俳句の個性

俳句は短い形式なので似て非なるようなもの、違うようでも似ているものなど、たくさんある。差し当り単純化させて、十二文字が全く同じなら、それは類句、或は盗作としてもよいだろう。

ところが、そんな類句盗作はきりもなく発表されているのである。結社にいるときには、それは酷かった。私の句と同じような句が何度も他人作品として登場するのである。もちろん、たくさんの句をいちいち覚えていられないから、選者である主宰が判別出来ないのは仕方がない。こんな場合は作者がどんどん発言したほうがいいと思う。

しかし、結社の場合はいい。いつか淘汰されるかもしれないからである。だが、総合誌の場合は少し違う。何年か前のことだが、総合誌一月号に「青空の夜空となりし初日記」という作品を発表した。それから半年後の別の総合誌に季語だけ違って発表した人がいた。「青空の夜空となりし魂迎え」だった。それ程個性的な表現ではないから、「青空の夜空となりし」などは誰でも直ぐに思い浮かぶフレーズかもしれない。

それでも相手に伝えたほうが親切というものだとおもったので、親しい人に伝えてくれるように頼んでおいた。ところが伝わっていなかったのである。半年後にその俳人の句集が送られてきたら、そこにしっかり「青空の夜空となりし魂迎え」が登録されていた。半年くらいの差では、月日を経るとどちらが先なのか曖昧になってしまう。逆に自分の句が何処かで盗作のように思われるのも心外なので、今度は直接相手に伝えておいた。

相手も知っていたら句集から外したのに、ということだった。何でも人頼みはしないほうがいい。ところで、こんな類のことは後から後から起こっているだろう。自分もそんな類句類想句を作っているに違いない。そうして、俳句という分野が個性をなかなか発揮出来得ない分野なのだということを、しっかり認識していないと、恐ろしいことになりそうである。もちろん、今度の句集「嘘のやう、影のやう」には「青空の」の句は収録していない。

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