2013年5月7日 のアーカイブ

立夏

2013年5月7日 火曜日

三日が八十八夜で五日が立夏。その八十八夜に出会った人から、動脈硬化から壊疽の惧れが出て足を切断した人の話を伺った。会に参加できないのでよろしく、という伝言までいただい。それから二日後の立夏に親しい友人の訃報が届いた。こんな爽やかな季節に相応しくないわよと思っても、人間は日ごとに老いていくのである。それでも友人は、介護を受けながらも住んでいる家で亡くなったのは幸せなことではないかと思う。やはり日常の延長で終るほうがいい。

以前、豪華な介護つきの老人ホームに入った友人を訪ねたことがある。そこにぼんやりしている老人や車椅子の人がいなければ、ヨーロッパ調のホテルにも見えるのである。入会金も日常の費用も相当な資産が必要な高額施設である。しかし、そこに入ったら、ぼんやりした人々と暮らして、会話もなく、みんなが孤独な姿を曝しているような気がした。もう日常が見えなくなってしまった人はそれでもいい。

しかし、友人の場合は足腰は弱って車椅子でも脳が健在だった。私が入っていくと、久しく会わなかったにも関わらず、すぐに「あら岩淵さん」と名前を呼んでくれた。それから健康だったときの共通の友人の名前がつぎつぎに飛びだした。石鼎の話もしていた。歓談の途中で「トイレにいきたい」と言ったので、私は受付の人にそれを伝えたのだが、なかなか介護人が現れなかった。友人がまたトイレに行きたくなっちゃった、と言った。私はまた受付に走った。しばらくして私の傍らに寄って来たホームの人が「オシメを取り替える時間が決まっていますので」と、心配するなというような言い方だった。

これには愕然とした。身体が不自由になったら、かなり機械的な介護になるのである。これは意識の健在な人には地獄ではないだろうか。そこのロビーには各階のフロアーにふかふかのソファーが置かれて、個室もかなり広い。でも友人は一日中機械的な対応の介護人との会話しかないのである。もし、これが自宅にいたのなら、這ってでもトイレも自分で行けるだろう。自宅にいたなら近所の人が訪ねてきたりして会話があるだろう。お茶飲み話で時を過せたら随分と一日がたのしいだろう。

私は娘に宣言した。「私は介護施設などには入らないから、覚悟しておいて」と・・。あしたは、その娘夫婦と正月に泊ったホテルにいくことになっている。父の日母の日の纏めてプレゼントなのである。正月に宿泊したときに、具合いが悪くなり、私が夕食を前にしながら口に出来なかったのを残念がっているだろうと察して、同じホテルなのである。

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