子規庵へ

子規庵に久し振りに出かけた。寒い日だったが子規庵の中は硝子戸を通して日差しが隅々まで行き渡っていた。子規の病床に降り注ぐ日差しを思った。そこで目についたのが、「妹・律の視点から ーー子規との葛藤が意味するものーー」という冊子である。歌人阿木津英の講演記録である。これが一気に読ませる面白さだった。

「仰臥漫録」の中には律に対する不満が詰まっていたが、それが私には甘えて言いたい放題を言っているようで決して暗いものではなかった。子規の文章力が発揮されていると思った記憶がある。阿木津英の講演記録には、それと一対になる「病床六尺」との比較をしながら、当時の社会通念やら、子規が「仰臥漫録」を下敷きにしながら新聞に発表した「病床六尺」についてが語られていた。

「病床六尺」の中で、ことに目を引いたのが、看護をするものは、病人の傍らにいて心の支えになっていればいいのだという件である。多分律は家事が忙しくて、子規の相手などしていられなかったのだ。「仰臥漫録」のなかには「団子がたべたいな」というのに律は聞えないかのように無視していた不満が述べられている。そうして、「病床六尺」には、家事は女中でも雇っておけばいいのだと、何処かで聞いたような論が出てくる。

最近流行った「女性の品格」の中に似た論理があった。家事は現在は専門の業者がいるのだから、それを利用して女性は教養に励むべし、とあった。その答えが、噴飯ものであったが、子規は社会の先をゆく論理性を持っていたことは確かだ。

ところで、子規庵の日差しの中で知ったのだが、この子規の家族を保護してきた寒川鼠骨もまた、子規が亡くなった同じ六畳間で八十歳の寿命をまっとうしたようである。子規の家計を助けた人物の一人であり、今日の子規庵の保存貢献者である。しかし、最近、子規の孫、という肩書きで活躍している人がいる。

子規に子供がいないのに、と思ったら律が養子をとったようである。加藤恒忠の3男忠三郎を養子とした。
梅室道寒禅定門─良久─将重─常寅─常一─常武─常尚─常規─律─忠三郎─明
その最後の明が現在子規の孫を名乗っているようだ。そういうのも、孫というのかなー。でも律の孫というよりは、子規の孫と名乗るほうが社会的重みになるだろう。

司馬遼太郎は、かつて阪急電鉄株式会社に車掌としてつとめていた忠三郎のことを「人々の跫音」に書いているらしいから、読んでみよう。 ににん  

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