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焼き芋の肩やふはふは力抜け   曇遊

★サツマイモを熱した石の中に埋めて込んで間接加熱する石焼芋の甘さは最高。リヤカーをひいてやってくるその熱々の焼芋はさながら掲句である。芋の皮がぺろっとむけるその瞬間の感覚であろう。もう一つはアルミ箔に包んで落葉に火を焚きつけること一時間、ほじくり出した焼芋のアチチチというヤツ。いずれにしても「肩」をもって焼芋の焼加減を引出すとはまこと栗より(九里四里)うまい一句である(昌子)

肩上げの糸繰る母や七五三   佳子

★懐かしい風景である。七五三の着物はどちらも肩上げ無しには着られない。その肩上げも、成長によって少しずつずらしていくので、解いては子供の裄丈に合わせて縫い直すのである。この句は、その解くときなのか、あるいは、肩上げにかけた躾糸を取るときなのか。とにかく、抜にながら手に巻き取ってゆく仕草に目を留めているのである。回想のようにも思われる。(喜代子)

秋刀魚食うや肩の長さに髪切って   あきこ

★一見関係のないような取り合わせ。そして、一見なんの理にも繋がらないような二つのフレーズなのに、秋刀魚を中心にした、きわめて焦点が定まった映像が立ち上がる。秋刀魚を食べる人の肩のあたりに揺れる髪の動きが爽やかに見えてくる。新鮮な取り合わせである。(喜代子)

竹箒肩で支へて拾ふ栗    大木 雪香

★昨夜の大風の後を掃こうと出てみれば、おもいがけない旭の中に贈り物が落ちていた。吹き千切れてまだ青い毬の中につややかな栗を見つけた喜び。早起きの特権でもあろう。箒の柄を肩で支えたという仕種はだれ彼に少なからず経験のあること。素直に共鳴出来た一句であった。(恵子)

胸周り背丈肩幅毛糸編む   平田海苔子

★スローフードから始まり昭和への回帰が昨今暮らしの各方面に取り上げられるようになった。掲句は原点の手編みの姿が余すところなく描かれている。編み棒のついた編みかけを後姿に当てている光景が目に浮かぶ。家族の多かった昭和の家庭の懐かしさである。(恵子)

肩借りて鼻緒きしきし後の月   遊起

★新しい下駄や草履は鼻緒がきつく硬かったりする。着物でちょっとお出かけをしたのだろう。途中で少し痛くなって、鼻緒を伸ばすのに、肩を借りたのだ。「肩借りて」という表現で男性の肩を連想するのは、後の月という季語が十三夜であり、樋口一葉の世界をおのずと重ねてしまうからだろう。月夜に二人のシルエットが浮かびあがるようだ。(千晶)

知らぬくせに肩入れをして夜長かな    廣島屋

★人間というのは、どこか直感的なところで、相手への好き嫌いが決ってしまうところがある。それは自分でも処理し難い感情なのである。よくも理解していないのに、好感を持つ方の人間に肩入れしている自分を夜長という時間に置いて眺めている(喜代子)

肩先で息ととのえる秋の蝶    荒池利治

★秋の蝶と夏の蝶がどう違うのかは、もしかしたら人間の感情が映像化させているのかもしれない。それも、秋という季節が人間に哀れをことさら強く感じる情感を湧かせるからだ。肩にきた秋の蝶が息をととのえている、と観るのも秋の季節がもたらす感情である。(喜代子)

肩寄せて微笑みかえす秋の風     半右衛門

★秋風の本意の中には人間を和やかにするものがある。この句は人間の心持を秋風が支配しているような気持ちにも思える句。秋風という季語を生かした句である。(喜代子)

花梨の実都電の肩のすれすれに      さわこ

★ただ一つ残る都電荒川線、終点の早稲田で運転手乗り換え。角帽の学生もすべて郷愁。(もとつぐ)

★花の季節には、撓うことのない枝に大きな実がついた。枝にぴたりとつく性質ではあっても、落葉したあとの黄色に輝く大きな実は目立つ。素直な写生で、人気の荒川線のどのあたりであろうか。お目にかかりたいものである。(恵子)

★何といっても「都電の肩」がすばらしい。荒川線のあの路面電車は本当に「肩」といいなすにふさわしい人間的な走りをしてくれる。そして、その肩に触れるのは何の草木であってもいいのだけれど、少し無骨な花梨の実を選びとったところが作者の感性である。巧まざる市井の表情を切り取っている。(昌子)

秋蝶のロダンの肩にとまりけり     坂石佳音

★国立京都博物館前庭、ネオクラッシックの建物に「考える人」像が映える。秋は「狩野永徳展」(もとつぐ)

ぶらんこに容るる秋思の肩の幅    猫じゃらし

★ぶらんこを吊っている二本の鎖、それも幅に視点をおいたものはまだないかもしれない。その幅に自分の肩幅を納めている風景。秋思の自意識を肩の幅で具象化して、肩がさりげなく使われている。(喜代子)

地芝居や父の胸蹴る肩車     石田義風

★農村歌舞伎、安乗文楽なども地芝居の部類なのかもしれない。村の伝統として次の世代に引き継ぐ舞台は、みんな見知ったもの同士が演者であり、観客である。特別な観客席ものないから、父親の肩車も子供の客席である。「父の胸蹴る」の措辞は舞台の演目と繋がる空気が感じられる(喜代子)

★先日、当麻寺山門で地芝居出番待ちの一行に出会った。出し物は中将姫であろうか、白塗りの顔がべったりと秋日に映えていた。句会に急いで観劇はかなわなかったが、掲句を拝していよいよ地芝居というものが恋しくなった。地芝居の子役がオマセなら、肩車の子供もオマセさんなんだろう、やんやの拍手喝采が「胸蹴る」であきらかに伝わってくる。一番楽しんでいるのはお父さんかもしれない。気さくな温みこそが地芝居の醍醐味であろう。(昌子)

なで肩のままの写真や暮の秋     廣島屋

★暮の秋はしみじみと秋を堪能したあとの寂しさのにじむとき。 これは修正の効くスタジオ写真ではない。ありのままの姿で出来上がっているこの一枚は、暮の秋という季語に合致し生かされているのではないだろうか。(恵子)

肩凝りは星の引力星月夜      祥 子

★闇夜に、星の光が月のように明るく見える夜のことを「星月夜」という。澄み切った秋の夜空を、星座を探しながら宇宙遊泳をしているのである。星と星の空間を結ぶ引力に思いを寄せながら、ふと我に返って肩の凝りを感じたのだ、これも「星の引力の成せる業だったのか・・」と、不可思議な秋の夜ならではの情感である。(竹野子)

肩たたきたき母さんの墓に菊   大木雪香

★秋の涼気に包まれながら、墓前に手向ける菊の香りのなかに、晩年の母の面影を偲ぶ。生前よく肩を凝らしていた母を思うとき、「もっと労わって上げればよかった。」と自責の思いに駆られるのであろう。「上5・中7」を変調にしたことと「たたきたき」と「ひらがな」にしたことで、一層の趣が加わった。(竹野子)

肩よりも高きを飛ばぬ秋の蝶     ミサゴン

★夏に比較すると秋の蝶は小さい。黄色い小型を良く見かける。移ろう季節の中の秋蝶の特色がよく描かれている。兼題にたいしても無理がなかった。(恵子)

肩の傷舐めて出て行く猫の恋     西方来人

★戦いおへて豊満凄惨なる春の宵。(もとつぐ)

羅漢像肩組み合いし良夜かな     華子

★名月の輝く光のなかに羅漢さんの語らいはいかに。 (もとつぐ)

★羅漢のことをそれほど知っているわけでもないが、いつも身近な存在である。身近に感じられるのは、多分その気ままな姿勢にあるのだ。本を開いているのあれば、内緒話をして居るような一対になった羅漢もある。作者の見たのもやはり肩を組んだ一対の羅漢。良夜には、その語らいも聞えてくるにちがいない。月にはそんな不思議さがそなわっている。(喜代子) 

いかり肩なで肩秋の山の肩      しかの

★大きな景を詠んだ句が少ない中で、この作品は光っていた。その上で、秋という季語も揺るがない。春の霞んだ山並、夏雲の湧く山、雪をいただく峰を想い描いた時、秋の味わいが一番しっくりと似合うのだった。(恵子)

★高く角張った肩、なでおろしたようななだらかな肩、それらは人々の肩であるが、秋の山の肩、と肩が三つも弾みながらかつカタい韻律でつながると、それはもう秋の嶺々の稜線そのものとして眼に見えるように起伏が感じられる。空気の澄んだ秋ならばこその自然と人間の一体感である。山々は紅葉して人間界に親しく情感を投げかけてくれる。そんな「秋」に「肩」がよく呼応してさわやかである。(昌子)

肩に落つ夕日その後の一葉かな   大木雪香

★高く角張った肩、なでおろしたようななだらかな肩、それらは人々の肩であるが、秋の山の肩、と肩が三つも弾みながらかつカタい韻律でつながると、それはもう秋の嶺々の稜線そのものとして眼に見えるように起伏が感じられる。空気の澄んだ秋ならばこその自然と人間の一体感である。山々は紅葉して人間界に親しく情感を投げかけてくれる。そんな「秋」に「肩」がよく呼応してさわやかである。(昌子)

生れしより肩書き持たず秋桜    華 子

★秋桜は、花の形が桜に似ていることからコスモスの異称で、俳句では良く使われる季語である。 生まれてこの方今日まで、肩書きを持たずに生きて来たことを自負しながらも,春爛漫の桜ではなく楚々として風情を誘うコスモスに自分を重ねて過去を偲びつつ将来を見据えている作者の人望がみえてくる。『 秋桜 』がよく効いている。(竹野子)

★名刺をいただくと、裏にまで及ぶ肩書きの多さに時に圧倒されることがある。しかし、作者は一度も肩書きというものをもったことがないのだ。風に可憐に揺れる秋桜のように、無一物に生きてゆくことの潔さと、それを肯定するやさしさが感じられる。(長嶺千晶)

肩越しの遠山白し星月夜    西方来人

★そっと彼女の肩に手を添えながら白秋の遠嶺を望むふたりの影絵が見えてくる。しかも澄み切った空気のもと星の瞬きが降り注ぐ、稜線を余した空の白さがいっそう胸の高鳴りをかもす。人間、死ぬまでロマンスシートに腰を下ろして愛を捧げ合いたいものである。(竹野子)

敗北に肩落す白運動会  ミサゴン

★仲の好いクラスメートと相別れて競うことになった運動会であろうか。作者は、勝組か負組か謎賭けのような句であるが、中七の「肩落す白」の『白』がこの句の眼目である。 中国古来の哲理とする五行説によると、「春を青陽(せいよう)・青」「夏を朱夏(しゅか)・赤」「秋を白秋(はくしゅう)・白」「冬を玄冬(げんとう)・黒」としていることから、芭蕉時代における季語一覧では、これらを各々、春夏秋冬の異称としているのである。(竹野子)

肩の荷のおりていささか肌寒し     大木 雪香

なにごとも一生懸命やっているときには、それ以上のことは感じないものです。荷をおろしてということは責任や負担から解放されること。そのほっとした瞬間にちょっと肌寒さを憶えたことを詠んでいてよく情景が分かります。この句はいささか肌寒しなので、それほどの肩の荷ではなかったと思えます。(上田禎子)

豊年の肩抱きあふ道祖神   森岡忠志

★村落の辻で禍や悪霊を防ぐとも、旅の安全を守護するとも信じられてきた、まことに民の頼り甲斐ある神。睦見合う神でもあり、そこを収穫の喜びを表現した抱きあいと見立てた考察が面白かった。(恵子)

★素朴に肩を抱き合う道祖神、今年は豊年満作だろう。赤とんぼも訪れる。(もとつぐ)

古酒呑んで五十の果ての五十肩   ハジメ

★先日世界俳句協会の第4回の総会があった。初めて講演を聞いた。外国語の講演が理解できるわけではないが、有季定型だけが俳句ではないといわれたような気がした。五十肩が外国にあるのだろうか。五十の果ての五十肩というあらわし難い嘆きが、日本語以外に表現できるとは思えない。芳醇な味わい深い一句である。(恵子)

肩だけが知っているなり女郎花 小兵衛

★気になる句でしたが、原句のままですと字足らずになります。肩口だけに見えている現在の状景と受け取るのであれば、中七は、「知っているなり」で続いていることを表したほうが納まりがよいと思います。能に「おみなめし」があって男塚女塚のいわれを説き、恋の迷いを語る女郎花でもあるのですね。(恵子)

とんぼうを肩にしばらく歩きけり     たんぽぽ

★蜻蛉と肩の距離感が眼に見えるようである。清澄な空気を蜻蛉もろともに運んでいるような少し緊張した気分が楽しい。〈肩に来て人懐かしや赤蜻蛉〉と詠った夏目漱石、〈蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ〉と詠った中村草田男等、強烈に眩しい秋日の中をヒューッヒューッとよぎるものに人は生きている今を無意識にも確認している。そんな「しばらく」が尊い。(昌子)

★久しぶりに平明で分かり易い良い句に出会った。 田舎育ちの私には、幾度となくこんな情景に出会ったものだ。蜻蛉や蝶、蝉や飛蝗、尺取虫、昼寝のとき百足が手の甲を這っているのに気づき泣き出しそうになったことがある。そのとき母が「手を動かすなア」と張り裂けるような声で言った。じっとしていたら腕を伝って畳みへ逃げてくれた。くわばらくわばら。ところで、揚句のフレ—ズは俳句実作の初期の頃よく目にするので類句が多いことを知っておかれるとよいでしょう。素直な俳句つくりに好感。(竹野子)

山男すすきを肩に戻りけり     たんぽぽ

★山男のダンディズムである (もとつぐ)

★山を下ってくるとき、最初は樹林帯もないようなところから、杉林、赤松林などを通ってやがては薄原にでる。山を下りてきたと実感するのは、この薄原である。ここまで来ると、下の道路の自動車の音なども聞こえ人里も間近。すすきを肩にして戻ってきた山男の表情にもやすらぎがある。迎える側にも安堵がひろがる。すすきという植物がこの句にリアリテイをもたらした。(千晶)

秋の蝶髪から肩をつづれぬふ    隠岐灌木

★綴れとは、破れたのを継ぎつづった衣のことで、破れ衣・綴れ衣とも言う。享保7年(1722)4月の宵庚申の夜、大阪新革靫町の八百屋の養子半兵衛が女房お千代と生玉馬場先の大仏勧進所で心中したという巷の話を脚色した、近松門左衛門の世話物、心中宵庚申『しんじゅうよいごうしん』の道行の下り「・・綴れの肩を裾に結び・・」が偲ばれる。『髪から肩を』の中七の措辞が、濡れ場(情事の場面)を思はせる。昭和20年前後「綴れ縫う」は日常茶飯事の情景であった。蝶の仕草に歴史の一端を重ねた手柄と受け止めたい。(竹野子)

肩車され名月に手を伸ばす    森岡忠志

★肩車に乗った幼子であろうか、「ぼく、お月さんに手がとどくよ・・」などと言いながら手を伸ばす姿が見えてくる。昔、母に「お月さん取られへんの・・」と言って困らせた事があった。それを聞いていた祖父が、お母さんの手鏡を手に持たせて「ほれ、お月さんが取れたぞ」と喜ばせてくれた事を思い出した。「名月を取てくれろと泣く子かな・・一茶」。(竹野子)

肩越しに俺取ってやると敬老の日   たか楊枝

★この風景は多分若者ではなく老夫婦。あるいは老いを労わる息子だったかもしれない。どちらにしても労わられていることに心地よさを感じている作者がいるのである。(喜代子)

肩越の授業研究爽やかに   半右衛門

★無理に肩の字を加えると肩が凝る。同僚の教師の授業研究は斜に構えて肩越しに覗き込む。おや赤とんぼがとんできた。(もとつぐ)

肩こりは灸が一番鳥渡る     岩田勇

★鑑賞文を打つパソコンも肩こりの源、終わったさあ灸を打とう。(もとつぐ)

★「肩こりは灸が一番」という、歯切れのいい表現が肩凝りを吹き飛ばしてくれそうな明るさをもっている。暗いことを明るく表現するというのは、俳諧の極意。さわやかな空を渡る鳥もその言葉に力を得て、力強く渡ってくるだろう。(喜代子)

月涼し肩甲骨に触るる髪       戯れ子

★一見して肩より長い黒髪が想像される。月の光がすべるであろう、癖のない長い髪を保つことには本人の努力が必要である。自ずからしっかりした女性が髣髴としてくるのだった。月と髪の取り合わせが官能的でさえある。(恵子)

肩幅をはかりてをれば夜の蝉      リズ

★仕立てのための採寸であろうか。自分で図るわけはなく、図られているわけで、蝉を通した会話が聞こえて来る。類句類想を寄せ付けない着目であった。(恵子)

出湯小屋へ肩幅ほどの月の道       たかはし水生

★「肩幅ほどの」という、身体感覚で捉えた道幅は、寸法を明確に示すと同時に人の足音や息遣いまでも実感させられて月夜の臨場感たっぷりである。月光を浴びながら一人出湯をさしゆく細道は何と清らかで静寂であろう。観光化や商業化した温泉街にはもうこのような風流な幸せはないように思われる。(昌子)

肩越しに風来る朝の深山蝉        リズ

★深山蝉とはみんみん蝉のこと。だが、この句が「肩越しに風来る朝のみんみん蝉」では何の事もないことを作者は心得ている。「深山」という二字が詩的感興である。ほんの一字でもって俳句はぐっと印象が濃くなることを教えられる。ひんやりした風を肩越しに、ミーンミーンの声もいっそう高らかである。(昌子)

肩書きを外して酌むや秋の暮れ     西方来人

★肩書とは、氏名の右上に役職名などを書くことだが、「肩書きがモノをいう」などと言はれるが、高い地位や身分・称号などを得た人にはそれなりの責任が課せられているのだ。 「今日は無礼講でやろう」などと貴賤・上下の差別なく礼儀を捨てての一献は格別である。団塊世代の多くの人は退職して、家で呑む酒の味は、ほっとする反面・寂しさが漂うものである。『秋の暮れ』の季節感が、その情感を一層深めてくれる。(竹野子)

肩ふれてより秋風の通い道     リズ

★年毎に記録更新の猛暑や洪水に苛まされた夏もやっと終ろうとしている。何気なく通り抜ける路地裏あたりであろうか、一陣の風がサアーと肩に触れて吹き抜けてゆく・・その刹那に『秋』を感じたのである。「肩ふれてより」に風と自分の情感が一つになった実感を肩肌で感じた爽やかさが心地よい。(竹野子)

年毎に肩身の狭き夕端居     半右衛門

★定年退職をして何年か過ぎ去った今では「わしが稼いだ金で家族を養っているのだ・・」と自負した頃が懐かしい。年金生活の身となれば、いやはや心もとないのが実感である。世界で何番目かの経済大国と言はれ、福祉国家を標榜するわが国の老後。とても豊かさを実感できる状況ではない。『端居』とは、家屋の端近くに出て居ることだが、特に夏の夕方に涼を求めて縁側などに居ることを『夕端居』という。胸を張って生きてゆこう・・。(竹野子)

★なぜ肩身が狭いのかは言われていないが、年毎にとあるから昔はそんなこともなかったはずである。定年を過ぎた夫への世間のあだ名は粗大ごみとか、ぬれ落葉とかしんらつだったりする。ここは何とか気力を回復して、もうひとがんばり。たくさん投句をして下さった心意気にもありがとうを言いたくなる。(千晶)


予選句

七五三肩の高さでポーズ撮る西方来人
肩越えてほのか匂いや枇杷の花西方来人
肩先にふれし薄ら日一葉忌 ミサゴン
藤色の肩掛け似合うボンジュール曇遊
くつろげば肩来て止まる蜻蛉か祥子
肩抱く愛など知らず大根蒔くひろ
先肩の冬将軍だハジマルゾ曇遊
枯葉敷き路肩を隠す小道あり半右衛門
肩肘を張ることも無し芋煮会岩田 勇
スーツとは肩で着るもの秋涼し岩田 勇
稲架の肩くすくすわらう月明かり 曇遊
膏薬を剥がす肩越しあんぽ柿 大木 雪香
母と同じ肩幅であり十三夜廣島屋
強肩で鳴らした父と温め酒廣島屋
肩ゆるく生きて勤労感謝の日ひろ
秋日和孫不意に肩叩きacacia
肩もみの上手き子もあり秋明かりacacia
暖簾撥ね肩で風切る夏祭り石田克二
いが栗に肩すぼめたる散歩道松尾多聞
ピーナッツ肩でリズムをとってい曇遊
障子貼る肩寄せ合ふて父と母たんぽぽ
振り向けば肩に紅葉葉鮮やかに半右衛門
肩凝りの根の深まるや冬近し大木 雪香
肩で息して落蝉の果てにけり大木 雪香
肩に薯持たされており泣く子かな半右衛門
夜を寒み胡坐の肩を子が叩く隠岐灌木
にらめっこ肩が笑うよ雀蛤曇遊
あかんぼの肩は爺似だ菊の酒曇遊
コスモスの肩にも触れぬエアポート半右衛門
秋深し肩のたきぎの軽さかなacacia
赤蜻蛉肩の周わりに集まれり半右衛門
秋澄みて肩の痛みの遠きかな半右衛門
小鳥来る肩を鳴らしてゐたりけり海音
野天風呂肩をつければ秋の声西方来人
山峡や野風呂の肩を秋の風 西西方来人
野風呂から肩越し見るや稲の秋 西方来人
肩幅の広い農夫に夕紅葉曇遊
肩越しに「あれは無花果」夫(つま)の聲lazyhip
肩口に雀を許す案山子かな西方来人
油切れの右肩痛き夜寒かな岩田勇
肩かけを膝に置いてる初秋かな 西方来人
すつぱいぞ土手のすかんぽ肩すかし祥子
肩肘を張って嫌いと金木犀 曇遊
白菊へ肩埋めたる朋なりきshin
黒髪の肩に遊べる秋の宵半右衛門
色鳥や肩飛び越して吐息つき小兵衛
肩に露指にまとわる蜘蛛の糸小兵衛
肩書きに疲れた帰途に鳳仙花桂凛火
肩組んで見上げしことも星月夜しかの
おとうとの強肩自慢にごり酒 ヒデ
肩車父の思い出秋祭り華子
しやくりあげ続くる肩へ草の絮shin
唐茄子を叩いて聴いて肩すくめshin
小鳥来て五百羅漢の肩たたくハジメ
力みなく生きよと蜻蛉肩先に華子
浅草の燈籠祭り揺れる肩曇遊
夜学生肩肘張って生きる癖ミサゴン
饒舌な男の肩や秋灯たんぽぽ
コスモスや風に翳りの路肩かな西方来人
名月や幾重の山の肩照らす西方来人
肩肘をまだ張っている敬老の日曇遊
おなもみは悪戯っ子の肩章や 曇遊
露のりてとがる肩骨やさしくて小兵衛
古酒呑んで五十の果ての五十肩ハジメ
うかれ猫肩で息する塀の上祥子
秋の雲肩車せし子の親に祥子
寝転べば肩にて鳴けり草ひばり 中村光声
独りならこの肩止まれ赤とんぼ中村光声
新涼や悪魔の滑る夢想肩 岩田  勇
肩口の種痘の痕や秋の風西方来人
玉の汗拭きつ球児ら肩慣らし西方来人
天高くとべぬ天使の肩甲骨ミサゴン
秋雨や肩を交互のレトリバー半右衛門
秋の風肩書き多き名刺かな半右衛門
撫で肩の和服の似合う案山子かな半右衛
長命の父はなで肩雁渡る和人
肩触るるほどの距離なる花野かな和人
肩の力抜いて聴くなり虫の声 ミサゴン
蟷螂の肩怒らせて帰りけり半右衛門
夕焼けに肩を並べて影遠し 半右衛門
くつわむし子はおでこ抱く肩車半右衛門
猛暑まだ肩甲骨の憶えけり半右衛門
双肩にパッチワークの案山子かな 半右衛門
無法者肩で風切る鬼ヤンマ半右衛門
のけぞって鬼の子肩へ下りきたるたかし
撫で肩の木陰に集う紙芝居半右衛門
寄せたくてよせる肩なし秋の宵ミサゴン
肩書きは無縁の肩よ神輿振る中村光声
肩の荷の食い込む重さ玉の汗西方来人
肩の荷をおろして清し秋小風横浜風
父と子の肩のならびて秋の暮れリズ
なつかしや夜店めぐりの肩車岩田勇
だしぬけに六十肩に襲はるる岩田勇
愁思ふと双肩といふ訓示かな岩田勇
ツクツクと肩の痛きや法師ゼミ岩田勇
肩車温さ伝わる秋祭り西方来人
肩章は戦い終わる金の筋半右衛門
オニヤンマ肩で風切る無法者半右衛門
なで肩を褒められてゐるラ・フランス戯れ子