‘『嘘のやう影のやう』’ カテゴリーのアーカイブ

『俳句四季』七月号転載

2008年7月26日 土曜日

身体意識の結晶 ーーーーーーー 小澤克己

 岩淵喜代子さんには、すでに『朝の椅子』『蛍袋に灯をともす』『硝子の仲間』の三冊の句集がある。加えて『墟のやう影のやう』が四冊目の句集となる。第二句集『蛍袋に灯をともす』で第一回「俳句四季大賞」を受賞し、世に広く知られる実力俳人になった。同人誌「ににん」を創刊した翌年(平成一三年)、二十一世紀が始まったばかりのことだった。
 岩淵さんの句歴はもう三十年以上。かつてのエッセイで「文体は思想」として林田紀音夫を論じていたが、第四句集への道程は将に岩淵さん自身の〈文体は思想〉探りだった。
  
   雨だれのやうにも水魚あたたかし
  眠れねば椿のやうな闇があリ
  鱧食べてゐる父母の居るやうに
  秋の蝉鎧のやうなものを着て
  火のやうに咲く花もあリ迢空忌

直喩〈やうな〉を使った作品。句集名も、

  嘘のやう影のやうなる黒揚羽

 とくやうな〉を二つ使っている。この修辞表現にはみな〈文体は思想〉という意識が強く働いている。逆説的に文体を思想化〉出来ぬ作品は俳句ではないと言えようか。すると、安易に修辞表現に頼る文体も、その思想化からは遠のくことになる。難しい所だが、岩淵さんは敢えてその難点に切り込んでいる。直喩よりも暗喩(隠喩)に文体の複層化が包含されているが、作品の読み、あるいは伝達の拡散性の問題を孕んでいる。実は、句集名となった先句にもそれが内在している。
 つまり、〈嘘のやう〉〈影のやう〉の畳みかけの直喩が実はすでに隠喩化していることに気づく。例えば、『般若波羅蜜多心経』の「諸法空相」、実存主義の「存在と無」、逆上ってギリシア哲学者プラトンの「イデア論」などの存在論の認識に対峙させてもよい。黒揚羽の句は十分その思想の重みに耐えている。
 さらに隠喩が思想化を果たすと、〈詩の身体化〉が始まる。

  白魚を遥かな白馬群るるごと
  海風やエリカの花の黒眼がち
  春眠のどこかに牙を置いてきし
  青鷺は大和の国の瓦いろ
  雫する水着絞れば小鳥ほど

 本句集に高い水準の評価が集まるのは、この〈詩の身体化〉の成功であろう。西東三鬼の「穀象の群を天より見るごとく」に近い成功作の二回目、エリカに黒眼を発見した詩的洞察、自己の詩的変化を〈牙を置いて〉でシンボル化した手柄、〈青鷺〉を〈瓦いろ〉と形象・象徴化させ、五句目は、自己身体がまとっていた水着の別事物(小鳥)への身体化か図られ、成功した表現に結晶化している。見事と言う他はない。当面、現代の俳句はこの傾向を主点に展開されてゆくのであろう。翻って、岩淵さんが長く係っている現代詩の分野では、今どのような〈詩の身体化〉が図られているのだろうか。

  古書店の奥へ枯野のつづくなり
  老いて今冬青空の真下なり
  喪心や夜空の隅の冬木立

 〈現代詩の身体化〉された象徴の作品と解するにはあまりにも淋しい。現代詩は既に三句目のように葬られたのか。いや今なお青春期にあり血を滾らせていると信じたい。
 さて、本句集の到達点にはさらに〈思想の融合した身体化〉が認められる。

  悟リとは杉の直幹石鹸王
  魂となるまで痩せて解夏の僧
  十六夜の柱と共に立ち上がる

 一句目、二句目には叙述性を越えた身体化への直截的な志向がある。さらに成功作は三句目ということになろうか。無上の真言という仏語は、〈思想の融合した身体化〉と同義となる。「心に罫礎なす」も意義深く協働した言葉となって掲出三句と響き合っている。 最後に、岩淵さんの永年のテーマ〈時間〉意識にて成功した句も指摘しておきたい。

  瞬間のうちかさなりて滝落ちる

 後藤夜半、水原秋桜子の名句を想望し、かつ永遠の〈文体の思想〉を俳句に求めつづける作者の身体意識の結晶である。本句集の文運と著者の活躍を祈念し、摺筆とさせて頂く。

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       一句鑑賞      「俳句四季」

小津のやう  筑紫磐井

  もうひとリ子がゐるやうな鵙日和

 昨年一年間、角川書店の「俳句」で大輪靖宏、擢未知子らと毎月の俳句作品を講評する合評鼎談〉を行った。三人の内の二人は毒舌家として知られていたので、かなり容赦ない批判であったと受け取られていた(と人づてに間いている)。
 それはそれとして、その最終回(一三回目に、一年間感銘を受けた句を二〇句ずつ取り上げて,「俳句年鑑」で特別座談会を行った。重なり合うことの少ない三人だが、このとき擢未知子と私がそろって激賞したのは岩淵喜代子の「雫する水着絞れば小鳥ほど」であった。膨大な対象句の中で、作家が重なり合うことはあっても、一句が重なり合うことは滅多にない、希有な例であった。
 この句は、今回の句集にも収録されており、なるほどいい句である。「小鳥ほど」などなまじな作家の言える譬喩ではない。これからみても、岩淵喜代子はうるさい批評家を簡単に黙らせてしまう実力の特ち持ち主だと言うことがよく分かるだろう。
 とはいえ今回取り上げたのは掲出句である。「もうひとり子がゐる」とは不思議な感覚だ。「小鳥ほど」のように、うまさがたちどころに説明できる向とはまた違った岩淵喜代子の世界が現れている。 二人の子が一人になる(例えば事故や病気や戦争で)という感覚は切実だが、もう一人子がいたら、はとても男親では実感できないし、女親でもその説明には困惑するのではないか。
 小津安二郎の映画では、しばしば鎌倉が舞台となり老父と嫁ぎ遅れている娘の淡々とした生活が描かれるが、そんな感覚かもしれないと想像する。この句で動かない季題「鵙日和」は小津映画にふさわしい題だ。「晩春」「麦秋」[秋日和」という作品と並んで小津作品にあってもおかしくない。それもこの句が小津作品に通う点だろう。
    

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太虚に回生する言葉の力   五島高貴

  日陰から影の飛び出す師走かな

 岩淵喜代子さんとは俳句関係の会合で数度お会いしただけである。だからほとんど純粋に俳句作品の印象そのままが岩淵さんその人と言って良い。今回の句集『嘘のやう影のやう』でもその作品一つ一つに立ち現れる句姿は句集全体のイメージを構成すると同時に句集全体のイージを包摂するような懐の深さを持っている。このフラクタルの美しさこそ句集名の出来となった次の一句に舞う黒揚羽のそれである。

  嘘のやう影のやうなる黒揚羽

 例えば高浜虚子の〈山国の蝶を荒しと思はずや〉における山国の蝶に通じるしなやかな強さを特つ黒揚羽である。それは俳句と共にした三〇年という光陰のはかなさであるが、しかし、上五中七の措辞によって再び陰陽を生む万物の元気たる「大言」へ立ち返ることによって取り戻した静謐なる力を秘めた美しさでもある。
 
  大巌をゆらしてゐたる花の影

 原石鼎の〈花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月〉では大巖が花影に質量を与えたが、掲句では「大虚」から溢れる気が「花の影」をして大巌をさえ動かしむる詩の力となったのである。石鼎といえば〈石鼎の貧乏ゆすり野菊晴〉という句も入集している。岩淵さんは石鼎の孫弟子に当たるので当然かもしれないが、吉野の山奥という辺境にあって却って詩神の恩沢をものにした石鼎の底力に通じるものを受け継いでいるようだ。
 〈老いて今冬青空の真下なり〉に覗われる「白き五弁の梨の花」のような美しい諦観も佳いと思うが、私としてはやはり次の句に見られるような陰を陽に転換して止まないダイナミズムの刹那からほとばしる言葉のカに勇気づけられたいものである。      一
  日陰から影の飛び出す師走かな

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夢想の彼方   上田禎子

  冬銀河潜り全席自由席

 この句集を読み進むとき、ときどきはてな? どうして? と立ち止まる。言葉の難解さにではなく、ただその組み合わせの面白さ、不思議さにである。終りには心の中が驚きと不思議な思いで満たされている。
 掲げた句は、そのように立ち止まって、しばし思いをめぐらす、多くの句の中の一つである。冬の空の銀河は、澄んだ大気の中で見るからに冷たく輝いている。そんな凍りつくようなところを潜るなんて誰が思うだろうか。だが、好奇心旺盛な作者は物事の奥の奥を考えてしまう。潜った冬の銀河の底になにがあるか、なにか特別な佳きもの、素晴らしいものがあるかもしれないと夢想する。
 思い切って潜ってしまった銀河の底は、広場が劇場か映画館か。見回せば、そこには自由な空気が無限に漂っていることを発見する。座席が並び、どこに座ってもいい。全部自由席。誰が来てどこに座ろうと。料金は無料か有料か定かではないが、あの冷たさを潜り抜けてきた人の勇気を称えやはり無料に違いない。
 そして、座席のどこかに作者、岩淵代表の涼しく座している姿があり、そのあたりには「ににん」の仲間のみならず、多くの『硝子の仲間』(第三句集)たちがリラックスして座り、歓談が始まり宴となるのである。
 この句は「ににん」の精神にも通じている。会員はみな平等な立場であり、「ににん」を基盤に自由に活躍している。「ににん」の句会にはさまざまな結社の人々が居て、それぞれ自分の思うことを言う。代表の選句は幅広く、オーソドックス、批評を述べる口調は穏やかであり、みんな静かに耳を傾ける。
 沈着冷静に見える代表だが、「梔子の匂ふ方向音痴かな」と意外な一面がある。また「雫する水着絞れば小鳥ほど」の小さなもの、「芋虫に追はるる猫の後退り」の猫など愛らしいものを詠み、親しみを感じさせられている。
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句集「嘘のやう影のやう」評 3点

2008年7月2日 水曜日

 評者・高道 彰   『運河・主宰・茨木和生』七月号   「句集拾珠」より 

あとがきに「立冬の印象で、一番濃く覚えているのは、その日に出羽三山のひとつ、月山に登ったことである。(略)当時四十代だった(略)原裕先生を加えた男性三人と私だけで頂上を目指した。(略)雪道で原裕先生の(略)その荒い息の合間に、 「芭蕉が月山に登ったのは、僕と同じ歳だったよね」とおっしゃった、と記す。 十九三六年、東京生まれ。第四句集。

  顔洗ふ水に目覚めて卒業子
  黒板に映りはしない春の雲
  春愁の顔洗ふたび目を閉ぢる
  陽炎や僧衣を着れば僧になり

 僧衣を着れば僧になる私、僧衣を脱げば何になるのか。僧衣にかわる着衣を探すしかない。ふと日常の平凡にあきた私の小さな冒険、陽炎の消えるまでのつかの間の。

  花果てのうらがへりたる赤ん坊
  鎌倉の武蔵鐙の咲きにけり
 
どうも若武者の面影が立つ。頼家または実朝の面影が。それに実朝を暗殺した公暁が。風にゆれる武蔵鐙のその奥に。

  新しき蛇籠を抱いて来たりけり
  鱧食べてゐる父母の居るやうに
  雫する水着絞れば小鳥ほど

 さわやかな機知がきもちよい。それになんともいえないコケットリーがある。できれば翡翠色の水着でありたい。

  湖風にハエトリリボンあそびをり
  水引の咲きすぎてゐる暗さかな
  大叔母に会ふや錦鶏菊の野辺
  それぞれの誤差が瓢の形なす

 それぞれの誤差ということはみなすべて誤差ということで、真の値がないということでなんともおかしく、つい笑ってしまった。なんとも愉快になる俳句である。

  鳥に無き眉を真白く秋遍路
  古書店の中へ枯野のつづくなり

 この枯野は安堵につく溜息のような温かさがある。古書もまた。

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評者・星井千恵子  『遠嶺・主宰小澤克己』七月号 俳スコープ

著者は同人誌「ににん」の創刊代表であり、2001年に句集「螢袋に灯をともす」により第一回俳句四季大賞を受賞されている。又、句集のほかにも著書を多数手掛けておられる。句集名は〈嘘のやう影のやうなる黒揚羽〉より。

  釦みな嵌めて東京空襲忌
  天上天下蟻は数へてあげられぬ
  三角は涼しき鶴の折りはじめ
  雫する水着絞れば小鳥ほど
  雑炊を荒野のごとく眺めけり

対象への視点が実に斬新であり、言葉を生き生きと操る作者に、憧憬を覚える。
齋藤慎爾氏は、栞に「この一巻には、岩淵さんの死生一如の精神が蒼白い燐光を放っておる」、と述べている。

  草餅を食べるひそけさ生まれけり
  草紅葉足を運べば手の揺れて
  枯菊の匂ひや祖母の居るごとく
  泣くことも優性遺伝石蕗の花
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評者・高木直哉  「鴻・主宰・増成栗人」七月号 俳書紹介

   草餅をたべるひそけさ生まれけり
 
この巻頭句をはじめ、対象を鋭い感覚と確かな目で捉えた写生句が多い。

  箒また柱に戻り山笑ふ
  雫する水着絞れば小鳥ほど
  瞬間のうちかさなりて滝落ちる
  それぞれの誤差が瓢の形なす
  雁來月風の気配の僧進む
  草紅葉足を運べば手の揺れて

同じ写生句でも対象が動物になると、作者の感性はなお冴え、動物が生き生きとして楽しい。

  嘘のやう影のやうなる黒揚羽
 
幻のように現れては消える黒揚羽をよく言い当てている。表題句である。

  水中に足ぶらさげて通し鴨
  金銀の毛虫は何処へいくのやら
  月明の色をさがせばかたつむり
  三日月の夜の大好きな山楸魚
  孑孑のびつしり水面にぶらさがり
  むかうから猫の覗きし水中花
  運命のやうにかしぐや空の鷹
  短日の象を洗つてをりにけり
  水仙の日向に大き猫来る
  大岩へ影置きに行く冬の犀

 多くを占める写生句の間に、リリカルで硬質な心象風景の句が顔を出す。

  虎落笛夢に砂金のこぼれつぐ
       
想念の句に対してはとにかく深読みになり勝ちなものだが、あまりきめつけないで、自由に解釈を楽しんだ方がよいのではないか。「砂金」では、太宰治の「すべてを取り去ったその底に砂金のように残るものが、本当の物である」の言葉を思い起こす。

  暗がりは十二単のむらさきか
  水澄むや鏡の中に裸馬
  かりがねや古書こなごなになりさうな
  花枇杷のひそひそと散る嫉心かな
  雑炊を荒野のごとく眺めけり
  古書店の中へ枯野のつづくなり
  梟の夜ともなれば諦める
  火星とは末摘花の懐炉とは

  揺り椅子をゆらさないでよ春の闇
  卯の花が咲いたのですねこの村も
  天上天下蟻は数へてあげられぬ
 
ところどころに柔らかなクッションのように、この様な口語の句が置かれているのも特徴であり、作者の懐の深さを示すものであろう。
 栞において、斎藤慎爾は作者を「〈陸沈〉の佳人」という。陸沈とは孔子の言葉で、「世間に捨てられるのも、世間を捨てるのも易しい事だ。世間に迎合するのも水に自然と沈むやうなものでもつと易しいが、一番困難で、一番積極的な生き方は、世間の真中に、つまり水無きところに沈む事だ、」との小林秀雄の感想文を引いた上で、
「私は俳人たちが華やかに回遊する喧騒の只中で、悠揚迫らぬ態度で秘かに〈陸沈〉している岩淵さんを目撃しているのである。」 と記している。

  みな模倣模倣と田螺鳴きにけり

 作者は「あとがき」に「川崎展展宏先生が総合誌の五十句応募を促してくださったこともあったが、ついに一度も挑戦しないままだった。」と記しているが、これは徒らに世間を気にせず、自己に深化して研讃に徹したということなのだろう。己を叱咤して励む作者の姿勢を見ることのできる句である。

  一生のどのあたりなる桜かな
  生きた日をたまに数へる落花生
  死もなにもかもつまらなく臭木の実
  時雨空友が老ゆれば吾も老ゆ
  人並みに月日過ぎ行く白桔梗
  生きて知るにはかに寒き夕暮れよ

作者の死生感が垣間見られるような句も、あくまで客観的であり、過剰な情感は流れない。

  老いて今冬青空の真下なり

凛として爽やかな作者の立姿である。
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他誌より転載3点

2008年6月19日 木曜日

六月一日  読売新聞

   更衣したる鎌倉幼稚園   句集「嘘のやう影のやう」から

鎌倉は三方が山に囲まれ、もう一方は海。夏になれば町中に青葉が茂り、潮風が香る。鎌倉幼稚園は若宮大路沿いにある古い幼稚園。その更衣の光景を詠むが、鎌倉という土地の名前が生きている。緑に映える園児たちの真っ白な夏服。(鑑賞 長谷川櫂)

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『天為』六月号 新刊見聞録   句集「嘘のやう影のやう」評  深谷義紀

「ににん」代表の第四句集。句集を読み進むうちに、幾つかテーマめいたものがあることに気が付いた。

    馬市に残暑の男集めけり
   かすり傷つけて集る村芝居
   もうひとり子がいるやうな鵙日和
 これらの句では存在と不在。

   百年は昨日にすぎし烏瓜
   生きた日をたまに数へる落花生
   五十年までは待てない冬鷗
 これらでは「時間」。いずれも伸びやかな詩情を感じる。
他にも佳句は多い。

   夏めくと腰にぶつかる布鞄
   まるごとの己毛布の中にあり
対象の捉え方に惹かれた

対象の捉え方に惹かれた   春眠のどこかに牙を置いてきし
   それぞれの誤差が瓢の形なす
   古書店の中へ枯野のつづくなり
一方、これらの抽象句は作者の感性が結実した作品と言え、共感できる。
 
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『向日葵』7月号  新書拝見   句集「嘘のやう影のやう」評   徳永亜希

   嘘のやう影のやうなる黒揚羽
句集名となった句。「春陰」ほか七章に別れ297句の上梓である。
著者は1936年東京生まれ。現在同人誌『ににん』創刊代表。句集、共著句集、エッセイ集など数冊を刊行する。

   釦みな嵌めて東京空襲忌
   花果てのうらがへりたる赤ん坊
   龍天に登る指輪の置どころ
   針槐キリスト今も恍惚と
自由にそして真摯に対象に向き合っていて好感が持てる。

自由にそして真摯に対象に向き合っていて好感が持てる。   三角は涼しき鶴の折はじめ
   雫する水着絞れば小鳥ほど
   古書店の中へ枯野のつづくなり
   日出づる国の白菜真二つ

個性のある佳句が多い。今後益々のご発展をお祈り致します。       

句集『嘘のやう影のやう』の鑑賞   

2008年5月21日 水曜日

 『狩』2008年 6月号  村上沙央氏

同人誌「ににん」代表の第四句集。
平成十三年以降の作品を収める。句集名は〈嘘のやう影のやう〉から。作品は多く日常から発想されているが、私生活の影を殆ど感じさせない。

安直な言葉の繋がりを拒み、真理的陰影を新鮮な取り合わせで詠う。形にとらわれない自由な表現が、そこはかとない抒情性を生んでいる。

揺り椅子を揺らさないでよ春の闇
三角は涼しき鶴の折りはじめ
白鳥に鋼の水の流れをり
古書店の中へ枯野のつづくなり

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『方円』2008年5月号   長谷川掄子氏

本句集名は『嘘のやう影のやうなる黒揚羽』から。あとがきに当時四十代だった『鹿火屋』の主宰らと登った冬至の頃の月山の思い出を記す。栞では齋藤慎爾氏が、著者を〈陸沈〉の佳人と讃え、悠揚迫らぬ態度を見つめる。静かな雰囲気に強さを秘める方なのだろう。
 嘘のやう影のやうなる黒揚羽
 緑蔭に手持ち無沙汰となりにけり
 三角は涼しき鶴の折りはじめ
 運命のやうにかしぐや空の鷹
 古書店の中へ枯野のつづくなり
 この一群の句には、独自の世界がひろがり、着眼点、言葉の扱い、ゆるぎない型など抜群

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『大』春号  境野大波氏

 「ににん」の代表である岩淵さん、「大」のスタート以前から幾度か吟行にご参加いただいて、私たちはごく近しい存在である。
薔薇園を去れと音楽鳴りわたる
嘘のやう影のやうなる黒揚羽
古書店の中へ枯野のつづくなり
岩淵さんは、たぶん吟行などでの着実な「写生」から出発して、詩の領域に近いところまで言葉を飛翔させるのではないだろうか。句集に添えられた齋藤慎爾氏の栞は読みごたえがある。

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『吉野』4月号    野田禎男氏 

春深し真昼はみんな裏通り
緑蔭に手持ち無沙汰となりにけり
雫する水着絞れば小鳥ほど
雪吊の雪吊ごとに揺れてゐる
古書店の中へ枯野のつづくなり

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『八千草』夏号  山元志津香氏

海原を日差しの濁す絵踏みかな
悟りとは杉の直樹石鹸玉
針槐キリスト今も恍惚と
嘘のやう影のやうなる黒揚羽
鶏頭は雨に濡れない花らしき
秋霖の最中へ水を買ひに出る
石鼎の貧乏ゆすり野菊晴

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句集『嘘のやう影のやう』の鑑賞   吉原文音

2008年5月16日 金曜日

「ににん」代表の第四句集。感性の刃がきらりきらりと句の森に閃く印象を受ける。じっくりと対象を句眼が解析し、確かな感触を得て、すらりと詠まれた俳句の数々は、読み手の心を立ち止まらせる魅力にあふれている。まずは句集のタイトルになった一句。

 嘘のやう影のやうなる黒揚羽
その翅に漆黒の闇をもつ黒揚羽。その闇の翅はゴージャスな雰囲気をあわせ持っている。黒揚羽に虚栄と虚無を見た作者は、ネガティブな表現で対象を捉えた。 

 白魚を遥かな白馬群るるごと
ちょっと見たところ、白魚と白馬には何のつながりも無い。しかし、ずーっと心の眼を引いて白魚の群れを見たとき、その群れは白馬となったという。実景とイマジネーションの合わせ目に生れた句である。

 春眠のどこかに牙を置いてきし
「牙」とは怒りのような感情だろうか。春眠から覚めてみると、眠る前のその牙的な気持ちが無くなり、平常心に戻っていた。「春眠」ならではのほのぼのとしたやさしさを味わえる一句。

 一生のどのあたりなる桜かな
若木ではなく、老木でもない一本の桜が見える。桜の木の寿命は何年くらいあるのだろう。この桜はそのどのあたりで今、咲いているのだろう。自分の一生の位置もおのずと重なってくる。読者によってさまざまな響きを発する句であるに違いない。

 瞬間の打ちかさなりて滝落ちる
滝を見上げる。次から次へと水が重なって落ちてくる。作者の脳は、即座にその水を「瞬間」という時間に置き換えた。時間を見えるものとして出現させ、読者の脳裏に焼きつける。そして、その瞬間は一句の中に永遠となってとどまる。

 水澄むや鏡の中に裸馬
秋の澄みきった池か湖の水鏡に映る姿が見える。水を飲んでいるのか、ちょうど水鏡をのぞき込むような姿勢の裸馬。それを客観的に見守る作者と、読者は同じ位置に立ち、作者と同じ構図の絵を見ることができる。

 地芝居に集いてみんな羅漢めく
観客のさまざまな顔の表情、姿勢の百態が、ユーモラスな視線で描かれた句。「地芝居」と「羅漢」の言葉の取り合わせが、風土の味わいを引き出している。

 運命のやうにかしぐや空の鷹
空を飛ぶ鷹の傾きを「運命のやう」と言ったのは作者以外にないだろう。ここに、この人の詩の力を感じるのである。こんな一句を得たいと切に願う私である。共鳴句は多数あるが、紙面の都合で紹介しきれないのが残念である。これらの句をみれば、吟行で見たものに捕らわれた単なる写生句がすべて色を失ってみえることことが分かるだろう。今後も「詩」としての俳句を俳壇に示し、俳句の未来を照らしていただきたいと願っている。
                                                          筆者 『太陽』同人 

嘘であり影である至高なひとくくり  平田雄公子

2008年5月14日 水曜日

─岩淵喜代子の世界─     

 今回は岩淵喜代子(ににん)氏の第四句集『嘘のやう影のやう』(平成二十年二月・㈱東京四季出版刊)です。本欄では、既に第二句集「蛍袋に灯をともす」、第三句集「硝子の仲間」を取り上げさせて貰いました(「谺」平成十二年十一月号および十六年五月号)ので、四年振りにお馴染の作家との邂逅と言えるのですが、それだけに更なる句境の進展、詩興の深まりに期待しながら、じっくり読み進めます。

雨だれのやうにも木魚あたたかし
 単調ながら聞き入っていると、何時か心に沁みる「木魚」の音。それは、心臓の鼓動や自然の息遣いに通ずる、「雨だれ」のリズムのよう。そして、ショパンの名曲ピアノ前奏曲《雨だれ》を思い浮かべさせる。ひっくるめて「あたたか」な、春の気分横溢の句である。

釦みな嵌めて東京空襲忌
 「空襲」が日常的だった戦時下では、女性のモンペに代表されるように、何時でも避難したり、行動をおこせるよう、質素ながらきちんとした服装でいた。掲句は、前大戦末期の昭和二十年三月十日の東京大空襲によって、無差別に一般市民である老若男女多数が過酷な目に遭ったこと(死者約十万、焼失戸数約二十七万)を、「釦」を「みな嵌めて」往時を偲びつつ、切に悼むもの。そう言えば、制服などの上の方の「釦」を、一つ二つ外すのが、昔の不良少年(少女)の定番だったものだが。

消しゴムを使へば匂ふアカンサス
 「消しゴム」を使う場面は、ふっと緊張の緩む時でもあろう。窓外からか部屋の中からか、「アカンサス」のすっくとした花穂から、甘い香が「匂ふ」夏の夕べ。消しゴムの匂いとも重なり合って、即かず離れずの、蠱惑(こわく)的で不思議な時空ではある。

海風やエリカの花の黒眼がち
 「エリカ」の、紅紫色の筒状の花の真ん中に、「黒眼」。その正体は、雄蕊の先=葯(やく)の色である。淡い色の花弁の中の黒であるから、正に《黒眼がち》なのである。「海風」にエリカの花枝が揺れると、黒眼が幾つも飛び出そうな塩梅に、睨まれ圧倒されるのだ。

きれぎれの鎌倉街道蝌蚪生まる
 「鎌倉街道」は鎌倉に幕府が置かれた頃、鎌倉と地方を結ぶ主要道路であり、鎌倉幕府の御家人たちが《いざ鎌倉》と馳せ参じた街道である。しかし、近来関東圏の市街化・人口稠密の進展などにより旧時代の道筋の多くは寸断され、鎌倉街道も「きれぎれ」状態なのだ。そんな人間の歴史や都合は、忘れられてもいようが、傍らの池や水路には、今春も賑々しく「蝌蚪生まる」景が臨め、自然のサイクルは時代を越えて健在なのである。

古井戸をのぞきチューリップをのぞく
 人間は物見高いと言うか、好奇心旺盛と言うか、無名の「古井戸」だろうが、隣家の「チューリップ」だろうが、熱心に「のぞき」込むもの。この辺り、俳人なら尚更であろう。掲句の、取合せの面白さ以上に、《古井戸》から脈絡も、節操もなく《チューリップ》へ対象を換えるところが、抜群である。

御堂から地べたに戻る雀の子
 「雀の子」は無意識に、「御堂から地べたに」易易として「戻る」。謂わば仏の精神界から、俗世の塵界への移動であり、人間の位で謂えば、やんごとない殿上人から、地べたに這い蹲る下人への転落であろう。人間の約束事の底の浅さを嗤い、自然=雀の子の逞しさを謳ったもの。

一生のどのあたりなる桜かな
 自分にとって、今が「一生のどのあたり」なのか。誰しもふっと考え及ぶことがあろう。今年もまた「桜」が、若木も老木も、それぞれ春を謳歌するように、美しい花を咲かせている。桜の生涯のスパンは、人間のそれの数倍であろうから、比較仕様もないのだが、人生にあっての花盛りは一体、何時のことなのか。

春窮の象に足音なかりけり
 この四月十日に、神戸市王子動物園で国内最高齢(六五歳)のインド象諏訪子(すわこ)の死亡したことが報ぜられたが、掲句の象は、筆者ご贔屓の井の頭文化園のはな子象(六一歳)でもあろうか。「春窮」即ち春も終る頃、象が春を惜しむ筈も無かろうが、春闌の気怠るさにあるのか、ステップが大人し目で「足音」がしないのだ。

嘘のやう影のやうなる黒揚羽
 句集名となった作品である。「黒揚羽」の悠揚迫らぬ飛翔振りを写したものだが、「嘘のやう影のやう」と畳み込まれると、忽ち大逆転し、黒揚羽が唯一《ほんもの》であって、それを取り囲む全てが《嘘であり影である》ように思えてくるのだ。

陶枕や百年といふひとくくり
《平均寿命の増大によって、「百年といふひとくくり」の重みと言うか、質的な意味合いが変わってきた。等身大になった百年が、年代物「陶枕」と恰好の取合せである。》(掲句は『俳句』昨年九月号に発表されたもの。俳誌『松の花』同年11月号の拙文「現代俳句管見」より、転載。)

晴天や繰り返し来る終戦日
 あの「終戦日」の、八月十五日も朝から暑い「晴天」の日だった。戦後六十余年を経た今、偶々にせよ晴天も「繰り返し来る」気がするほどの永さなのだ。これに先んずる二つの原爆忌と合わせ、日本人として忘れられない、忘れてはならない日である。

もうひとり子がゐるやうな鵙日和
 「鵙」は、他の鳥から托卵された場合律儀に孵し、子育てもするそうだが、この場合はどうか。男にはこの感覚は皆目解らない。落し子が名乗りでた場合でも無かろう。また、「鵙日和」との整合性となると殆ど見当も付かないのだが。ヒューマンな、秋麗の白昼夢と解したい。

運命のやうにかしぐや空の鷹
 「空の鷹」の飛翔振りは、ホバリングやソアリングを含め敏捷果敢だが、中でも風を読み、獲物を狙っての方向転換における身のこなしは、圧巻である。我が身を放下し、引力を引き寄せ「運命のやうにかしぐ」のである。冬麗の空気を、一気に引き裂くために。

男とは女とは霜一面に
 最近は男女の社会的格差縮小が進行し、生物的性差すらも希薄・曖昧になって来たようだが、「男とは女とは」の問題は依然人類永遠の疑問であろう。「一面」を遍く覆う「霜」は広大無辺だが、男女の関係や生き様は千差万別、とても一筋縄ではゆかないものとした、句。

湯たんぽを儀式のごとく抱へくる
 「湯たんぽ」は、最近環境に優しい暖房器具として見直されているようだが、取扱は至って素朴。薬缶から湯を注ぎ入れ、寝室へ運ぶ段になると、中でぽちゃぽちゃ揺れている。栓さえ固く締めてあれば別に問題はない筈なのだが、なるべく揺れないように、「儀式のごとく抱へくる」体たらくなのだ。暮らしのアクセントを謳った、句。

山茶花に語らせてゐる日差しかな
 庭や垣根の「山茶花」が、「日差し」を浴びて明るく咲いている。花期が長い花であるから、何時でも正面を向き勢いのある幾つかの花を付けているのだ。作者は、山茶花のもの言いたげな風情を超えて、話を聞きとめているらしい。その語り口は、どのようなものなのか。
 
以上のとおり、前二句集同様に《歯応えのある、自在性に富んだ》作品群でありました。即ち、対象の本質に鋭く迫りながら、比喩となると奔放を極め捉え難く、《嘘のやう影のやう》に展開する詩の世界そして俳の境地を垣間見る思いでありました。つまり《のやうに》のフレーズが、生半可の指摘では無く、単なる類想に終わらず、別次元へ昇華するのです。更に言えば、《嘘であり影である》部分にある真・善・美への讃歌になっています。今後も、全人格的に現代を語り次ぐ俳人として、存分のご活躍を期待したいと思います。

  『谺』五月号   (筆者住所〒108-0004武蔵野市吉祥寺本町3-21-6-201)

『嘘のやう影のやう』の鑑賞

2008年5月11日 日曜日

 最近山口優夢さんと中西夕紀さんのお二人から拙句集に寄せる文章を頂いた。
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中西夕紀さんは先日紹介した結社誌『都市』 の代表
句集に「都市」「さねさし」など
http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/05/blog-post_1143.html

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山口優夢さんは21歳の学生さん。お名前だけだと女性かと思う人も居るかもしれないが男性です。たしか、本名だったとお聞きしたような気もする。俳句も本格的である。

婚礼の胸を花野と思ひけり
かりがねや背中で閉まる自動ドア
耳に耳触るる寒椿のやうに

http://blog.goo.ne.jp/y-yuumu/e/9e81b266df3babc242009966ae7f1780
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今朝の一句 村上譲

2008年4月17日 木曜日

桜咲くところは風の吹くところ    句集 「嘘のやう影のやう] より

月に叢雲、花に風。好事にはとかくさしさわりが多いたとえだが、実際にも花見の
ときはよく強風が吹く。すぐに思い出すのは、井伏鱒二の漢詩訳詩

    はなにあらしの

    たとへもあるぞ

    さよならだけが

   人生だ

の一節。坂口安吾は小説『桜の森の満開の下』において、満開の桜の森は風もないの
にごうごうと風が吹いている、と書き出している。卓抜な逆説だが、掲出句もこれに通じる。

四月四日  「愛媛新聞」「信濃毎日新聞」 

陸沈

2008年3月20日 木曜日

このところ句集『嘘のやう影のやう』の反響は、齋藤慎爾氏の栞の陸沈という言葉に集中している。感嘆というか、絶句するような驚きというか、とにかく私自信も吃驚するようなはじめての言葉である。17日に書いた俳句鑑賞の転載でも、齋藤慎爾氏のしおりに心をゆさぶられたと書かかれているとおり、陸沈を流行らせる仕掛けになるだろう。

ところが 知る人ぞ知る言葉で、永田耕衣の最後の句集は「陸沈考」である。鈍間で口下手で非社交的で、何処にいても目立たない私を、最高の論理でつじつまを合わせてくれた齋藤慎爾さんは天才である。

何故齋藤さんに栞をお願いしたかといえば、俳壇の輪から外れた人、それでも俳句鑑賞のできる人物と思って見渡したら齋藤慎爾さんしかいなかったのである。だから、もし、断られたらもうほかに頼む人というか、頼みたい人はいないので栞無しで発行するつもりだった。

齋藤慎爾とい人物の認識をどのくらい知っていたかといえば、深夜叢書という出版社を持っているらしい。俳句も以前は作っていて句集もあるようだくらいの漠然としたことしか知らなかった。

一番新しい仕事として知っているのが、「二十世紀名句手帖」八巻の編集者だということ。ほんとうにアバウトな情報。まさに陸沈を地でゆく認識の無さだった。そう思ったのは、以前は全く目に入らなかったやたらと字画の多い齋藤慎爾とう名前が書棚から目につくようになったからである。

例えば瀬戸内寂聴との共著「生と死の歳時記」。生と死にかかわる古今の俳句と二人の文章が面白い。そこで食わず嫌いだった瀬戸内寂聴の文章に引込まれながら読み耽った。中でも瀬戸内寂聴の序文で、齋藤慎爾氏を浮き彫りにしている文章がまた面白い。

ーーだいたい齋藤さんは人間の姿をしているが、私には妖精にしか思えないのでーー嫁ももらわなければ(深夜叢書)なる怪しげな城にひとり立てこもり、御飯なども食べているのやらいないのやら。つまり人間でないから、霞と夢を食べて生きているらしい。--この本はそういう妖精の昼寝の夢から生まれたものであろう。すべて妖精の手品に頼って出来上がった本なのでーー(瀬戸内寂聴)

ご自身の句集も数冊。編者略歴には「現代俳句の世界」・「アサヒグラフ増刊」やらを初めとして齋藤慎爾編「俳句殺人事件」「短歌殺人事件」「永遠の文庫 名作選 (吉本隆明・多田智満子ほか)・永遠の文庫傑作選 (吉本隆明・渡辺京二ほか)大衆小説文庫名作選(植草甚一・種村季弘・澁澤龍彦ほか)など、上げたらきりがない。とにかく凄い量である。いやーこれを先に知っていたら、もしかしたら躊躇ってしまったかもしれない。 知らなくてヨカッタ!!

あちこちから

2008年3月17日 月曜日

船団ホームページ  「今日の一句 」 2008年3月16日

木の芽風埴輪の肌に刷毛の跡    (季語/木の芽風)      岩淵喜代子

 木の芽は冬でも夏でもあるが、名も知らない木の芽はやはり春。風をうけてその微かな香りを運んでいる。風がいにしえの埴輪にふと触れると、まるで、その木の芽風がつけたかのような、微かな刷毛の跡。その目の付け所が素敵。埴輪の手とか口の穴、とかではなくなぜ付いているのか、目的のない飾りの刷毛の跡。それゆえにその刷毛の跡から古代の人の手のぬくもりに、ずーんと想像は飛躍した瞬間、現代の木の芽風と古代人が邂逅する。
 今日の句は『嘘のやう影のやう』(平成20年2月 東京四季出版)から引いた。「みな模倣模倣と田螺鳴きにけり」「ゆく春のふと新宿の曇空」「桜咲くところは風の吹くところ」など静かで涼しげな哀しみを感じさせる句が多い。齋藤慎爾が孔子の言葉「陸沈」を引用して喜代子を賞する栞に心揺さぶられる。(塩見恵介

                ~★~★~★~★~★~★~★~★~

毎日新聞 2008年3月2日

◆私の3冊

 ◇短歌
寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』(岩波書店)
 『木俣修研究』創刊号(木俣修研究会)
 中西進著『美しい日本語の風景』(淡交社)

 戦後の青春短歌の旗手寺山の未発表短歌をマネジャーだった音楽家田中未知さんがまとめた。寺山の40代の短歌に注目。『木俣修研究』は22ページの小冊子ながら、人間性あふれた歌人を再評価。古典研究の中西氏が「かぎろひ」など古来の美しい言葉の風景を描く。井上博道氏の写真も。

 ◇俳句
『俳句研究』春の号(角川SSコミュニケーションズ)
岩淵喜代子句集『嘘のやう影のやう』(東京四季出版)
 小川涛美子句集『来し方』(角川書店)

 昨年9月号で休刊の『俳句研究』が季刊で再刊。ただし書店に置かない直販方式。大石悦子氏の力作評論も継続された。俳句を読む読者の増大を図る。岩淵句集は冷静に鎮められた目。中村汀女創刊『風花』主宰の小川句集は、緩やかな季節のめぐりの味わい。

 ◇詩
朝倉勇詩集『散骨の場所』(書肆山田)
高橋順子著『花の巡礼』(小学館)
楊牧著『奇莱(きらい)前書』(思潮社)

 叙情の名手朝倉氏の加齢の味わいと等身大の言葉のよろしさ。栞(しおり)は清水哲男氏。『雨の名前』『風の名前』などの著書のある高橋氏が、北原白秋、荻原朔太郎らの花の詩を紹介しエッセーを添えた。台湾詩人の楊牧氏が、少年時代を思い起こして記した回想。複雑な歴史を抱え込む母国でいかに悲しみと詩が生まれたか。切実な一巻。上田哲二訳。

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