俳句鑑賞

「銀化」2007年1月号より転載   岩淵喜代子のこの一句

 大小の壺に冬日をためる村      『硝子の仲間』より

 一読して納得する句である。しかし、何かが少し違う。私が思い描いた日本の風景では、並んでいるのは樽や桶である。壺は梅干を漬けるときには使うが、冬日の下に並べることはある
だろうか。しかし、

   大小の樽に冬日をためる村

 だとどうだろう。景の再現としては、ぴったり来るが、句としての魅力はかなり減ってしまう(勿論、実際に壺が並ぶということもあるだろうが、キムチとか、お酢など、普通の日本の風景とは少しずれているような気がするので、ここでは樽から壺に言い換えたという前提で論を進める)。作者の形象力がやわらかに冬日があたる樽より、重みのある壺を選んだのである。対象の確かな存在感が「村」という言葉を支えている。そう思い「壺」を選ぶ作者の認識が「村」という言葉を規定する。 十七文字で表現しなければならない俳句の言葉は一つ一つ重い。その中でも名詞は像を結ぶので存在感が大きい。しかし、名詞≒モノとの対応は一対一とは限らない。掲句では「壺」と「村」では言葉の広さが違う。「壺」は「大小の」という形容詞と「冬日をためる村」という舞台設定により、壺というより甕に近いイメージに収斂する。
 飾り物の壷を想像することはないだろう。一方「村」は読者によって少しづつずれていることと思う。そこに「壺」を配することによって抽象度が増す。この抽象性を高めるという作業にこの作者らしさがあるような気がする。
  
  冬の宿風見るほかに用もなし  
  とつぜんに櫟林の落葉どき
  抱えたるキャベツが海の香を放つ
  空蝉も硝子の仲間に加へけり
  角のなき鹿も角あるごとくゆく
  冬近し羊のチーズ食べこぼす
  炉に近く野良着をかける釘ひとつ

 いずれも意味の通る句である。しかし、現実の景でありながらどこか異界を感じさせる句である。見慣れているものでもスクリーンに大写しにしてみると、このように感じられるのではないだろうか。帯文に「ポエジ一」という言葉が使われているが、詩とは日常にある物、日常で使う言葉をいつもとちがう手触りに変えてみせる作業である。『硝子の仲間』の句はそんな詩である。散文では伝えられない、論理ではない、少し異界に踏み込んだ表現がなされている。    【若林 由子】                

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