‘受贈著書’ カテゴリーのアーカイブ

髙柳克弘句集『未踏』    2009年6月ふらんす堂刊

2009年6月29日 月曜日

  つまみたる夏蝶トランプの厚さ

帯に抽出されている十句の中でもこの蝶の句は突出した完成度に思える。蝶を手にするときには蝶の羽をつまむ以外に触れる方法はないのである。実体からの蝶の感覚。

  ゆびさきに蝶ゐしことのうすれけり

皮膚感覚で捉えた蝶でも、この蝶には、存在のあやうさが現れている。気がついたら句集には、「蝶」を詠んだ句が多い。そうして蝶の句はどれもいい。無意識のうちにも、何かの拘りを蝶に託しているようだ。それは不思議な存在としての蝶、残像の映像としての蝶・・・。捉え方は多彩だが、あやふさの象徴として、目の前に蝶を引寄せている。

  蝶々とあそぶ只中蝶生る
  蝶ふれしところよりわれくづるるか
  蝶の昼読み了へし本死にゐたり
  路標なき林中蝶の生まれけり
  わがつけし欅の傷や蝶生る
  蟻運ぶ蝶の模様のかけらかな
  てふてふや沼の深さのはかれざる
  くろあげは時計は時の意のままに
  秋蝶やアリスはふつとゐなくなり
  ランボオの肋あらはや蝶生る
  キッチンにもんしろてふが落ちてゐる
  只の石からすあげはが荘厳す

同じ時期に髙柳氏の編集長を務めている「鷹」45周年記念号には、

  夏蝶やたちまち荒るる日の中庭(パティオ)

が主宰選に入っていた。

鈴木榮子第4句集『繭玉』  2009年5月刊   角川書店

2009年6月22日 月曜日

榮子さんとドイツを巡ったときだったか、イタリアを巡ったときだったか、古い建築物に見とれていると、「こんなの珍しくないわ。東京にたくさんあるもの」と言った。そう現在でも、日本橋の三越や、その向かい側にある勧銀などはゴシック建築の片鱗が残っている。

この句集を読みながら、東京っ子という言葉を思い出した。それは、歌舞伎を愛し、母を愛した生活が中心になっているからである。私が見損なった「高野聖」もしっかり観ていた。一集は、そうした日常を掬い上げて、自分史にしている。

   春吉原助六に降る煙管の雨
   東京はわがふる里よ都鳥
   繭玉のひとつひとつが大事なり
   三月十日その後の雛は買はぬなり
   高野聖すすきの道を急ぎけり
   母と子の母逝きひとり目刺焼く
   秋袷母の一生わがために

柴田佐知子『垂直』第四句集   2009年6月 本阿弥書店

2009年6月22日 月曜日

1949年生まれ・「空」創刊・「白桃」同人
人生の深淵をちらりちらりと見せることが、奥行きとなっている。その深淵も写生を基本にしていることで、説得力を持つ。

    秘すことのはじめ手毬を背に廻し
    恐ろしきことも数へて手毬唄
    風船を持ち青空に招かれし
    母よりも箒が高し冬桜
    蟻地獄すべりし跡は蟻が消す
    黙りこむ男のやうな蝸牛
    箱眼鏡覗くこの世に誰もゐぬ

中で一番と言われれば下記の句になる。何でもない風景である。ほんとうは、いつも橋は架かっているのだが、レトリックが利いている。  

    どの橋も夜凉の水に架かりけり 

坪内稔典句集『水のかたまり』  2009年5月刊 ふらんす堂

2009年6月22日 月曜日

  七月の水のかたまりだろうカバ

句集名は上記の句から採られている。この時期、カバを訪ねる旅をしていたのだという。「カバ」と「俳句」がある種の調和というかバランスのようなものを感じてきたから,とあとがきにある。以前から、捻典氏の俳句は「何だか面白い」という印象で捉えていたが、その表現になる軸が今回の一集から感じられる。

    十二月ベンチはすでに鰐である

例えば句集の最初のページにある句。ベンチから鰐へはすぐに連想が繋がる。「梅咲いて庭じゅうに鮫がきている」の兜太の作品よりもはるかに明確に。

    春暁のころがっているねんてん氏
    父と子ところがっている桜雨
    磯巾着になろうか昼をころがって
    天然の男がごろり文旦も
    ころがして仏頭を彫る冬の虹
    ころがって朱欒と猫とあの野郎

ここに稔典氏の俳句思想があるのではないか。まさに「ころがり思想」がある。「父と子ところがっている桜雨」の図など、いい風景である。「取り合わせ」を主張していたような気がするが、それは、

    象がふと横歩きして牡丹雪
    寒晴れの日だった象の尻見てた

今回の句集からは、唐突にも見える取り合わせは見つけられなかった。言うなれば、日常の視点が動物たちへずらしているのだ。動物に視点をずらすことで、非日常に行き易い。

    多分だが磯巾着は義理堅い
    蟻たちにないはずはない耳二つ
    カント氏の窓半開き揚羽来る
    冬晴れて首から歩くキリンたち
    ふきげんというかたまりの冬の犀

とにかく楽しい句集だ、「俳句は楽しくなくては」と坪内稔典氏は言っているだろう。

『未来図』25周年記念号・主宰鍵和田秞子

2009年5月24日 日曜日

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『未来図』五月号は記念号は300ページ余の大冊。表紙はペン画の鬼才オーブリー・ビアズリーの絵を採用している。モノトーンの物語的なベン画が理知的な印象を醸し出している。

記念行事として、「人間探求派の源流から未来へ」のテーマで座談会と内外の執筆者の文章という二重構造で、結社の流れを再認識するもの。座談会は金子兜太氏を囲むかたちで行なわれていた。読み応えのある一冊である。

そうして、もう一つは、結社内の俳句作品・エッセイ作品コンクール。こうした企画ができるのが、結社の厚みというもの。 確かに開いて見れば、俳壇で活躍している作家が勢ぞろいしている。頼もしいかぎりだ。

ところで、余談になるが、鍵和田氏のお名前にいつも苦労していた。禾篇の秞子の文字が出ないからだ。そんな話をどこかの雑談の折に口にしたら、いまは、できるのだという。どこかから取り寄せる、というような言い方をしていたが、まだ理解出来ない。

だが、今日、念のために手書きパットを開いてみたら出てくるではないか。しかし、ハガキソフトの住所録覧にはやはり出てこない。

ふけとしこ句集『インコに肩を」2009年5月刊  本阿弥書店

2009年5月19日 火曜日

1946年岡山生まれ・「船団の会」所属。

著者の後書きにーー思いと言葉と何かとがうまくぶつかり合って、あ!と自分で驚くことができたらーーとある。

   柿買うて人に持たせてよく晴れて

上記の一句はそうした会心の作ではないのだろうか。それは意味から判断するのではなく、ただ上五から中七へ、そして最後のことばに繋げられてゆく語感による。

    淡雪や竹に節あり枝のあり
    明易し小樽に船の名を読んで
    猟期果つ山繭ひとつ転がつて
    えごが花降らす水辺にさつきから

その語感のよろしさは以上の句にも言える。これらには今を伝えるための言葉選びが、着実な写生によってなされている。ことに、一句目の「竹に節あり枝のあり」は粉雪の存在感を見せて、いいなーと感心してしまう。

    笹舟に昼の蛍の匂ひかな
    馬追がゐるから壁に日があたる

一句目の繊細さ。二句目の倒置法的表現。多彩な手法であるが、根底にいつも、作者を感じる。

河野けいこ句集『ランナー』2009年4月 創風社出版 

2009年5月17日 日曜日

1955年生まれ 「街」「船団」所属    帯 今井聖

面白い句集というのでもない。それなら楽しい句集というほうが近い。しかし、それとも違う味を含んだ句集だ。

    二の腕を百合が汚してゆきにけり
    プールより見上げし母のふくらはぎ

一句目は抱えられた百合が二の腕をよごしていったという、ただそれだけのこと。二句目は、プールの中から見える位置が母のふくらはぎだったと言っているだけのこと。きわめて単調な表現にも思えながら、どちらの句も豊かな映像と豊かな空気を感じ取ることが出きる。

   六月の裸といふはたよりなく
   青嵐ゴッホの耳を知つてゐる

この句から、石田波郷の「六月の女すはれる荒筵」の句を思い出す。二句目はゴッホが耳を切ったことを知っていると言っているのか、その切った理由なのか。あるいは、切った耳の行方なのか。「知っている」の措辞が耳の存在を大きくして新鮮。

   図書室に海の匂ひや半夏生
   子育ての途中は月を見てをりぬ
   ひとりでにゆるむ包帯雪の嶺
   火の中へ戻る火の粉や冬の星

林 桂 著『俳句此岸』2009年4月18日 風の花冠文庫

2009年5月5日 火曜日

昭和28年群馬県生れ。「鬣」代表。上毛新聞俳句選者。

2004年から2008年までの評論を一集にしたもの。と言ってもいろいろな雑誌に発表したものではなく、第一章は9冊の句集について鑑賞したもので、「鬣」に毎月連載したもの。

第二章は「俳句界」に連載したもの。例えば、『「痰のつまりし仏」へ』では、池田氏と松田氏の論争について。かなり鮮明に覚えている内容だが、そこへ林氏がさらに踏み込むことで新たな厚みを出している。

書名を「俳句彼岸」としたことについて、「過去に送り込んでゆく現在が、常に未来の彼方に視線をもったものでありたい」と書き記している。この本は文庫本で、持ち歩いて読むのにいい。ふと句集も文庫本になればもっとよく読みこなせると思った。ハードカバー単行本タイプの書物は持ち歩きにくいので、あまり読まないまま本棚に収まってしまう。

自註現代俳句シリーズ続篇14 『神蔵 器集』 俳人協会刊

2009年5月5日 火曜日

昭和2年生れで石川桂郎に師事。

基本的には、作者の自註など要らないと思う。実際読んでみて、もう一度それを確認した。作品は平成二年から始まっているので、作者の後半の作品集。

   新宿に日暮れて父の日と思ふ   

何気なく開いたページだが、計らいのない句。自在に一句を成せる域にある、というように見受けた。

山本千代子句集『帰り花』 2009年4月 角川書店刊

2009年5月5日 火曜日

昭和14年生れ「寒雷」「陸」を経て現在季刊「雲伝」代表

     工場の特大スイッチ竹煮草
     野良犬が花落しゆく夕花野
        弁当が届きぬ冬のタンポポに
        三月の寮をのぞけば船底なり
        栃の実の落ちし動物公園通り

一句目の「特大スイッチ」と「竹煮草」の取り合わせ。二句目の輪郭鮮明な情景。三句目の「弁当」の飛躍。四句目の「三月の」感覚など、多彩な面白さを含んでいる。

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