岩淵喜代子著『二冊の「鹿火屋」』

「篠」171号より転載  筆者・『篠」副主宰 辻村麻乃

「鹿火屋」で原裕氏に師事されていた作者は二〇〇九年に『評伝 頂上の石鼎』で自分なりに感じた石鼎についてまとめている。 この『二冊の「鹿火屋」』では、そこでは触れ切れなかった石鼎の知られざる側面について論じており、大変興味深い一冊である。

虚子の門下にあって天賦のオ能のあった石鼎の復活が俳壇で起こらなかったことへの疑問からの虚子と石鼎の確執、深吉野抄 下四十七句の反響、『言語學への出発』への執着、昭和十八年からの病状、「神」の句の索引作り、そして石鼎のためだけに発行されたもう一つの「鹿火屋」の謎を解き明かしていく。

第一部の考証「原石鼎の憧憬」と二部の復刻、二冊の「鹿火屋」の原本資料、三部の寺本喜徳氏、土岐光一氏そして作者との鼎談から成り立つている。

「鹿火屋」創刊直後に石鼎は「人間は神や佛ではないので先の予測もつかないし、その真実を正確には掴まへられない。」と書いている。そこから作者は「石鼎の神認識は自然信仰という括りが当てはまる」と述べている。

作者も触れているが、娯楽の少ない当時の出雲では、神楽を子どもたちが真似をする「神楽ごと(神楽ごっこ)」とがとても楽しみな遊びの一つだった。その古くからの地域性も石鼎に神を詠んだ句が多いことの背景にあることも示されている。

水打つて四神に畏(おそ)る足の跡  大正三年
頂上や殊に野菊の吹かれ居り     大正元年

この大正元年に野菊を読んだ鳥見山が、古代より神と交わることのできる霊時の場であったことを知った経緯についても「鹿火屋」昭和六年十月号から検証されている。この年の九月に吉野から鮎が届けられた際に同梱されていた森口奈良吉著『鳥見霊時考・吉野離宮考』の一書がきっかけである。そこから深吉野と出雲が繋がることを喜ぶ内容が「深吉野抄 上」に示されている。そしてその続きが石鼎だけのもう一つの「鹿火屋」の「深吉野抄 下」に繋がっていくことを作者は示している。

その中の「消息」の「私にとって皆由緒有之」とは「出雲、深吉野、二官を記紀によって一つの時空に繋げることの歓びのことばである。」と作者は解釈している。

昭和八年二月号の「鹿火屋」に石鼎は「あやかりの歌」という試作の詩を発表していることも興味深く読ませて頂いた。これも韻律にこだわる石鼎だからこその詩のように感じられた。第二章の資料の石鼎用「鹿火屋」の「青雲草」の「土佐辮と出雲辮」で、様々なものから隔てられた土佐に古くからの発音が残っており、それが出雲にも当てはまることや、子音をローマ字表記をしてまでこだわり、小鳥三題の詩も韻を踏んだ軽いリズムの英単語を入れていることからも分かる。

詩人、谷川俊太郎氏も、FM局でのインタビューで、詩は言葉そのものよりも、そこから生まれるリズムによって表現するもので、音楽には敵わないと話していた。それでも、当時この韻律における深い考察及び散文は、石鼎用の「鹿火屋」の方に書かれていたのである。

このように隅々までこだわつていたものの、戦争の影響で廃刊の危機に晒され、国の情報局からの統合整備指導の中「平野」と統合することで免れた経緯も書かれている。

そして、このような「鹿火屋」自体の流れでなく、石鼎自身の動きについては、青年期までは『石鼎窟夜話』にあるが、後年は原コウ子氏『石鼎とともに』で間接的に伺い知ることしかできない。その意味でも、「手簡自叙博」の含まれる石鼎用「鹿火屋」の存在と考証した本書は大変貴重な著書なのである。

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