2012年8月 のアーカイブ

友岡子郷句集『黙礼』 2012年8月15日 沖積舎

2012年8月24日 金曜日

灯の下に灯の色の枇杷喪服脱ぐ
山なみの一つ秀でて麦こがし
教壇に立ちゐしころの柘榴の実
青空をひろげむと雪?きゐたり
落葉落葉仏を彫るは何の木ぞ
いつもそこに潮濡れの椅子春の昼
洪水碑ときに花びらながれくる

この句集上梓以前に「友岡子郷全句集」を出している。そこには第八句集以後の4年半ほどの句も収録されている。それを第九集と数えれば、今回の「黙礼」は第10句集になると、自ら書き記している。
阪神大震災を体験した作者は、それ以後災害がテーマになってしまった。この句集もまた、その災害を尾にした句集である。

谷口麻耶句集『鏡』2012年8月  角川書店

2012年8月24日 金曜日

噴水のつぎつぎかたちが気になつて
囀りの外の鴉が啼きにけり
人ごゑの届かぬ高さ鳥帰る
万緑や鳥には鳥の道しるべ
届かざるところにいつもからすうり
ぞろぞろと行つてしまいぬ捕虫網
海風の通へる路地に鷹の爪

最近の噴水は意表をつくかたち、高さを見せてくれるので、思わずいつまでも立ちつくしてしまう。谷口氏の視点はそうしただれでも気に留めていたことを提示してくれることで、詠み手の共感を促す作品集である。

中村和弘句集『東海』 2012年7月  角川書店

2012年8月20日 月曜日

ぎんぎらの焼却炉据え梅まつり
花影を穴のごとくに跨ぎけり
玉突きのごと水鳥の騒ぎ出す
むらさきに犀はけぶりて大暑なり
竹を伐る頭の中の白帆かな
薄氷も胎蔵界も青きかな
闘牛の足跡ふかく菫咲く

梅という古典的な花も「梅まつり」ともなれば俗の中の俗を呈するから不思議である。その象徴が「ぎんぎらの焼却炉据」なのだろう。
花影の句は石鼎の「花影婆娑と踏むべくあらず岨の月」を思いだした。影を跨ぐときにその蔭が花影であるこを意識したのだろう。中村氏は対象の本意を攻めるのではなく、本意から差し出された世界を詠んでいる。

片山由美子第五句集『香雨』  2012年7月  ふらんす堂

2012年8月19日 日曜日

断崖をもつて果てたる花野かな
枯野より枯野の色の羊飼
大年の沙漠に見届けたる夕日
香水をえらぶや花を摘むごとく
風船に引かれ消えたる子もあらむ
大いなるマスクの人を待たせたる

朗読には声量のありったけを使い、パフォーマンスを駆使する方法と、日常的な音量で隣人に語るような静かな朗読の方法がある。どちらがいいというのではなく、それぞれの表現法である。例えれば片山氏の表現方は後者である。すべての句が日常の延長でさりげなく掬い取られていた。今回の句集には海外詠が多かったが、その海外詠もそうでない句も、平常心の続きで詠まれていることで共感出来た。

浅井陽子第二句集『紅鏡』  2012年7月

2012年8月18日 土曜日

四間取りのひとつは炉の間雛飾る
清水の舞台の下の恋ぼ猫
紙風船たためば舟のかたちして
東京の土産に椎の実をひろふ
桟橋にまで続きたる夜店の灯
蕪村忌やうすずみ色に霜崩れ

「王道をゆく俳句」という評をすることがよくある。王道とはどういうことなのかと私なりの言葉にしてみれば、俳句のいちばん基本的な道を辿っていると言うことなのだろうと思う。すなわち、写生派の根本を貫いていることなのだと思う。浅井さんの俳句はまさに「王道」を貫いている手堅い作品集である。

『雲取』1012年9月号 主宰・鈴木太郎

2012年8月17日 金曜日

百花風声      筆者 鈴木太郎

桔梗の花に折目や湖暮るる   岩淵喜代子

桔梗は秋を壊さないように包んでいる花だ。「湖」は「倦み」を内在させ、折目の付いた花びらの先に森閑たる湖が渺茫と開けている。句集『白雁』より

『天為』2012年8月号 主宰有馬朗人

2012年8月17日 金曜日

白雁句集評
『天為』2012年8月号 主宰・有馬朗人

新刊見聞録    筆者 矢野玲奈

岩淵喜代子句集『白雁』評 
「ににん」代表の第五句集。あとがきに「句集作りは、今の自分を抜け出すための手段のような気もしてきました。」とある。 

万の鳥帰り一羽の白鳥も
句集の題になった句。万の鳥から一羽をクローズアップする。作者も白雁のように目立つ一羽。抜け出そうとしている一羽。
幻をかたちにすれば白魚に

幻は形にできないもの。一方、白魚は小さくとも幻ではない。それでは、白魚を他の季語に言い換えてみることができるだろうか。他の季語では、重量感や質感が意識されてしまって幻から遠くなってしまうような気がする。
花ミモザ地上の船は錆こぼす
登山靴命二つのごと置かれ
船や登山靴の存在を大きく堂々と描く。構図がしっかりとしているのは、ユニークな題材でも同様。

十二使徒のあとに加はれ葱坊主
月光の届かぬ部屋に寝まるなり

葱坊主が一列に並んでいる様子を直接描いていないのに、読み手に映像を結ばせる。
狼の闇の見えくる書庫の冷え
今生の螢は声を持たざりし
尾があれば尾も揺れをらむ半仙戯

一方、心象的な作品は、季語の持つ抒情性を活用し、読み手に想像させる余地を与える。人気の無い静かな書庫と狼の闇が繋がっているという感覚。螢は声を失い、人間は尾を失う。漂う喪失感から代わりに得たものを探したくなる。
いわし雲われら地球に飼はれたる

存在するものとしないものを読む作者。その判断基準は地球。次に抜け出すのは地球かもしれない。

『八千草』2012年 創刊15周年記念号 主宰・山元志津香

2012年8月17日 金曜日

俳書紹介   筆者 山元志津香

 『白雁』 岩淵喜代子句集

「ににん」代表。句集評論多数。俳句らしい俳句に倦みはじめた作者の変貌と云おうか? 深化が歴然とし、しかし唸らせる珠玉の数々。自分を変える「憧れ」の旅を着々と上昇中、筆者も憧れの作家である。

今生の螢は声を持たざりし
桔梗の花に折目や湖昏るる
冬枯や小鳥の首のよく動き
万の鳥帰り一羽の白雁も
下萌えや雀の奪ふ象の餌

『円錐』第54号 代表・澤好摩

2012年8月14日 火曜日

岩淵喜代子句集『白雁』

     ―― クビキとせつなさ               筆者 山田耕司

  箱庭と空を同じくしてゐたり
 作者が生きる日常と、箱庭と、それらにとって空は共有されている、という発見。この句の意をここで汲み取り終えたとするならば、それはあくまで一句の示す「情報」に接しただけの段階である。読むにあたり、人間の身体が五官を通じて得る感性のもろもろを投入して句のフトコロに入り込んでこそ、「情報」は「作品」の顔つきになってくる。「空を同じくし」ているという感慨は、箱庭を見ながらではなく、空を見ながら得ていると読者は受け取ることだろう。読者の現実の身体はさておき、読解のために作品のフトコロに投入した身体は、箱庭も空もいっぺんに見ることが出来ないので、まずは空を見上げるしかないな、と判断するからである。同時に、作者から与えられた情報によつて、読解のための身体は、自らを箱庭の上に立たせて空を見上げる。「空を同じくしてゐたり」という表現から〈実感〉を得ようとすると、箱庭の外にいる作者の視点を追体験すると同時に、同じ空を箱庭から見上げることになってしまうのである。かくして、われらが身体は、伸縮し、かつ、複数の地点に平行して存在することを体験させられる。こうした体験が日常の感性に還元される時に、ふだんは意識することのない「私」の感性の〈辺境〉や〈可能性〉が、ふいに手応えを以て読者に立ちあらわれることになるのだろう。

 俳句が、もともとそういうふうに作られるものであり、かつ、読まれるものである、と限定することはできない。俳句には、意味から解放された言葉が定型という器に憑依するようにつくられる場合もあれば、む
しろ、等身大の入間の記録以外は俳句と認めないという場合もあって、ひとくくりにはできないのである。ともあれ、岩淵喜代子は、書き記されている情報を超えたところに読者を誘う方法を、俳句形式において自ら見届けようとしているようである。

  花ミモザ地上の船は錆こぼす
 花ミモザの形状や目でなぞるところの触感と、もはや機能や意味さえも失いつつある船の身より剥落する錆の存在感は、(季語十類推される物質)という方程式に落ち着くこと無く、読解における身体感覚を揺さぶることになるだろう。

  寒禽や匙はカップの向かう側
 カップの「向かう側」と「こちら側」との過剰な意味から解放されている〈距離〉、そして姿がカップによって見えなくなってはいるけれども、五感で類推しうる匙の〈質感〉。こうした感覚を受信する身体において、「寒禽」をとらえてみよ、と作者は問いかけてくる。寒禽目‥カンキンという音が、句における匙やカップのありようへの体感を下支えすべく意図されていたとしても、作者の配慮においていぶかしむところではない。
 現実の作者の身体が感じたことを報告するのではなく、読者の身体感覚を揺さぶることをこそ契機とする作品つくり。そうした営みがなぜ行われるのかは、これも一元的には述べることが出来ない。しかし、もたらされる句には、本来は有限な存在である身体が、時空を超えて、あるいは伸縮しながら、なお身体でありつづけることのせつなさのようなものがおしなぺて漂う。句集『自雁』には、いささか理が語られすぎることで重たくなっている句も散見出来るが、これらも、こうしたせつなさへの志向があればこそのことであり、句において〈情報〉としての側面が雄弁に勝ったものと思えばよさそうである。

 晩年は今かもしれず牛蛙
 残生や見える限りの雁の空
 今生の螢は声を持たざりし

 俳句の俳とは、非日常です。日常の中で、もうひとつの日常を作ることです。俳句を諧謔とか滑稽など狭く解釈しないで、写実だとか切れ字だとか細かいことに終わらないで、もっと俳句の醸し出す香りを楽しんでみませんか。(俳句雑誌「ににん」より)  「ににん」は岩淵喜代子が中心となったウェブ上の俳句雑誌。一読「何でもあり」のように見えるが、実は、存在における有限というクビキを客体化した上での宣言なのだろう。『白雁』を読むに、その意深まるばかり。
 小豆粥穢土も浄土もなかりけり

立秋も過ぎて

2012年8月9日 木曜日

120808_1216~01 (2)

muromegawajpg
5日の脚折地区の雨乞いが効いたかのように6日は雨だった。そうして7日の立秋、8日の今日と、猛暑が嘘だったかのように涼しい。正確に季節は巡ってくるのだ。窓のゴーヤも成り放題。今年は普通の青いゴーヤと白いゴーヤの苗を植えた。このところ白いゴーヤがつぎつぎ実って食べ尽せない。
黒目川の子供達は何を獲っているのやら。

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