俳句月評「明るさと余韻」 評者 栗山政子
急行の速度になればみな枯野 岩淵喜代子
(『俳句』二月号「枯野」より)
車窓から見る景色を自分に引きっけて詠むのは至難の技。窓から見えたと、言われても、それは報告の域を出ていないであろうし、なによりも風景の中に自分か立っていないものになっえしまう。
その点、掲出句には、枯野の広さ、枯一色が見えてくる。急行に変わる速度に実感がある。しっかりと窓の外を眺めている存在感がある。
俳句月評「明るさと余韻」 評者 栗山政子
急行の速度になればみな枯野 岩淵喜代子
(『俳句』二月号「枯野」より)
車窓から見る景色を自分に引きっけて詠むのは至難の技。窓から見えたと、言われても、それは報告の域を出ていないであろうし、なによりも風景の中に自分か立っていないものになっえしまう。
その点、掲出句には、枯野の広さ、枯一色が見えてくる。急行に変わる速度に実感がある。しっかりと窓の外を眺めている存在感がある。
作品の秀峰 評者 川島一美
狼の闇の見えくる書庫の冷え 岩淵喜代子
寒禽や匙はカップの向かう側
(「俳句」二月号)
程度の表わし方というのは難しい。これ位!と言って、両 手を広げてみせるシンプルなものから、それってどういうこ
と?と訝るものまでさまざまだ。この作品にある〈冷え〉の 程度はすさまじい。〈狼の闇の見えくる〉冷えだと言うのだ。
大胆であり、緊張感がある。しかし案外目的の本を探してい るうちに、狼に関する書物が目に入ったのかもしれない。〈書 庫の冷え〉というものが引き出した詩だ。
「寒禽や」の句にも惹かれた。窓外には〈寒禽〉が居て、飲 み物に使った〈匙〉をカップの向う側へ置いた、と言うだけのの景だ。しかし温かい飲み物をかき回した匙からは多少の湯 気が立っているだろう。いつものように向う側へ置く行為は、 向う側に居る〈寒禽〉へ近づけること。無機的に詠んでいるが、 作者の優しい眼差しが感じられる作品。
新・現代俳句鑑賞 評者 長野眞久
寒禽や匙はカップの向かう側
「俳句」二月号
庭に面したホテルのレストランであろうか。しゃれたティーカップで午後の紅茶を楽しむ。正式なマナーに疎くてよく分らないのだが、スプーンがカップの向こう側にあるのをいつも不思議に思っていた。それがずばり句にされた。カップ取手を向こうに半回転させて左手にもってくるのが正式と聞いたことがある。
作者は十分作法をご承知なのであろう。ゆっくりと冬の日を楽しんでおられるようだ。
岩淵喜代子句集『嘘のやう影のやう』 評 相子智恵
岩淵喜代子氏は昭和十一年東京都生まれ。昭和五十一年「鹿火屋」入会、原裕に師事。昭和五十四年「詔」創刊に参加、川崎展宏に師事。平成十二年同人誌「ににん」創刊代表。平成十三年、句集『螢袋に灯をともす』で第一回俳句四季大賞受賞。
箒また柱に戻り山笑ふ
多喜二忌の樹影つぎつぎぶつかり来
薔薇園を去れと音楽鳴りわたる
嘘のやう影のやうなる黒揚羽
一句目、もちろん自分で帯を柱の定位置に戻したのだ。けれど「山笑ふ」という山の擬人化の季語と相まって、箒それ自身が「やれやれ掃除がすみました。私は戻って休みます」と歩いて柱に戻ったように思える。そんな小さな箒を、大きな春の山が笑っている。二句目、自ら木々の影の間を歩いていったのだろう。しかし多喜二忌の樹影たちは、その影のほうから痛いほど私にぶつかってくるようだ。
三句目の薔薇園の閉園の音楽は、まるで薔薇たちのシュプレヒコールのように、薔薇をじろじろ眺めにきた私に「去れ」という。四句目、ふらふらと定まらない黒揚羽の飛翔。私か見ているこの黒揚羽は嘘ではないか、影ではないか。
‐‐-には「主体の確固たる自己」などIミリも妄信しない作者の姿がある。箒や薔薇や影こそが生き生きとした世界であり、書いている私はまぼろしではないかと思わせるまなざしがある。句柄の力強さのなかに、世界に対し、そして自身に対して、自嘲を帯びた距離感がある。それは詩的な距離感である。私はこういう句がしみじみ好きだ。
三角は涼しき鶴の折りはじめ
雫する水着絞れば小鳥ほど
ハッとする把握である。驚きながらも、これらの句には作者の生活に沿ったたしかな実感がある。
桐一葉百年待てば千年も
百年は昨日にすぎし烏瓜
小さな俳句に書きとめられた百年や千年は、桐一葉、烏瓜の静けさのうちに、一瞬にして過ぎ去る。第四句集。
現代俳句月評 筆者 中原けんじ
一枚の熊の毛皮の大欠伸 岩淵喜代子
俳句二月号「枯野」より
一読、男性の句だと思った。改めて女性句と知ったものの、この発見の大胆さに、少し後退りする?気持。とは云い過ぎであるものの、何と大らかな措辞であろうか。一刀両断の鞣し熊も本望かも?。俳句の楽しさをこの作者に改めて教えて頂いた気がする。
〈目も鼻もありて平や福笑〉
〈急行の速度になればみな枯野〉
どんなメガネを掛ければこのような切り口が見えるのか。今後の不思議さに注目。
秀句探訪
「俳句年鑑」2010年版より 筆者 中村龍徳
尾があれば尾も揺れをらむ半仙戯 岩淵喜代子
半仙戯はぶらんこの異名であり、半ば仙人になるような気分がすることからこう名付けられたという。ぶらんこの醍醐味は何と言っても風を切る爽快感、そして最高点に達し、落ち始める際の一瞬の無重力感覚であろう。重力から解放され、羽を得たように、あるいは大地に躍動する動物のように、半仙戯で人は人ではなくなる。それを掲句は「尾があれば尾も揺れをらむ」と表現した。仙人ならぬ、尾のある何かになる、と捉えたことで、風や揺れの感覚まで生き生きと表現できた。
17文字の世界 筆者 田口茉於
『俳句』2月号「枯野」より
数え日の街の起伏を蕎麦屋まで 岩淵喜代子
「町の起伏」という措辞が効果的。蕎麦屋まで歩く心の弾みも、数え日の忙しい町の様子も見事に表現している。その起伏を頭でたどるとき、道沿いに並ぶ店、一つ一つの賑わいまで目に浮かぶ。
現代俳句を読む・『俳句』2月号「枯野」より 金子光利
決闘の足取りで来る鷹匠は 岩淵喜代子
当然鷹を連れてであろう。決闘に向かうように思わせたのは、鷹が一つの武器のように見えたからかかもしれない。私は鷹を間近で見たことさえ無いが、単なるペットとしてでなく猟銃のような狩猟の道具としてみれば、それを携えた者の足取りが違って見えたというのも納得がゆく。
味わいたい俳句(37) 大牧広
梅の咲くふしぎ吾の居る不思議 俳句年鑑09年
あたらしい感覚の季感がある。梅はふっと気がつくと咲いている花。そこに、ぽっと自分が佇んでいる不思議な感覚、それがあたらしい。いかにも梅が咲きだしたという感覚が生きている。
現代俳句鑑賞 筆者 洲浜 ゆき
『俳句』2月号 作品16句より
一枚の熊の毛皮の大欠伸
急行の速度になればみな枯野 岩淵喜代子
一枚の熊の毛皮が敷いてあるのは民宿か旅館であろうか、熊が四つんばいになって、大欠伸をしているように見えるのは、旅館が閑散として活気がないからと。熊の大欠伸に世相を反映させたひらめきと俳味に感銘する。
二句目、鈍行の旅のよろしさ、急ぎすぎれば見えるものも見えなくすると世相へ警鐘をこめた作品。慣れの恐ろしさを鋭い詩眼によって指摘された思いがする。
他誌からの転載 カテゴリーのアーカイブを表示しています。
HTML convert time: 0.396 sec. Powered by WordPress ME