本はもちろん内容が重要だが、それをさらに価値あるものにするのは装丁である。この評伝小説のカバー、表紙、帯、見返し化粧扉のすべてが、美術館などの所蔵の芋銭の河童の絵。それをふんだんに使っている。
芋銭といえば牛久沼のほとりで河童の絵を描いていた画家として誰でも知っている。しかし、それ以上のことを知っている人は案外少ないのではないだろうか。
この投稿は 2008年12月30日 火曜日 02:02 に 受贈著書 カテゴリーに公開されました。 この投稿へのコメントは RSS 2.0 フィードで購読することができます。 このページの一番下でコメントを残すことができます。トラックバック / ピンバックは現在受け付けていません。
蒲田駅西口の繁華街を抜けて静かな住宅街に入ると、民家のような古い建物があり、それが「河童亭」という居酒屋でした。亡くなったご主人も河童の絵が好きで、あとを奥さんが継いでいましたが、小川芋銭の河童の絵も見せてもらった事があるので、それにちなんで「河童亭」と名づけたと聞いた記憶があります。『鬼平犯科帳』に出て来る軍鶏鍋屋「五鉄」のイメージでお店を作ったとか。染色家の芹澤銈介の暖簾や、ガラス工藝家の各務鑛三の作品がそこここに置かれた大人の隠れ家でした。独特の形をした酒器に菊正宗秀天涯の樽酒を人肌で女将さんがつけていました。少し熱燗気味かなと言うと、ごめん間違えたと新しくつけなおしてくれるほど、燗の温度には妥協しませんでしたが、寄る年波には勝てず、昨年店を閉めました。大根を一斗樽の糠味噌に一本丸ごと漬けて、分厚く切って出す〆の大根の漬物が絶品でしたが、若い客が来るようになって臭いと言われてやめたと聞いて、こういう大人の隠れ家にガキは来るなと憤慨しましたが、年もあるでしょうが、お客が変わったことが店を閉めることになったのでしょう。お酒の呑み方を教えてくれるお店が少なくなりました。 そういう思い出があるので、「河童亭」を偲んで菊正宗の樽酒を人肌で含みながら、正津勉さんの『河童芋銭』楽しませてもらいます。正津勉さんの初小説『笑いかわせみ』は「荒地」の詩人達が生き生きと描かれていて、当時を知る者には笑いこけながらしんみりとする見事な小説でした。
芋銭は牛里という俳号を持つ俳人でもあり、わたくしも東男なので、水戸街道をバイクで若い頃は帰省していたので、牛久に寄って必ず蒲焼を食べてました。牛久沼は鰻も有名なのです。
五月雨や月夜に似たる沼明かり 牛里
という句碑が三日月橋公民館に建っています。
岩淵さんの石鼎さんの本も、こういうカラフルで明るい装丁になると楽しいかも。
猫髭さん、「笑いかわせみ」を読んでいましたか。今、当の正津さんと呑んできました。今は碧梧桐の扱われて方に憤りをもって、「ににん」に書きだしました。
皆で、虚子の内側と外側の俳人について話が盛り上がって、これから行なう座談会のテーマも自ずと、石鼎と碧梧桐にきまりました。多分面白くなるとおもいます。
「呑んで」というのはわたくしのようにガブガブ呑むのを言うので、わたくしが五杯呑む間に岩淵さんのグラスが五ミリ減るのは「嘗めて」と言うのですよ。今度呑む時はお猪口にビールを注いで、残りはわたくしが飲み干しますです、ハイ。
子規の『病牀六尺』の七十一節「甘酒屋打出の濱に卸しけり 青々」は、何度読んでも子規と碧梧堂のやりとりが素晴らしく、『墨汁一滴』もそうですが、子規と碧梧堂は本当の師弟だったなと感じ入ります。子規を外すと、あの二人は「俳諧須菩提(ズボダ)経」でドタバタ泥仕合をやりあうので、どっちもどっちですが、子規がやろうとしたことを、それぞれの分で敷衍したとは言えますね。座談会、楽しみです。
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蒲田駅西口の繁華街を抜けて静かな住宅街に入ると、民家のような古い建物があり、それが「河童亭」という居酒屋でした。亡くなったご主人も河童の絵が好きで、あとを奥さんが継いでいましたが、小川芋銭の河童の絵も見せてもらった事があるので、それにちなんで「河童亭」と名づけたと聞いた記憶があります。『鬼平犯科帳』に出て来る軍鶏鍋屋「五鉄」のイメージでお店を作ったとか。染色家の芹澤銈介の暖簾や、ガラス工藝家の各務鑛三の作品がそこここに置かれた大人の隠れ家でした。独特の形をした酒器に菊正宗秀天涯の樽酒を人肌で女将さんがつけていました。少し熱燗気味かなと言うと、ごめん間違えたと新しくつけなおしてくれるほど、燗の温度には妥協しませんでしたが、寄る年波には勝てず、昨年店を閉めました。大根を一斗樽の糠味噌に一本丸ごと漬けて、分厚く切って出す〆の大根の漬物が絶品でしたが、若い客が来るようになって臭いと言われてやめたと聞いて、こういう大人の隠れ家にガキは来るなと憤慨しましたが、年もあるでしょうが、お客が変わったことが店を閉めることになったのでしょう。お酒の呑み方を教えてくれるお店が少なくなりました。
そういう思い出があるので、「河童亭」を偲んで菊正宗の樽酒を人肌で含みながら、正津勉さんの『河童芋銭』楽しませてもらいます。正津勉さんの初小説『笑いかわせみ』は「荒地」の詩人達が生き生きと描かれていて、当時を知る者には笑いこけながらしんみりとする見事な小説でした。
芋銭は牛里という俳号を持つ俳人でもあり、わたくしも東男なので、水戸街道をバイクで若い頃は帰省していたので、牛久に寄って必ず蒲焼を食べてました。牛久沼は鰻も有名なのです。
五月雨や月夜に似たる沼明かり 牛里
という句碑が三日月橋公民館に建っています。
岩淵さんの石鼎さんの本も、こういうカラフルで明るい装丁になると楽しいかも。
猫髭さん、「笑いかわせみ」を読んでいましたか。今、当の正津さんと呑んできました。今は碧梧桐の扱われて方に憤りをもって、「ににん」に書きだしました。
皆で、虚子の内側と外側の俳人について話が盛り上がって、これから行なう座談会のテーマも自ずと、石鼎と碧梧桐にきまりました。多分面白くなるとおもいます。
「呑んで」というのはわたくしのようにガブガブ呑むのを言うので、わたくしが五杯呑む間に岩淵さんのグラスが五ミリ減るのは「嘗めて」と言うのですよ。今度呑む時はお猪口にビールを注いで、残りはわたくしが飲み干しますです、ハイ。
子規の『病牀六尺』の七十一節「甘酒屋打出の濱に卸しけり 青々」は、何度読んでも子規と碧梧堂のやりとりが素晴らしく、『墨汁一滴』もそうですが、子規と碧梧堂は本当の師弟だったなと感じ入ります。子規を外すと、あの二人は「俳諧須菩提(ズボダ)経」でドタバタ泥仕合をやりあうので、どっちもどっちですが、子規がやろうとしたことを、それぞれの分で敷衍したとは言えますね。座談会、楽しみです。