2007年11月 のアーカイブ

洗い場

2007年11月3日 土曜日

以前は、坂上から洗い場のあたりまで、道が暗くなるほどの雑木の覆いかぶさっている道だった。わたしと同年代の土地の人が、昔は追剥ぎが出たのだと教えてくれた。追剥ぎという言葉さえ通じなくなりそうだ。洗い場がある頃は、そんな話が納得できるような木立の暗さがあった。ある農家の主婦は、以前は庭に専用の洗い場を作っていた、というのだった。

たしかに今も坂の途中から水が迸り出て、下水に吸い込まれていく風景がある。何だか勿体ないなー、と思うくらい水は絶えず溢れ出ている。しかし、誰も利用していない。むしろ、自分の土地にそんな水が湧き出ているのが迷惑だといわんばかりに無視し続けているようだ。私は通るたびに、その水を覗き込んだ。傾斜のある地面から湧き出た水は50センチほど離れた側溝へ、音もなく流れ込んでいた。小説「武蔵野夫人」の冒頭に詳しく説明が出てくる「ハケの水」である。

源蔵さんの坂

2007年11月2日 金曜日

買い物の帰り道にある渡辺源蔵さんの家の門に、葬儀の式次第が張り出してあった。「あー亡くなったのだな」という思いより、あれまだ生きていたのだ、という思いのほうが先に立った。この地に引っ越してきてから、平成元年まで、朝霞市は渡辺源蔵市長だった。

戦後間もなくから町議を務めて、昭和40年から昭和の終りまで在任したのだから、市長の年月は希な長期にわたっていた。辞める経緯のときに、あと一期つとめると市長在任年月が日本最長になるような話も聞いた気がする。色黒の中肉中背の何処にでも居そうな風貌というくらいの印象しかなかったが。

それでも辞めてから19年目になるのだから、「あれ、まだ生きていたのだ」と思っても無理ない。92歳だったとか。強固な保守派だったが、黒字財政を守ってきたのは、終戦後の貧しい生活の延長で堅実な財政管理がなされてきたのかもしれない。現在の市長は渡辺市長引退以後、何代も替わっている。その渡辺家を基点に道は急な下り坂になる。人はみんな「源蔵さんの坂」と呼んでいた。

引っ越してきた頃は勿論この坂も舗装はされていなかったので、雨の日はタクシーも滑って通れなかった。坂を下りきったところに「洗い場」と呼ばれる水場があった。そのあたりに「滝の根」という地名がついているくらいだから、水が豊富に湧くところだったのである。まわりの農家が野菜を洗う場所だった。その洗い場が何時のまにか消えていた。源蔵市長引退と洗い場の消えたのとは、どちらが先だったのか。

ムンク展

2007年11月1日 木曜日

ムンクの絵をはじめて見たのは、15、6年前だっただろうか。とにかくムンクの一番有名な「叫び」がポスターになっていた。そのムンク展の翌年くらいにドイツに行ったときに、街でムンク展のポスターを見かけた。日本で見たポスターと同じだったので、ことに目を惹いた。だから、その後に「叫び」の絵が盗難にあったことになる。最近、それが戻ってきたようだったが、今回の上野の西洋美術館で開催されている「ムンク展」のリストに「叫び」の絵は無い。

ムンクは特に好きな画家というわけでもなかったが上野精養軒での集まりがあったので、ついでに立ち寄った。今度のムンク展のポスターの絵は「不安」。展覧会のテーマは装飾。関連のある絵を並べて物語り的に、あるいは交響曲として響きあうように並べられている。

いずれにしても、ムンクの絵は重い。重いのは当然というような題名「愛、死、不安、絶望」等がついていた。それは筆致というより色にある。だから、習作だが「浜辺の出会い」という絵が一番楽しかった。「浜辺の出会い」はその題名のごとくに、浜辺に集う若者を描いているのだが、他の絵のような重い色彩ではなく、緑はあくまで透明感のある純粋なみどり。ドレスの緋色も爽やかさを感じさせるものだった。 ににんへ

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