2007年3月 のアーカイブ

俳句ホームページを読む    野崎海芋

2007年3月4日 日曜日

ににん
 今回紹介するのは「ににん」のホームページ。その名の通り、岩淵喜代子(昭和11年生、句集『螢袋に灯をともす』『硝子の仲間』など)、土肥あき子(38年、句集『鯨が海を選んだ日』)の二人によって創刊、運営されてきた俳誌だ。五周年を迎えた今年、これまで「二人」体性がモデルチエンジ。ホームページも、岩淵喜代子代表のもと、複数の同人が執筆に加わるようになった。
 中心となるのは、「テーマbe俳句」のページ。題を設けて投句を募集し、代表等が句を選んで鑑賞する。
今回で二五回を数えるが、全てのバックナンバーを読むことができるのが嬉しい。

春の野にアベルを殺すカインかな    たかはし水生
春宵の鎖骨より蝶つぎつぎに       きっこ
進化論にんじんケーキ焼きながら    岳青
守り柿この世は二進法で成る      雨宮ちとせ
三鬼忌の龍角散が口の中        猫じゃらし

 今までの兼題より。一句目の題は 「兄弟」。幼さに流れがちなテーマの中、神の残酷と不条理が異彩を放つ。二句目、「骨」。ガルシア・マルケスの小説を引いて、美しい中に悲しさを見いだした句評も印象的。三、四句目、「進」。個性的な佳句が多い題だった。五句目、「角」。龍角散の意外ざと若さに、三鬼忌が似合っている。 二五回目の今回からは、鑑賞を岩淵代表と、同人六名で執筆する形になった。今回の題は 「羽」。

白日傘羽霧る鳥見て入院す      石田義風

 すぐれた鑑賞によって句が輝くときの快感を、俳句に親しむ私たちは少なからず知っている。このページのの土肥あき子による句評が以前から好きで、時々見ていた。珍しい語や題材ほ徹底的に調べてあり、インターネット上の面白い情報にはリンクが張ってあったりもする。感性の鋭さ博識ほもちろんだが、一句、一語に対するこうした誠実さが、厚みと広がりのある鑑賞を生むのだと思う。掲出句は、今回のあき子選のうちの一つ。「羽霧る」という語は、万葉集の中の一首にあり、烏が羽を振る動作を指す雅言葉だそうだ。鳥の身軽さと人間の生にまつわるしがらみを、鮮やかに対比して見せた句評に、はっとさせられた。

羽振りよく銀座の街にゐて薄暑      横浜風
太陽の塔に羽ある涼しさよ         かよ
白南風や羽ばたけそうなわたしです   曇遊
月涼し兎は一羽耳長く           町田十文字
片羽は銀河の岸にかけてある       坂口佳音

 一句目、初夏の銀座という晴れやかさと、「羽振りよく」が気分の良い句。二句目は大阪、万博公園の 「太陽の塔」。さまざまな「羽」 の発見が楽しい。岩淵・土肥両氏たけで執筆していた前回まてに比べると、担当者の増えた今回、鑑賞内容の密度にばらつきがあるように感じてしまうが、人の数だけ、異なる読み方、感じ万があるのは自然なこと。回を重ねてゆ〈中で、鑑賞の多様さを楽Lめるようになると期待している。
ホームページのトップには、岩淵代表による創刊時の言葉が掲げられている。
 「俳句の俳とは、非日常です。日常の中で、もうひとつの日常をつくることです。俳句を諧謔とか滑稽など狭〈解釈しないで、写実だとか切れ字だとか細かいことに終わらせないで、もっと俳句の醸し出す香りを楽しんでみませんか」。俳句に対する柔軟なスタンスを呼びかけるものだが、これについてはさまざまな見方もあることだろう。Lかしこの言葉は決して俳句の形式をおろそかにするものではないと思う。

  葱坊主うらもおもてもなき別れ
  抱へたるキャベツが海の香を放つ 
  空蝉も硝子の仲間に加へけり 

 といった代表自選句を読めば、しなやかで自在な表現でありながら、定型のうつくしさをしっかりと踏まえているのがわかる。「日常の中で、もうひとつの日常をつくる」という一文も面白い。俳句は現代においても (そしてたぷんこの先も)、日常の中の小さな詩情も掬い取って表現することのできる、暮らしに一番近い詩なのだろう。五・七・五の「醸し出す香りを楽しむ」 DNAが私たちの中にはあり、それは日本人が日本語をしゃべっている限りなくならないのだろうなあと、漠然と思った。

『澤』2006年9月号より

芥川賞

2007年3月2日 金曜日

第136回芥川受賞作品『ひとり日和』青山七恵著

久し振りに小説というものを読んだ気がした。
ことに大きな筋書きがあるわけでもなく、とくに大きな起伏があるのでもない。
祖母くらいの年齢の隔たりの遠縁の家に同居している背景、それだって卑近な例はいくらでもある。
この小説は私小説形式をとりながら、十分エンターテイメントの要素を意識しながら書いている。冒頭で出てくる遠縁の女性の名が荻野吟子だって、決して無意識ではないのだろう。その名に読者が

ーーあれっーー

と戸惑うのも計算しているにちがいない。計算しながら決してその名の由来など語らない。
70代の女性と20代の女性の年齢の隔たりの中の、恋や就職、そして将来のこと、そのすべてにいつも切なさが匂う。
生きているのは切なさなで、小説というのは何時の世も、せつなさを描くものものだということを再認識させられた。

「わがまま」の成果 筑紫磐井

2007年3月1日 木曜日

 結社誌と同人誌の違いはその「わがまま」度にある。同人誌は、編集部や会員同人のおもわくなど気にしないで、自分が良いと思うものを徹底して追求してゆく。
 例えば、1970年代だからずいぶん昔のことになるが・「黄金海岸」という同人誌があり、わずか六人の小さな雑誌ながら、そこで正岡子規論を黙々と書き続けた評論家と、与話情話というシリーズ作品を書き続けた作家がいた。二人とはいまや子規研究や現代評論で知らぬ人もない坪内稔典と、十年前夭折したが今も多くの愛読者を持つ攝津幸彦である。個人の力が時代を変えてゆく実感を持てるのが同人誌のよさだ。
 そうした「わがまま」ぶりが最近特に目立つのが同人誌「ににん」(代表・岩淵喜代子)だ。同人誌だから同人がいるのだが、清水哲男、正津勉、田中庸介ら詩人をたくさん加入させ、発行人は勝手気ままに作品・評論に没頭している。
10月で創刊六周年を迎えたが、この号で長大な「石鼎評論 海岸篇一挙掲載」を嬉々として執筆しているのである。
 近年、大正期の蛇笏、石鼎、普羅などが高く評価されているが、まだその研究は十分とは言えない。特に彼らの青年時代は、考えてみるともう百年も昔のことになるのだから調べるのも並大抵ではないのだ。執念を持って、他人の迷惑も顧みず入れ込む研究者がいなければ成果はなかなか上がらない。結社ではできないそうした仕事を、敬意を持って見守りたいと思う。
 このほかにも「円錐」(代表・沢好摩)の今泉康弘らの渡辺白泉論、個人誌ながら「弦」(遠山陽子)の三橋敏雄論は立派な仕事だと思う。いずれまとまる彼らの仕事を一本として刊行してくれる出版社が出ないものか。マイナーないい仕事を支援してこそ初めて文化国家といえるだろう。

(平成17年11月26日東京新聞夕刊より転載)

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