2012年8月14日 のアーカイブ

『円錐』第54号 代表・澤好摩

2012年8月14日 火曜日

岩淵喜代子句集『白雁』

     ―― クビキとせつなさ               筆者 山田耕司

  箱庭と空を同じくしてゐたり
 作者が生きる日常と、箱庭と、それらにとって空は共有されている、という発見。この句の意をここで汲み取り終えたとするならば、それはあくまで一句の示す「情報」に接しただけの段階である。読むにあたり、人間の身体が五官を通じて得る感性のもろもろを投入して句のフトコロに入り込んでこそ、「情報」は「作品」の顔つきになってくる。「空を同じくし」ているという感慨は、箱庭を見ながらではなく、空を見ながら得ていると読者は受け取ることだろう。読者の現実の身体はさておき、読解のために作品のフトコロに投入した身体は、箱庭も空もいっぺんに見ることが出来ないので、まずは空を見上げるしかないな、と判断するからである。同時に、作者から与えられた情報によつて、読解のための身体は、自らを箱庭の上に立たせて空を見上げる。「空を同じくしてゐたり」という表現から〈実感〉を得ようとすると、箱庭の外にいる作者の視点を追体験すると同時に、同じ空を箱庭から見上げることになってしまうのである。かくして、われらが身体は、伸縮し、かつ、複数の地点に平行して存在することを体験させられる。こうした体験が日常の感性に還元される時に、ふだんは意識することのない「私」の感性の〈辺境〉や〈可能性〉が、ふいに手応えを以て読者に立ちあらわれることになるのだろう。

 俳句が、もともとそういうふうに作られるものであり、かつ、読まれるものである、と限定することはできない。俳句には、意味から解放された言葉が定型という器に憑依するようにつくられる場合もあれば、む
しろ、等身大の入間の記録以外は俳句と認めないという場合もあって、ひとくくりにはできないのである。ともあれ、岩淵喜代子は、書き記されている情報を超えたところに読者を誘う方法を、俳句形式において自ら見届けようとしているようである。

  花ミモザ地上の船は錆こぼす
 花ミモザの形状や目でなぞるところの触感と、もはや機能や意味さえも失いつつある船の身より剥落する錆の存在感は、(季語十類推される物質)という方程式に落ち着くこと無く、読解における身体感覚を揺さぶることになるだろう。

  寒禽や匙はカップの向かう側
 カップの「向かう側」と「こちら側」との過剰な意味から解放されている〈距離〉、そして姿がカップによって見えなくなってはいるけれども、五感で類推しうる匙の〈質感〉。こうした感覚を受信する身体において、「寒禽」をとらえてみよ、と作者は問いかけてくる。寒禽目‥カンキンという音が、句における匙やカップのありようへの体感を下支えすべく意図されていたとしても、作者の配慮においていぶかしむところではない。
 現実の作者の身体が感じたことを報告するのではなく、読者の身体感覚を揺さぶることをこそ契機とする作品つくり。そうした営みがなぜ行われるのかは、これも一元的には述べることが出来ない。しかし、もたらされる句には、本来は有限な存在である身体が、時空を超えて、あるいは伸縮しながら、なお身体でありつづけることのせつなさのようなものがおしなぺて漂う。句集『自雁』には、いささか理が語られすぎることで重たくなっている句も散見出来るが、これらも、こうしたせつなさへの志向があればこそのことであり、句において〈情報〉としての側面が雄弁に勝ったものと思えばよさそうである。

 晩年は今かもしれず牛蛙
 残生や見える限りの雁の空
 今生の螢は声を持たざりし

 俳句の俳とは、非日常です。日常の中で、もうひとつの日常を作ることです。俳句を諧謔とか滑稽など狭く解釈しないで、写実だとか切れ字だとか細かいことに終わらないで、もっと俳句の醸し出す香りを楽しんでみませんか。(俳句雑誌「ににん」より)  「ににん」は岩淵喜代子が中心となったウェブ上の俳句雑誌。一読「何でもあり」のように見えるが、実は、存在における有限というクビキを客体化した上での宣言なのだろう。『白雁』を読むに、その意深まるばかり。
 小豆粥穢土も浄土もなかりけり

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