秋彼岸が来る

何時頃から死というものが、身近になったのだったか。このごろは、それが顕著になった。私ぐらいの年齢になれば当りまえのことではあるが、それでも、親しい人の訃報のたびに、死と隣り合わせの感覚は増してくる。

夕べは、わが夫婦ともに知り合いで、一週間に一度くらいは我家を訪れ、夫に至っては週に二回ぐらいは呑みあっていた友人の訃報の知らせが入った。娘さんからだった。「ご迷惑をおかけしましたが・・」と電話の声は、あー、娘さんも年齢を重ねてきた声だなー、と感じた。

その友人が定年近い頃に会社の倒産の羽目に追いやられ、疎遠になっていた。我家も保証人ということで、かなりな返済の肩代わりもしなけらばならなかったが、友人は無一物になったのだから、もう諦めるしかなかった。

あの保証人というものにならなければ、きっと死の間際まで、夫は呑み合っていただろうと思うと、友人というものの法則を認識する事項だった。夫は「いいから時には遊びに来いよ」と言ったが、訪れることは無かった。負い目を感じてしまったらもう友人関係は成立しないのだ。

この秋の彼岸には墓参をしようと思っている人がいる。つい2ケ月ほど前に出会った人で、しかもそれから半月後には東京でも出会う筈の人だった。その東京行きの為に島を渡って酒田で交通事故に出合ってしまった。

カルチャーの受講生が「庄内は故郷で、墓参りにもいかなくてはならないから、庄内の案内をしますよ」と言ってくれたが、なにしろ、私の予定に加えて天候も見張っていなければならないのだ。酒田から飛島への船は天候が悪ければ直ぐに欠航になる。

わたしには、もうひとり墓参をしたい友人がいる。いろいろな事情で葬儀も出られなかったので、墓参は是非しなければ思っているのだが、まだ果たしていない。巡礼という言葉が浮かび上がってきた。多分巡礼というのは自分の心を落ち着かせるために行うのではないかと思えてきた。

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