2007年12月 のアーカイブ

根本佳代子「恋ごころ」  新日本文芸協会刊

2007年12月10日 月曜日

最近小さな句集を頂いた。
小さな句集といったのは、総ページ数八十頁、句数が百句に満たないような本だからである。むしろ、その句数の少なさが、全てをじっくり読ませるかもしれない。あまりに厚い句集は、それだけで、作品を粗末に読み過ごしてしまいそうだ。

この句集の編集も気に入った。普通は二句か三句を均等にページに収めていくのだが、この句集はそうではない。一句のページがあったり、三句のページがあったりして、緩急を自ずと句数で表現している。内容はそのタイトルで誰でも想像できる恋句である。

古扇子閉じて開ひて夜が明ける
籐椅子や右ひぢだけが飴の色
西日入る障子に一羽飾り鳥
行く先を問ふこともなし流し雛
さくらんぼ一人ぼつちを先に食べ

一句目の扇子の句は、まさにきぬぎぬの別れ際のような句。俳句をはじめて、一年ほどの作者とは思えないレベルである。ににん 

頂いた鑑賞

2007年12月1日 土曜日

雫する水着絞れば小鳥ほど    「俳句」九月号発表

★水着の嵩をたとえて小鳥といっている。小鳥の形というよりも、小鳥に象徴される、飛び立つような軽やかさといったもの。ぴちぴちとしていて明るい。水着を着ていたその人を表しているような躍動感がある。(「俳句」11月号 西山 睦氏)
 
★俳句は、一読、作者が男性か女性か断定できるものは以外に少ないが、掲句は明らかに女性の作品であり、楽しい雰囲気である。〈絞れば小鳥ほど〉とは、大胆なビキニ姿であろうかと一舜ドキリとしたが、再読〈小鳥〉が響き合い、生き生きと清潔な御句と思った。〈「七曜」11月号 東 良子氏)

★水着というものは脱いでしまえばなんだか身も蓋もないような、不思議な物体になってしまう。さっきまで身に着けていたものが、手のひらに乗るほどの大きさだというのもなんだか少し気恥ずかしい。その不思議な感覚を「小鳥ほど」という措辞が愛しく、鮮やかなものに変えてくれる。(「若竹」11月号 田口茉於氏)

★「小鳥ほど」のサイズを考えるとお孫さんの水着であろうか。句の内容は非常にシンプルである。「小鳥ほど」という見立てがすべてであるが、その愛らしさが作者の愛情を伝える。(「樹氷」11月号 白濱一羊氏)

★多分、若い子たちの水着。泳いだあとの濡れ髪のまま、水着をすすいでいる。きゅっと絞れば、双の手にとりどりの色あざやかな小鳥を包んでいるような。小さな水着を誇りつつ夏を楽しむ眩しい肢体、小鳥のやうにさざめきながら、これから次の遊びへと飛びたつらしい。小鳥ほど、の描写の視覚と感覚の冴えに共鳴しきる。(「天為 」11月号 永井由紀子氏)

陶枕や百年といふひとくくり    「俳句」九月号発表

★過ぎてみれば、10年など飛ぶようであったが、百年がひとくくりとなれば、時の流れはいくらかゆっくりめに感じようというもの。ひんやり首すじに触れるのは、涼し気な絵のついた陶の枕である。昼寝覚めの茫洋として醒めやらぬ間の述懐めいた句だが、ゆとりのある小粋な句である。(「麻」11月号  飯田綾子氏) 

★平均寿命の増大によって、「百年といふひとくくり」の重みというか、質的な意味合いが変わってきた。等身大となった百年が、年代物の「陶枕」の格好の取り合わせである。「「松ノ花」11月号 平田雄公子氏」        ににん

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