嘘であり影である至高なひとくくり  平田雄公子

─岩淵喜代子の世界─     

 今回は岩淵喜代子(ににん)氏の第四句集『嘘のやう影のやう』(平成二十年二月・㈱東京四季出版刊)です。本欄では、既に第二句集「蛍袋に灯をともす」、第三句集「硝子の仲間」を取り上げさせて貰いました(「谺」平成十二年十一月号および十六年五月号)ので、四年振りにお馴染の作家との邂逅と言えるのですが、それだけに更なる句境の進展、詩興の深まりに期待しながら、じっくり読み進めます。

雨だれのやうにも木魚あたたかし
 単調ながら聞き入っていると、何時か心に沁みる「木魚」の音。それは、心臓の鼓動や自然の息遣いに通ずる、「雨だれ」のリズムのよう。そして、ショパンの名曲ピアノ前奏曲《雨だれ》を思い浮かべさせる。ひっくるめて「あたたか」な、春の気分横溢の句である。

釦みな嵌めて東京空襲忌
 「空襲」が日常的だった戦時下では、女性のモンペに代表されるように、何時でも避難したり、行動をおこせるよう、質素ながらきちんとした服装でいた。掲句は、前大戦末期の昭和二十年三月十日の東京大空襲によって、無差別に一般市民である老若男女多数が過酷な目に遭ったこと(死者約十万、焼失戸数約二十七万)を、「釦」を「みな嵌めて」往時を偲びつつ、切に悼むもの。そう言えば、制服などの上の方の「釦」を、一つ二つ外すのが、昔の不良少年(少女)の定番だったものだが。

消しゴムを使へば匂ふアカンサス
 「消しゴム」を使う場面は、ふっと緊張の緩む時でもあろう。窓外からか部屋の中からか、「アカンサス」のすっくとした花穂から、甘い香が「匂ふ」夏の夕べ。消しゴムの匂いとも重なり合って、即かず離れずの、蠱惑(こわく)的で不思議な時空ではある。

海風やエリカの花の黒眼がち
 「エリカ」の、紅紫色の筒状の花の真ん中に、「黒眼」。その正体は、雄蕊の先=葯(やく)の色である。淡い色の花弁の中の黒であるから、正に《黒眼がち》なのである。「海風」にエリカの花枝が揺れると、黒眼が幾つも飛び出そうな塩梅に、睨まれ圧倒されるのだ。

きれぎれの鎌倉街道蝌蚪生まる
 「鎌倉街道」は鎌倉に幕府が置かれた頃、鎌倉と地方を結ぶ主要道路であり、鎌倉幕府の御家人たちが《いざ鎌倉》と馳せ参じた街道である。しかし、近来関東圏の市街化・人口稠密の進展などにより旧時代の道筋の多くは寸断され、鎌倉街道も「きれぎれ」状態なのだ。そんな人間の歴史や都合は、忘れられてもいようが、傍らの池や水路には、今春も賑々しく「蝌蚪生まる」景が臨め、自然のサイクルは時代を越えて健在なのである。

古井戸をのぞきチューリップをのぞく
 人間は物見高いと言うか、好奇心旺盛と言うか、無名の「古井戸」だろうが、隣家の「チューリップ」だろうが、熱心に「のぞき」込むもの。この辺り、俳人なら尚更であろう。掲句の、取合せの面白さ以上に、《古井戸》から脈絡も、節操もなく《チューリップ》へ対象を換えるところが、抜群である。

御堂から地べたに戻る雀の子
 「雀の子」は無意識に、「御堂から地べたに」易易として「戻る」。謂わば仏の精神界から、俗世の塵界への移動であり、人間の位で謂えば、やんごとない殿上人から、地べたに這い蹲る下人への転落であろう。人間の約束事の底の浅さを嗤い、自然=雀の子の逞しさを謳ったもの。

一生のどのあたりなる桜かな
 自分にとって、今が「一生のどのあたり」なのか。誰しもふっと考え及ぶことがあろう。今年もまた「桜」が、若木も老木も、それぞれ春を謳歌するように、美しい花を咲かせている。桜の生涯のスパンは、人間のそれの数倍であろうから、比較仕様もないのだが、人生にあっての花盛りは一体、何時のことなのか。

春窮の象に足音なかりけり
 この四月十日に、神戸市王子動物園で国内最高齢(六五歳)のインド象諏訪子(すわこ)の死亡したことが報ぜられたが、掲句の象は、筆者ご贔屓の井の頭文化園のはな子象(六一歳)でもあろうか。「春窮」即ち春も終る頃、象が春を惜しむ筈も無かろうが、春闌の気怠るさにあるのか、ステップが大人し目で「足音」がしないのだ。

嘘のやう影のやうなる黒揚羽
 句集名となった作品である。「黒揚羽」の悠揚迫らぬ飛翔振りを写したものだが、「嘘のやう影のやう」と畳み込まれると、忽ち大逆転し、黒揚羽が唯一《ほんもの》であって、それを取り囲む全てが《嘘であり影である》ように思えてくるのだ。

陶枕や百年といふひとくくり
《平均寿命の増大によって、「百年といふひとくくり」の重みと言うか、質的な意味合いが変わってきた。等身大になった百年が、年代物「陶枕」と恰好の取合せである。》(掲句は『俳句』昨年九月号に発表されたもの。俳誌『松の花』同年11月号の拙文「現代俳句管見」より、転載。)

晴天や繰り返し来る終戦日
 あの「終戦日」の、八月十五日も朝から暑い「晴天」の日だった。戦後六十余年を経た今、偶々にせよ晴天も「繰り返し来る」気がするほどの永さなのだ。これに先んずる二つの原爆忌と合わせ、日本人として忘れられない、忘れてはならない日である。

もうひとり子がゐるやうな鵙日和
 「鵙」は、他の鳥から托卵された場合律儀に孵し、子育てもするそうだが、この場合はどうか。男にはこの感覚は皆目解らない。落し子が名乗りでた場合でも無かろう。また、「鵙日和」との整合性となると殆ど見当も付かないのだが。ヒューマンな、秋麗の白昼夢と解したい。

運命のやうにかしぐや空の鷹
 「空の鷹」の飛翔振りは、ホバリングやソアリングを含め敏捷果敢だが、中でも風を読み、獲物を狙っての方向転換における身のこなしは、圧巻である。我が身を放下し、引力を引き寄せ「運命のやうにかしぐ」のである。冬麗の空気を、一気に引き裂くために。

男とは女とは霜一面に
 最近は男女の社会的格差縮小が進行し、生物的性差すらも希薄・曖昧になって来たようだが、「男とは女とは」の問題は依然人類永遠の疑問であろう。「一面」を遍く覆う「霜」は広大無辺だが、男女の関係や生き様は千差万別、とても一筋縄ではゆかないものとした、句。

湯たんぽを儀式のごとく抱へくる
 「湯たんぽ」は、最近環境に優しい暖房器具として見直されているようだが、取扱は至って素朴。薬缶から湯を注ぎ入れ、寝室へ運ぶ段になると、中でぽちゃぽちゃ揺れている。栓さえ固く締めてあれば別に問題はない筈なのだが、なるべく揺れないように、「儀式のごとく抱へくる」体たらくなのだ。暮らしのアクセントを謳った、句。

山茶花に語らせてゐる日差しかな
 庭や垣根の「山茶花」が、「日差し」を浴びて明るく咲いている。花期が長い花であるから、何時でも正面を向き勢いのある幾つかの花を付けているのだ。作者は、山茶花のもの言いたげな風情を超えて、話を聞きとめているらしい。その語り口は、どのようなものなのか。
 
以上のとおり、前二句集同様に《歯応えのある、自在性に富んだ》作品群でありました。即ち、対象の本質に鋭く迫りながら、比喩となると奔放を極め捉え難く、《嘘のやう影のやう》に展開する詩の世界そして俳の境地を垣間見る思いでありました。つまり《のやうに》のフレーズが、生半可の指摘では無く、単なる類想に終わらず、別次元へ昇華するのです。更に言えば、《嘘であり影である》部分にある真・善・美への讃歌になっています。今後も、全人格的に現代を語り次ぐ俳人として、存分のご活躍を期待したいと思います。

  『谺』五月号   (筆者住所〒108-0004武蔵野市吉祥寺本町3-21-6-201)

コメント / トラックバック2件

  1. 渡邊時子 より:

     先日、目黒の庭園美術館で黒揚羽を見掛けました。玄関前の植込みの花の蜜を吸っているのでしょう。翅が漆黒に光っているのです。一瞬、岩淵様の「嘘のやう影のやうなる黒揚羽」のお句が頭をかすめました。と同時に平田雄公子様(私は「谺」では雄公子様の後輩です)の我田引句が思い出されたのです。ほんとうに美術館前の黒揚羽は、花を引き立てているようでもあり、花に引き立てられているようでもあり、という光景でした。
     ここに改めまして岩淵様の第四句集ご上梓をお祝い申し上げます。ますますのご活躍を祈り上げます。私もまた、貴誌「ににん」のHPで《テーマ俳句》への投稿をさせて頂くこともございましょう。その節はご指導宜しくお願い申し上げます。(渡邊時子 横浜市在住・谺同人)

  2. 渡邊時子さま

    お目に止まって嬉です。平田さまには何回も、鑑賞文を書いていただいております。どうぞ、楽しみながら俳句とお付き合いくださいませ。

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