留守電を消してしまったが「新しい俳句」についての座談会を、という伝言が入っていたつもりで居たが、正式な依頼書を読むと「現代を詠む」だった。全く方向が違うというのではないが、もう一度詰め直さなければいけない。
新しいといえば、方法論も含めて今迄にアプローチしなかった詠み方なども含まれるが、「現代を詠む」というのは、時事や事象をいうのだろう。そうしたものを、意識して詠んでいるのか、ということになる。ほんとうは、今生きていることが伝わる句を詠まなければ意味がないのだが。
それが短歌になら詠めるのは形式の違いもある。最近話題になっているホームレス歌人の以下の句はまさに現代なのである。
(柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ
鍵持たぬ生活に慣れ年を越す今さら何を脱ぎ棄てたのか(12月22日)
水葬に物語などあるならばわれの最期は水葬で良し(1月5日)
パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる(1月5日)
日産をリストラになり流れ来たるブラジル人と隣りて眠る(1月19日)
終戦前後の「京大俳句」 なども、思想的であると同時にその時の現代だった。
戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡辺白泉
戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄
しかし、今現代という中で、現代的な句があるのだろうか、と見渡してもなかなか見付らない。
鵺(ぬえ)鳴くやオウム教徒の白頭巾 三浦勲
地球今温暖化して牡蠣ぶつぶつ 赤尾恵以
曼珠沙華ふところに咲くテロの街 岸本マチ子
ホームレスつっ立つ 正月の通り雨 岡崎淳子
完成した作品はない。その違いは表現方法である。白泉と敏雄の句は象徴詩である。そこまで煮詰めなくては完成しないということは、自然諷詠で切り込んでも無理なのである。だから、これまで「角川50句応募」の作品などは、風土を詠んだ作品群が賞賛されてきたが、現代を詠むというアプローチで受賞した人はいないのではないだろうか。
詠まないのではなく、詠み難いのだ。ともすれば事柄の羅列に終ってしまうからである。実際に、俳句を育ててくれた環境も、現代を詠むという空気を作ってはいなかった。