鑑賞・平田雄公子          (『松の花』 主宰・松尾 隆信 )

    緑蔭といふ何もなきところかな   

「緑蔭といふ」満ち足りた、安息空間、其処に有るもの、無いもの。掲句の「何もなきところ」とは、不意打ちを食らったよう。寓意のような、ご宣託のような、そこは短詩型の申し子というべき、句。

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鑑賞・吉田千嘉子              『たかんな』 主宰・藤木具子

   牧開くとて一本の杭を抜く    

厩出しをした牛馬を牧野に解き放つ牧開き。牧を開くために、杭一本抜くのであるという。大きな扉があるわけではない。毎年大山桜を見に行く、岩手県北の七時雨山の裾野にある牧場もこうであった。杭一本抜くだけで別の世界が開かれる。今の世の中に、こんなに単純でおおどかな開放があることが嬉しい。

角川『俳句』九月号、岩淵喜代子の発表16句から

2008年11月8日 土曜日

遠矢 一月号  主宰・檜紀代   「現代俳句月評」   

  夜がきて蝙蝠はみなたのしさう 
 
 普段蝙蝠は洞穴などの暗い場所に棲んでいるらしい。色も黒く往々にして嫌われることが多い。欧米では吸血鬼の子分と見なされて評判が悪い。そんな蝙蝠にも温かな目を注ぐ作者。ひらひらと飛び回る姿を捉えて、楽しそうと表現したことに感動した。確かに蝙蝠にも生きる喜びがあるに違いない。 (鑑賞・福田貴志)

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『琅玕』12月号 主宰・手塚美佐     「 現代俳句月評」  

  初夏や虹色放つ貝釦

入梅前の暑くも寒くもない季節。自然は新緑に彩られ、人々は衣替えをする時期でもある。糊の利いたシャツブラウスの釦を一つずつ掛けると、虹色の光が返ってくる。ネックの釦一つをはずし、瑞々しい若葉の風と共に若さを謳歌する。「初夏」の響きもよく、さわたかな気分で鑑賞させていただいた。(鑑賞・伊藤てい子)

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『俳句』11月号  合評鼎談
岩淵喜代子    『箱庭 』

宮坂  この人の作品はこれまで集中的に読んだことがなかったのですが、今回の、
 
    箱庭と空を同じくしてゐたり

この人の作品はこれまで集中的に読んだことがなかったのですが、今回の、  うまいことを言う人だなあ。この句は感心しましたね。箱庭と空を一つにしているなんて、今まで誰も言わなかった。巧まざるうまさだね。
山下  私もその句と、

  噴水を寄る辺にみんな人を待つ
  盆踊り人に生まれて手をたたく
 
中七と下五でかなり叙述的な表現の仕方を取っておられます。ゆるやかな、力みのない表現ですが、人という存在への温かくて深い眼差を感じました。単なる技術的なうまさではなく、深いものをもった上での巧みな表現をなさっているなと思いました。
村上  もともと詩を書く人ですので、詩的な発想があるのでしょう。俳句はそれも加えて大変うまいですね。
 
  鳥は鳥同士で群るる白夜かな

に○を付けています。
宮坂  それもうまいし、

  夜がきて蝙蝠はみな楽しさう

 この童画も面白い。人の世を超えている。

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麻』11月号 主宰嶋田麻紀 
 
  化けるなら泰山本の花の中   
 
 泰山木は初夏にまっしろで香り高い大きな花を咲かせる。アメリカ原産でモクレソ科の常緑樹、十メートル程になる高木で、硬くて大きな葉が茂った下はすばらしい木蔭。幼稚園時代の私は泰山木の下のお砂揚に居る為にだけ幼稚園に行っていたようなものだった。泰山木の葉はお皿、花びらはお茶碗、土筆のような花芯はスプーンに見立てて、飽きもせずひとり遊びを続けていた。多分、私も化けて出るなら勝手知ったる泰山木の花の中にすると思うのだ。そして芳香に包まれながら高いところから娑婆にいる人たちをただぽかーんと眺めているのではないかな。 (鑑賞・田中幸雪)   
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『ランブル』11月号  主宰上田日差子

 半夏生メトロの駅に風吹いて

〈半夏生〉は七二侯の十一日目にあたる。梅雨の最中であるので〈半夏雨〉といって大雨となり出水など災いを起すことも多い。
 今や、地下鉄の地中深く縦横に走る路線図を見ると、よくもこんなに掘ったものだと驚嘆と同時に、ある種の恐れのようなものを感じてしまう。地下のホームに降りる長いエスカレーターは、まるで奈落へ落ちんばかりである。梅雨どきの湿り気のある風は容赦なく髪を嬲り、自然の風でないこの人工的な強風にまたおののくのである。(鑑賞・今野好江)

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『椎』11月号  主宰・九鬼あきゑ

  初夏や虹色放つ貝釦     

このごろでは、天然の貝殻を加工したボタンを見かけることは好くなくなったように思うが、真珠の輝きを放つ貝釦の美さはいつ見ても魅了される。作者はその光沢を「虹色放つ」と表現し、光の加減で様々の色を発する貝殻の美しさを詠んでいる。七色の輝きの貝釦を手にした時のときめきは、来る夏への心の昂ぶりや初夏の爽やかな日差しと呼応している。(越川 都)
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『築港』 11月号   主宰・塩川雄三

 化けるなら泰山木の花の中     

泰山木の花は人の手の届かない高い高いところに咲く。こぶしや木や朴の花に似ているが花が大柄だ。花径15~20センチはある。
花の形を大きな盃に見立てて「大盃木」、それから「泰山木」になったというくらいあだから、泰山木の大きな花の中で変身するのも悪くないだろう。(鑑賞 岩水草渓)
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『百鳥』11月号 主宰・大串彰

   病葉も踏めば音して哲学科  

病葉にも音があるという発見、そして哲学科との取りあわせ。発見と取りあわせの妙という俳句の要諦を備えた作品である。果てもなく世界の根源を探り、ときとして人間の懊悩深きに触れる哲学の道には、病葉が散っている。どのような足取りにせよ、ひとたび入ったら踏み迷う道。(鑑賞・望月 周)         
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『俳句』11月号   「俳句月評」  仲寒蝉    

   病葉も踏めば音して哲学科      
             
 〈病葉〉は病気などに侵されて夏なのに色づき散る葉のこと。周囲が青々としている季節だから奇異に映るけれど病葉が色づいたり散ったする機序は秋の紅葉や冬の落葉と同じ筈だ。だから落ちている葉を踏めば当然音がする訳だがそれを事々しく言ったところに手柄がある。
 〈哲学科〉との付け方が唐突のようでいて中々味わい深い。作者の頭の中には山口青邨の(銀杏散るまつたゞ中に法科あり)があったろう。しかし、この句の下5は「法学部」でなく「哲学科」の方がいい。最近亡くなった池田晶子さんの活躍などもあって哲学が息を吹き返しつつある。病んでいる葉っぱだけでなく人や時代もしかり、だからこそ哲学は必要。そこまで穿った見方をしなくても「音を立てたのは葉か靴か」と考えるのもまた哲学か。

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11月号『氷室』・主宰 金久美智子  

    夜がきて蝙蝠はみな楽しさう   

獣なのに鳥のように飛ぶ蝙蝠は、昼は暗い所に潜み日暮になると活動をはじめる。姿形が気味悪がられて、あまり好意をもたれない気の毒な動物である。この頃はあまり見掛ける事もなくなったが、以前はよく夕方になると低い所を飛んでいたりして、子供達の「こうもりこうもり」と囃す声が聞こえてきたものである。うす暗くなった空に飛んでいる蝙蝠を見つけた作者、人間と交替するようにこれからは自分の世界だとおわんばかりに飛んでいる様子を見て、「みな楽しさう」とは言い得て妙である。(鑑賞 今井 幸
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10月号『曲水』・主宰 渡辺恭子

     夜がきて蝙蝠はみな楽しさう   

場所によってであろうが、最近あまり見かけなくなっている情景である。「みな楽しさう」に、作者の目のあたたかさを感じた。乱舞のさまが見えるようである。
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 10月号『吉野』・主宰 野田禎男

    噴水を寄る辺にみんな人を待つ  

日比谷公園や上野公園の噴水の周りには大勢の人が一年中いるが、それをみんな誰かを待っていると見て取った作者の切っ先は鋭い。
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 10月号『雉』 ・主宰 田島和生

    親鳥に離れて鳰の子の水輪   

生命の力強さと悲しみを、全肯定したような作品。青々と遠くまで拡がってゆく水輪の中心で、きょろきょろと親鳥の姿を探す鳰の子の姿が可憐。教訓的解釈も可能だが鑑賞と違って誰の作品の糧にもならない解釈を偉そうに展開して、大切な紙面を無駄にする度胸が私にはない。 (鑑賞・大前貴之)
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 10月号『若竹』 ・主宰 加古宗也

   盆踊り人に生まれて手をたたく   
   夏浅し片手ではらふ菓子の屑  

一句目、盆踊りとは祖先の魂を慰めるためにある。そんな当り前のこともだんだん薄れていきそうで怖い。「人に生まれて」という措辞は、私たちそれぞれにたくさんの祖先がいて、そして今の自分という肉体があるということを思い出させてくれる。手をたたく、その手さえも自分だけのものじないような。お盆というのはやはり死者の世界と少し繋がっているだろう。
二句目、「夏浅し」という季節が好きだ。「片手で」払うというそのさりがなくも鋭い写生が「夏浅し」の季感をいきいきと、より鮮やかなものにしている。屑を払い、さあ、と立ち上がったその上に広がる初夏の空が眩しい。(鑑賞・田口茉於)    

『時空のクオリア』 ・朝吹英和著   2008年10月ふらんす堂刊

2008年11月8日 土曜日

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著者は1946年東京生まれ。「握手」「俳句スクエア」同人。
一集は、一「音楽と俳句」・二「磯貝碧蹄館の時間」・三「句集・俳句鑑賞」・四「俳句とエッセイ」・五「詩人・森永かず子の世界」の五章で構成されている。一章ずつのタイトルでも分かるように、エッセイ集と表示されているが、かなり本格的な音楽評論であり俳句評論である。

著者は音楽に造詣が深く、ベート-ヴェンを語りながら俳句を語る。また俳句を語りながら、音楽を語る。エクルトール・ベルリオーズの音楽を語りながら、俳句に置き換える箇所は圧巻。著書の表題「時空のクオリア」に要約されているように、詩的な空間を探ろうとする意欲を示して、明快な論評である。

梅田みか

2008年11月7日 金曜日

今日の毎日新聞夕刊、「本の現場」で登場したのが脚本家の梅田みか。梅田晴夫の娘である。さらに言えば、鹿火屋の石鼎の弟子であった梅田玲女の孫ということになる。

梅田玲女の子息とその子が著名人だとは、知っていたが、それ以上のイメージは浮ばなかった。今日の夕刊で、写真ではあるが、しっかり顔を認識した。作品に「年下恋愛」「別れの十二ケ月」「愛人の掟」がある。

知ったからって、なにかの役にたつとも思われないが、なんとなく、石鼎と同じ年の玲女の体温を身近に感じられる出来事である。

木曜日でも

2008年11月6日 木曜日

有楽町駅界隈の居酒屋は満員だった。それを知ってか、事前に予約を入れておいてくれたので、ガード下の店の奥には私たちの人数分のテーブルだけが空いていた。

読売ホールで行なわれたシャンソンリサイタルは島本弘子。初めて聞く名前であった。このごろは、シャンソンなどはあまり流れなくなった。客席を埋めていたのも、ほとんどが、シャンソンの盛んに謳われた時代の人のようだった。その曲が、日本の演歌に位置するものではあっても、当時はその異国情緒に魅かれた。

曲目は、枯葉によせて・枯葉・モンマルトルの丘・アプレトワ等など・そうして、二部ではジルベールベコー集。

飲み屋の席に落ち着くと、サルヴァトール・アダモ  イヴ・モンタン 、日本なら、越路吹雪・岸洋子 ・戸川昌子・芦野宏 ・高英男の名前をみんなが思い出した。その切なさが魅力なのだが、今日の歌には、それが薄かった。 それにしても、木曜日でも、深夜まで、居酒屋の席が空くことがなかった。

欅の紅葉

2008年11月5日 水曜日

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図書館に行くのは散歩もかねている。先日前橋の紅葉の写真を載せたが、このごろの庁舎をとりまく欅紅葉も捨てたものではない。
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市役所の斜向かいのコミニテイセンターでは、菊花展が行なわれていた。この建物の上に見えるのはプラネタリュームの屋根。いちどは見学しようと思いながら、まだ見ていない。
わが町朝霞市では、平日の毎日二時には下校を知らせる放送がある。市民のみんなが見守ってください、ということである。

「そのへんはやはりローカルね」と友人はいう。確かに、都会ではそんな放送の声は喧騒に消されてしまうだろう。ときに、その放送が迷い子ならぬ迷い人のお知らせになる。その迷い人の年齢が75歳などと聞くと、ちょっと悲しくなるのだが。

ついでだから、朝霞ブランドを紹介しておこう。

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