困り者

 始めは「飼いたい」とねだった娘が世話係のはずだったが、すぐに父親の仕事になってしまった。それも、想定内のことではあったが。
 この餌を与える人の存在感は、生き物の血肉につながるものなのだ。全世界の中のただ一人の重要な存在なのである。
 だから、連れ合いが帰宅すれば、誰も迎えに出なくてもルリが必ず玄関に出迎える。ルリが「にゃーん」と声を挙げて見上げてくれるのだから、動物好きの醍醐味かもしれない。これは、わたしにとっても、きわめて重宝な役目を引き受けてくれたことになる。深夜の足元が危なくなっているような帰宅でも、ルリが待っていてくれる。
 玄関で「にゃーん」と言われれば、餌を与えなければいられない。
 その出迎え儀式は、姿の見えないころから始まるのである。。車通勤だったから、その車の音を聞き分けるらしい。寝そべっていたルリがやおら起き上がって玄関に向うと、私たちは、この家の主がそろそろ帰宅なのだと知るのである。それから一分ほどの間があるらろうか。エンジンの音が届く。私たちは、家の前に止まったから、この家の主の帰宅なのだとおもうけれど。
 人間の方は、車の音の聞き分けはそんなに明瞭ではない。ルリは家の前に止まるエンジン音が完全に聞き分けられるようで、車の音がしたかといってむやみに玄関に出て行くわけではない。
餌やりというものの威力は凄い。

 長い年月、というよりも昨日まで、ルリが遥かからの車の音を聞き分けて玄関に迎えに行くものと思っていたが、もしかしたら匂いかもしれないとふと思った。特別な車に乗っていたわけではないから、同じ車種はいくらでも走っている。車の車種だけでなく、車知識も全くないのだが、それほど一台ごとの音が違うものだろうか。運転者の操作で微妙にちがうのだと言われれば、それは、猫の聴覚が優れていたことになるのだが。もちろん、車中の人間の匂いを四00メートも五00メートルも先からかぎ分ける能力も凄いではないか。

通りの方から、犬の吠える声が届いた。それと同時に
「 ダメよー・・・どこの猫なのー・・」という悲鳴のような声もしていた。
ルリの出入りしている風呂場から外を覗くと、ルリが散歩の途中の、それも自分の何倍もある犬にうなり声を挙げているのだ。何か気に触ったことでもあったのかなー、と思っているうちに騒ぎは静まった。飼い主がそそくさと遠ざかっていったからである。
しかし、騒ぎはまもなくまた起った。多分、我が家の前は自分の縄張りだと思っているのかもしれない。
「ソンナー」 
今迄、野良猫として身を小さくしていたのに、急に態度が大きくなったと、他の猫は思うだろうに。わたしだって、苦情を持ってこられたら困ってしまう、と言っても、ルリに納得させるすべは無かった。これでは、また近所に肩身が狭くなる。
なにしろ、わが娘は、幼稚園に行く前から近所の男の児を端から泣かしてしまうツワモノだったから、年中近所の主婦たちに頭を下げっぱなしだった。
内心は、「そんなくらいことで泣かなくったってー」と思わないでもなかったが、男の子の方がたしかに泣き虫なのである。
通りがかりに、遊び相手の近所の児が、下にべったり坐ったまま泣いているのに出くわした。
「家の子が何かしたのかしら」
不覚にも、そこに娘がいたわけでもないのに思わずそう言ってしまった。
「そうでしょ。うちの子は自分で転んだなら自分で起きるんですもの」
ここぞとばかりに、近所の主婦に言われたこともある。
植木の水をあげていた近所のご主人と声を交わしていると、そのご主人が私の肩越しに 
「おーサムライ」と声をかけた。
振り返ってみれば、わが娘が、数人の男児の後について通り過ぎて行くところだった。なんのつもりか、男の子と同じように腰に荒縄を巻きつけていた。
三歳の娘は「サムライ」の何たるかも知らない。ましてやそれが悪名だとも知るよしもない。おじさんがにこにこしながら呼びかけるのだから、きっと賞賛なのだろうと信じて、同じようににこにこを返しながら手を振って走り去った。
それはまことに贔屓目でもなく愛らしい被写体だったが。
そんな月日も、幼稚園年長組の頃からようやく平和をとり戻して、数年が経っているのである

肩身の狭い思いが復活した。
お向いの家の主婦がキッチンのテーブルに置いた煮干がなくなったという。
煮干が家から我が家に向って散らばっていたと報告してきた。
家の戸は閉めておいてくださいとも言えないし、いまさら野良猫を家で完全に閉じこめてしまうことができるのだろうか。
その前に、そんなことをしたら、わたしが日中の世話係りになってしまう。
餌を食べさせて、雨露のしのげる境遇になったのだ。お願いだから苦情の出ないように暮らしてよと、ルリに言い聞かせてみた。それが恩義っていうのなのだから

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