歳時記に雁風呂というのがある。一番新しい「角川大歳時記」の解説には、--東北の外が浜では雁が北へ帰ったあと海岸に落ちている木片を拾い集めて風呂を焚き、村人が入浴する風習があるという言い伝え。秋に雁が渡ってくるとき、海上に受かせてその上で羽を休めるために、小さな木片をくわえてくる。それを浜辺に落としておき、翌年帰る時にまた拾っていく。木片が残っていれば、それだけ雁が日本で死んだものとして供養のために風呂をたてたという。外が浜がどのあたりかは諸説がある。僻遠の地のあわれを誘う習俗として詠われてる。--とある。
なぜ供養が雁だけなのか、白鳥や鴨にはそうした俗信が生まれなかったのか。そのことが、気になっていたのだが、今月15日に「雁のねぐら入り」を見に入ったとき理解出来たのである。案内人が、蕪栗沼が「雁のねぐら」として相応しいのは、その水の浅さにあるのである。雁は足が届くほどの浅瀬でないと眠れないのだという。それなら陸で眠ればいいではないかと思えるのだが、陸では外敵に襲われやすいのだ。外敵に襲われにくく、身も沈まない程度の水深の場を選ぶという必死な選択なのである。
雁が木片を海上に落としては、体を休めるという想像はこのあたりからの発想であろう。水深のあるところでも眠れる鴨や白鳥は木片を咥えて渡っていく必要はないのである。しかし、実際には雁だって木片など咥えて帰ってもいかなし、木片を咥えながら渡ってくるわけでもない。そんなことは充分わかっていても、春の浜辺に打ち上げた小さな木片を死んだ雁の残したものと言い伝え、雁供養という言葉を生み出した背景には、貧しい極貧の辺地では雁が食料にもなったからであろう。森鴎外の「雁」の中では、不忍池の雁を、学生が食べるために持ち運ぶシーンがある。
もう一つ雁にまつわる言葉で、「落雁」というのがある。お菓子の名前である。これも、偶然雁の名が選ばれたわけではない。白鳥や鴨は水面に降りるときには、暫く水上を滑走するのだが、雁だけは、水面から1メートルほどのところから垂直に着水する。さらに、集団で飛んでいるときにも、なぜか、一羽だけ、群の中を垂直に落下する雁を見ることがある。昔の人は、そうした生態を見るともなく見て来ていたことが、忍ばれた。
歳時記の中で最も好きな言葉
ウソでも本当でもしんみりする
日本人であってよかったと しみじみ