七月の水のかたまりだろうカバ
句集名は上記の句から採られている。この時期、カバを訪ねる旅をしていたのだという。「カバ」と「俳句」がある種の調和というかバランスのようなものを感じてきたから,とあとがきにある。以前から、捻典氏の俳句は「何だか面白い」という印象で捉えていたが、その表現になる軸が今回の一集から感じられる。
十二月ベンチはすでに鰐である
例えば句集の最初のページにある句。ベンチから鰐へはすぐに連想が繋がる。「梅咲いて庭じゅうに鮫がきている」の兜太の作品よりもはるかに明確に。
春暁のころがっているねんてん氏
父と子ところがっている桜雨
磯巾着になろうか昼をころがって
天然の男がごろり文旦も
ころがして仏頭を彫る冬の虹
ころがって朱欒と猫とあの野郎
ここに稔典氏の俳句思想があるのではないか。まさに「ころがり思想」がある。「父と子ところがっている桜雨」の図など、いい風景である。「取り合わせ」を主張していたような気がするが、それは、
象がふと横歩きして牡丹雪
寒晴れの日だった象の尻見てた
今回の句集からは、唐突にも見える取り合わせは見つけられなかった。言うなれば、日常の視点が動物たちへずらしているのだ。動物に視点をずらすことで、非日常に行き易い。
多分だが磯巾着は義理堅い
蟻たちにないはずはない耳二つ
カント氏の窓半開き揚羽来る
冬晴れて首から歩くキリンたち
ふきげんというかたまりの冬の犀
とにかく楽しい句集だ、「俳句は楽しくなくては」と坪内稔典氏は言っているだろう。
ご無沙汰してます
坪内稔典の句、以前から気になるし、ユーモアたっぷりで、面白い句ですね、、
動物園で作った句なのでしょうね、
「寒晴れの日だった象の尻見てた」
ころがってるといえば思い出します
義理の父は厳格な人で、義理の母はちょっとユニークな人で、
その父が母が直ぐねっころがるのを嫌がり、
皮肉めいて「又ころがってる!」と言ってた事を懐かしく思い出しました。
acacia さん
ほんとうに面白いですね。捻典さんは、たぶんあまりに気真面目な俳句に
抵抗しているのだとおもいます。なにか、ゆったりした空間が詠まれていますね。